本当の事
変わり始める世界の中で、ダイは膝から崩れ落ち階段へと横たわるように倒れた。ショウの足元で苦痛に表情を歪めている。ショウは声も出せずに口をパクパクとしていた。
遠くから見ていた橘はその細い体から出せる最大の悲鳴をあげた。
最早声ではない。
ただの音だ。
パニックを起こしかけている橘は藤の手を振りほどいて駆け出した。そんな力がどこにあったのか簡単にほどかれてしまう。
橘はダイの元へしゃがみ安否を確認する。
動いている。
どうやら生きているようだ。だがそれもいつまで安心出来るか。腹部から血が出ているせいか、真っ白な着物に鉄臭い赤い染みが広がっていく。橘が矢を抜こうと掴むが、追ってきた藤が橘の手を掴んで制した。
「離して!」
「傷口が開く。今処置が出来ないんだからむやみに抜くんじゃない!」
こんな怒声を浴びた事がなかった橘は萎縮した。
藤は息を整え、頭を撫でて謝る。
「ごめんね、怒鳴って。でもお願い。落ち着いて」
ショウを見た。彼はダイの姿を見て放心状態である。
「どういうことか、説明してもらえるよね」
ショウの肩がびくりと跳ねた。首を左右にゆるゆると振りながらうわ言のように繰り返す言葉は「こんなはずじゃない」だった。
「おい、一体どうしたんだ!」
本殿にいたであろうスズが、千早を羽織った姿のまま駆け付けてくれた。状況を聞くより早く理解したスズは、ダイの傍らに座る。藤と橘は邪魔にならないよう階段から降りて離れた。
「ダイ、意識はあるか」
微かに頷く。腹から付き出している矢の先端を見れば尖矢だとわかる。この尖矢には見覚えがあった。神門で放たれたものと一緒だ。スズは千早を脱ぎ適当な大きさに丸める。
「嬢ちゃんたち。悪いがあっち向いててくれ」
これから処置をするのだろう。藤は頷き、彼らに背を向ける。橘も藤に習って背を向けた。
橘は目に見えて震えている。
当然だ。誰かに矢が刺さるなんて見ることの方が少ない。ましてや知り合った人に。冷静でいられるわけがない。
ダイのくぐもった苦痛の声があがる。舌を噛まないように布を噛ませているのだろうか。その声にすら橘は体を震わせてしまう。そんな彼女を労るように背中を撫でるが、橘はそれを拒むように離れた。
彼女の顔は疑念を孕んでいて藤を睨み付ける。
「どうして、…止めたの?間に合ったかも知れないのに」
言うべきか悩んだ。
この状態で信じてくれる保証はないし、今の彼女を説得出きるか自信がなかった藤は口を開こうとしない。
その行動が橘を苛立たせる。
「黙ってたらわからないでしょ…」
「…」
「何も話してくれない。ここにきてから、ずっと」
橘は藤を睨み付けたまま言葉を続ける。
「後で話す、後で話すって…どうして自分で考え込んじゃうの?わたしじゃ役不足?」
「そんなことない。ただ」
「こどもだから?年下だからって除け者にしてる?確かに友人だからって全部話すことはないよ?雪穂さんが話すまで待ってた…でも限界だよ。そりゃあ冷静な判断が出来ないかも知れない、でも何も知らないままじゃこっちも辛いんだよっ。何か役に立てたんじゃないかって考えちゃう。雪穂さんが話してくれたら、もっと早く気付けて回避出来たかも知れない。私だって知恵はあるの。雪穂さんみたいに詳しくないけど…。それとも、カラスさんに洗脳でもされてる?ダイさんを傷つけることが目的だった?答えてよっ!」
全部が溢れた。
友人である橘の心に触れていなかった。
彼女の我慢が限界を迎えて決壊し、一気に言葉が濁流のように押し寄せてくる。心が窮屈で、孤独だったのか、悲痛な訴えが藤へとぶつけられる。そう思わせても仕方ない振る舞いをしてきたのは事実だ。
橘は今興奮状態だ。
何をきっかけに更に爆発するかわからない為、言葉を慎重に選ぶ。
だから考えから抜けてしまっていた。
矢は一回では終わるはずがないと。
橘の後ろ。
先程矢が飛んできた辺りの草木が揺れた。脊髄反射の如く藤は弾かれたように体を動かした。橘の片手を思いきり掴み引き寄せて、自分と橘の場所が入れ替わるように体重移動をする。橘は何が起きたかわからずバランスを崩してその場に倒れてしまった。
それでいい。
藤は弓矢に背を向け、あちらからは完全に藤の背中しか見えない。転んだ橘が見上げた視界の中には、放たれた矢が映った。
橘は言葉なのかわからない声を発した。藤の腕を掴もうとしても彼女はそれを許さなかった。スズもショウもその場からでは間に合わない。
すべてがゆっくりに見える。
放たれた矢は藤の背中目掛けて山なりに飛んでくる。
恐怖に目をつむった藤はくるであろう痛みを待っていた。
頭上でパキン、という音がした。
どれだけ経っても痛みはこない。その代わりにカランコロンと聞き慣れた下駄の音が背後からする。
橘の視界は、全てを映していた。
目を固く瞑った藤の背後に確かに矢は飛んできていた。だが、それが到達するより速く横からカラスがその矢を下駄で蹴ったのだ。その勢いで矢は折れた。それが先ほどの音の正体だ。カラスは綺麗に着地し藤と橘を見る。
「間一髪やったな」
カラスは踵を返し、矢が飛んできた方を険しい顔で凝視する。
「狛犬の結界に穴が空いとるな。姉さんは間に合ったようやが、あっちは間に合わなかったんやな」
ちらりとダイ達を見る。ダイの腹部に千早を当てて止血しているスズと、焦点が合わないショウがぶつぶつと何か言っていた。
「か、カラスさん…」
「嬢ちゃん、生きてて良かったな。姉さんが来んかったら矢は嬢ちゃんに刺さっとったみたいやで」
え。
小さな声が漏れた。その声はやけに響いた。カラスから藤へと視線を滑らせて顔を見る。
藤と、目が合わない。
「私に刺さってたって、どういうこと?」
「姉さんは常世に触れたせいで、予知夢をみたんや」
あんたが、死ぬ予知夢を。
二回もな。
藤は、顔をあげない。
橘はその顔を見る。思考が止まってしまい、ただ瞳に藤が映されている。彼女の意識を戻したのは、ダイの呻き声だった。
みんなが彼に視線を向ける。腹部にはスズが羽織っていた千早が巻かれていた。傍らには先端を折って二つに分かれた矢が置かれている。
言わずもなが、それは赤に染まっていた。
「応急処置はしたが、このままじゃダイの力が戻らない」
「ダイさんの?」
カラスは周囲を警戒したまま、ショウを見る。その鋭い視線に気付いた彼はがばりと顔をあげ戦慄く。
「自分が何をしたか、わかるな?」
その言葉に弾かれたようにショウは立ち上がり声を荒げる。
「俺は、ダイを…この神社から出してあげたかったんだ!外を知らないダイを…ッ出してやりたくて」
「お前何を言ってるのかわかってんのか?」
「狛犬が外に出るのは禁忌やな。再三言うたはずや」
「あの人が教えてくれたんだっ」
ダイの呪縛ともいえる繋がりを、解呪する方法があると。
「カラスは何にも教えてくれない!だからあの人が、代わりに教えてくれたんだ。ダイを解放したいって言った。その代わり自由に出入り出きる俺がここから出られなくなるって。そんな事構わなかった!ダイが外を知れるなら俺はそれでもいいって!だからっ…」
「理由はわかった。でもな、方法がまずかったんや」
カラスは、ダイに近寄りミサンガを見下ろす。
「結い紐、櫛、果物。間違おても、常世のもんがこないなもん持ったらあかん」
古事記に書かれている神話、黄泉の国の話…イザナミとイザナギの神話を知っているだろう。
遠い昔。二人が祝言をあげ国産みをしていた頃の話。イザナミは火の神カグツチを生む際に火傷で命を落としてしまう。悲しみに暮れたイザナギが妻に会いたい一心で黄泉の国へ向かう。
妻は言った。黄泉の神と相談するまで顔を見ないでほしい、と。
そう言われた。それでイザナミが帰ってくるならと、イザナギは約束した。だが、妻に会いたい気持ちが強かったイザナギはちょっとだけならと覗いてしまい、イザナミを見てしまうのだ。蛆がわいた醜い姿のイザナミを。
怒り狂ったイザナミは鬼と一緒に追いかけてきた。
イザナギはソレから逃げるためにある道具を使ったのだ。
髪飾りを投げつけて葡萄を実らせ、鬼の気が逸れているうちに逃げる時間を稼ぐ。また鬼が追ってきたら櫛を投げれば筍が育ち、またもや鬼はそれに夢中になる。最後に黄泉比良坂の坂本で桃の実を投げ、鬼は逃げてしまったという神話。
「髪飾りは、みずらを投げたとされる。みずらなんて用意できひんから、大方この結い紐に髪も編み込んだんやろ。次に櫛、更には桃。ここまで言えばわかるな?」
ショウはそれでもわからないのか、カラスを見る。
「それは、狛犬をここから出す手段なんだよな…?」
「結果的にはな。この結い紐にショウの髪が編み込まれてたせいで解放は無理やったんや。不幸中の幸いやな」
本当なら桃に触れた時点で、ダイは死んでしまっていた。
神社から切り離され、外の化け物が容易に入り込み、瞬く間に喰われてしまっていただろう。
ここにいる全員。
誰もが声を失った。
確かに神社からは解放されるであろう。
出られるだろう。だがそれは、形をなくし自我をなくし、黄泉へと行く呪法なのだ。
「死ねば、誰でも出られるだろ」
カラスでもスズでも、ショウでもない。ダイなんて話せる状態ではない。この場にいない、初めて聴く声がした。
それは、どこからともなく突然現れた。
音もなく、気配もなく、狛犬の台座にハイカラな着物を着崩してまとっている男が立っていた。にんまりと笑っているのに、貼り付けられたように見えて酷く不気味だ。カラスは気付いていたのか驚きもせず、だが警戒を一層強めて彼を瞳に捉える。
見知らぬ男は台座からヒラリと降りて、腰帯に帯刀していた剣を抜いて右手に持ち、歩いてくる。カラスも荷物を持っていたのか大きな風呂敷包みをほどきながら速度を上げて歩いていく。
二人の行き先には、二人の人間がいた。
カラスは地面を蹴った。一本下駄は地面を抉り、玉砂利が飛ぶ。
「すい!」
藤は橘を引き寄せしゃがみこむ。
刹那、その頭上で金属音が鳴り響いた。
男は上段から剣を振り下ろし、カラスは持っていた風呂敷包みの中身でその剣を受け止めた。
鮮やかな深紅の風呂敷包みがはらり取れる。
その風呂敷は藤の手元に落ちた。
カラスが持っている物、藤には見覚えがあった。
それは、宝物殿で見た神具の剣だった。僅かにカラスが押されている。藤は橘の手をしっかり握り立ち上がる。
「走るよ」
それに答えるように頷く。
カラスの横を通り抜ける。深紅の風呂敷を握り締め、足がもつれそうになりながらも二人はスズ達の元へ駆け抜ける。それを不愉快そうに見る男は舌打ちをしてカラスの剣を横へ往なした。
「相変わらずのバカ力だな」
カラカラと笑いカラスを懐かしむように見た。
「ナギの兄さん…」
そう呟いたのは、脱け殻のように突っ立っていたショウだった。ナギと呼ばれた男をまじまじと見て、停止していた思考が動き出したのかショウは彼に問いかけた。
「おい、兄さん。どうして矢なんて射ったんだ。どうしてダイがこんな目に遭わなきゃならない?」
「おいおい、坊ちゃん落ち着け」
「あの三つをダイに渡せば、狛犬でも自由になれるって…」
「自由になれるだろ?なぁ?」
「ショウ。こいつに耳を貸さん方がえぇ。こいつは外のあいつらをけしかけてきた張本人や」
「おいおい、こいつだなんて泣けちまうじゃねぇか。せっかく久しぶりに会えたんだからよ」
久しぶり?彼は、カラスの知り合いなのだろうか。そうと断言出来なかったのはカラスがあまりにも冷たい目線をくれていたからだ。まるで、敵を見るような視線に男はまたも笑う。
「あの一矢で始末出来ると思ったんだがなぁ。神楽鈴の到着が早すぎだな、誤算誤算」
わしは後からすぐ追う。
カラスは確かにそう言った。
もしかしてこうなることを見越して、カラスはスズを呼びに行ったのか。彼らの元に辿り着いた二人はダイを守るように前に立つ。
見越していた。
あぁそうか。
どうして考えがそこまで至らなかったんだろう。
藤はこうなることをもっと早く気付くべきだったんだ。
だって、ダイを庇おうとした橘が射ぬかれないようにするということは、つまり。
矢の行き先は、ダイになって当然ではないのか。
どちらかを守るということはどちらかが、怪我をするということに気付いてしまった藤は、頭を抱える。
強烈な吐き気と目眩に足元がふらいた。
「姉さん?」
スズの声に反応した橘は藤を見る。すると酷く青ざめた彼女が膝から崩れおち頭を垂れている。体から血の気が引き脱力しているのがわかる。
「どうした?怪我人でも見て貧血か?それとも自分の行動のせいでこの惨状になっちまったことに気付いたのか?」
喉がひきつる。最善の行動が、違った最悪な未来になってしまった事に動揺している。
「可哀想に。おともだちを助ける為に、狛犬が射ぬかれる選択をしちまったばっかりに。あーなんて酷いんだ」
「雪穂さん…」
息が苦しい。どうやって呼吸をしていいかわからない。
どこから選択を誤ったのだ。カラスの言うように、橘を宝物殿に行かせるべきだったか。そうすれば、きっと橘もダイも射ぬかれなくて済んだかもしれない。
過ぎてしまった現実をこうすればよかったと何度も何度も反芻してしまう。今を変えられないもどかしさと申し訳なさに感情が持っていかれて正常な思考が巡らせられない。
すると、怪我をしていたダイが掠れた声で、藤を呼んだ。
「僕は、だいじょうぶです…。駆け付けてくれて、ありがとうございます」
「ダイさん…わたし…」
「僕たちはにんげんより丈夫です。この矢を受けたのがすいさんだったら」
常世は死んだ人間のくる場所だ。故に生きた人間は本来訪れることはない。そんな人間が、ここで死んでしまったら。
「帰れなかっただろうな」




