一話:全ての元凶
ピーンポーン
それなりの都会ならどこにでもあるような、それなりのアパート。
その一室、405と彫られたプレートが付いている以外特筆すべきところのないドアの右横に設えられたインターホン。
ピーンポーン
これと言って家に招くようなタイプの友人を持たない彼の部屋のそれを鳴らすのは、宅配便の配達員か、たまにおすそ分けをくれるお隣さんくらいなものだった。
ピーンポーン
しかし今日は宅配も頼んでおらずそのお隣さんは朝早くに家を出ている……にも拘らず、インターホンはかつてないほどしつこく鳴り響いている。
ピーンポーン
きっと宗教勧誘か押し売りの類に違いないと決めつけた部屋の住人は、再び二度寝――というか三度寝をキメようと……
ピーンポーン
バンッ!!
「やかまs――「お願いします!私の世界を救ってください!!」
耐えきれなくなった部屋の主――もとい僕のツッコミなどもろともせず一方的にそう言い放った彼女は、その勢いのまま戦国武将でさえ驚くほど鮮やかに両手両膝、そして額を地面へとこすりつけた。
「このとおぉぉぉぉり!!!!!」
「......は?」
数年前までの自分を忘れてしまったかのように熱い九月のある日。
これが僕と彼女――ヴァルミニアとの出会いだった。
◇◇◇
「すみません入れてもらっちゃいまして……」
ほんとだよ。
あの後約十分ほど様々な角度からお帰り頂くよう交渉を持ちかけたものの、彼女は『せめてお話だけでも聞いてください』の一点張りで一向に地面との大胆なスキンシップをやめる気配がなく、ついには僕の方が折れて部屋に入れてしまったのだ。
あれ以上続けていたらさすがに人目に触れかねない。
そしてそうなったら例え僕が何もしていなくともこのアパートに居づらくなってしまうだろう。というかなる。
なにより、このくそ暑いのにあれ以上一ミリも効果のない水撒きを続ける気力がなかった。
これが宗教勧誘の恐ろしさか。
「麦茶でいいですか?」
「あ、はいありがとうございます」
まあ、嫌と言われてもあとは産地直送水道水くらいしかないわけだが。
仕方ないので、もともと風呂あがりに飲もうと思って作り置きしていた麦茶をささやかな呪怨とともにコップへ注いでやる。
尚、注いでいる最中「向こうの分は淹れたてのあっつい麦茶とかでいいんじゃなかろうか」という思考が脳裏を過ったが、さすがの僕もそこまで鬼ではなかったらしい。
「お茶請けは――あ、そうだ」
・・
棚の中を漁っている最中、僕はそれを見つけてしまった。
いつだったかに友人からもらって、結局一袋を除き今の今まで死蔵していたお土産のクッキー。
尚、唯一消費されたその一袋の行き先は罰ゲームである。
というのも、これ、アホほど不味いのだ。
辛み・酸味・苦味・エグ味と砂利みたいな食感でSAN値がゴリゴリ削られる中、鼻を抜ける腐乱臭とアンモニア臭が混ざったような独特の香りがとどめを刺してくるこのクッキーは、挑戦者たちを悉くリバースの境地へと叩き落していった。
さすがの彼女もこれ食って吐いたら帰るだろう。
そしてそんなヤバいものを平然と客に出してくる頭のいかれた住人の元になど二度と来ないことだろう。
ふっふっふっ……我ながらいい案を思いついた。
悪いが私は眠い。
眠いのだ。
邪魔者にはさっさとご退場願おう。
そんな怨念のような何かを内心で練り上げつつ、それらをのせた盆をもって歩き出す。
『特に東海三県における予想最高気温はいずれも四十三度を超え、過去最高を記録しています』
僕が戻って来たのに気付くと、女性はテレビの電源を切った。
一瞬『いくらなんでも他人の家でくつろぎすぎだろと』とかつぶやきかけたが、寸前で『戻って来るまで適当に見ていてくれ』的なことを言って自分でつけたんだったことを思い出した。
……やはり、早急に睡眠を取りなおす必要がありそうだ。
「はい、どうぞ」
「わざわざありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず」
用意した諸々をテーブルに並べ終えた僕は机を挟んで彼女と対面する方のソファに腰を下ろした。
・・・・・・・
「これ、私の友人が海外旅行に行った際その味に驚いて思わず買い込んできたそうで、私も何箱かもらってしまったんですがちょっと数が多くて持て余してしまっていたんです。なのでもしよかったら遠慮なく召し上がってみてください」
嘘は言ってない。
「はぁ、そうなんですか……では、一ついただきますね」
「ええ、ぜひ」
さーて、どんな反…………の、う…………………………
「あら、ほんとうにおいしいですね!こんなおいしいもの私がいただいてしまっても本当によかったんですか?」
なん……だと…………ッ!?
馬鹿なッ!!
こいつのヤバさはやせ我慢でどうにかごまかせるようなレベルではない!
それは身をもって体験してる!!
なにせ件の罰を受けたのはこの私なのだから!!!
……つまり…………こいつ、素で狂ってやがる!!!!
おい、何ほほ笑んでんだそれそんな笑顔あふれる食い物じゃないから!
ていうか正直何入ってるかわかったもんじゃないんだから!!
吐け!
今すぐ吐け割とマジで!!
と、いまさらそんなことを言い出すわけにもいかずどうしたもんかと思い悩む僕とは対照的に、女性は不思議そうに小首をかしげた。
いや、そんな不思議そうにされましても……え?これ僕がおかしいの??
「……改めて、本日はどういったご用件でしょうか?」
まだ若干笑顔が引きつっている気がするが、もはや一周回って開き直る(素直に話を聞く)ことにした。
まあ、最悪余りにもしつこかったらとことん話を聞いたうえで罵詈雑言浴びせて追い返すことにしよう。
……というか、狂人的すぎる味覚に気を取られて半ば忘れかけてたが、そもそもこの人何しに来たんだ?
思えば、宗教勧誘ってのもただの個人的な推測でしかないし。
えーっと?…………ああ、そうそう。
なんか私の世界だなんだとかぶっ飛んだこと言ってたんだっけ。
……いや、やっぱ宗教勧誘だろ。
「あ、えーっと、まず私はヴァルミニアと申します」
そう名乗って軽く会釈するヴァルミニアさん。
思えばここまで開幕土下座やらダークマタークッキーやらのインパクトであまり目に入ってきていなかったが、落ち着いて見ればすれ違った全員が振り返るのではなかろうかと思えるほど整った容姿をしている。
切れ長の目に長いまつげ、高い鼻。
すらりと伸びた首筋から覗く肌はなめらかで、肩甲骨の下あたりまで伸ばした黒髪は、先の方にゆるくパーマがかかっている。
ただ、一つだけ。
……彼女の容姿はどこからどう見ても日本人。……のはずなのに、どこかそれに違和感――より正確にいうならば、その事実をそのままに受け入れることに対する些細な抵抗感のようなもの――を感じる。
いかんとも表現しがたいが、無理やり例えるなら外国の限りなく日本人風な顔立ちの人を無理やり黒髪黒目に染めたかのような、そんな違和感。
僕の知る限りの――少なくともハーフやクウォーターといったような類のそれとも、また違う気がする。
だが、そんな些細な引っかかりや目の前でなおも続く自己紹介の内容など遥か彼方へぶっ飛ばすほどの圧倒的な違和感を、彼女はその身に纏っていた。
比喩ではない。
なんたって、目の前の狂人はこのくそ暑い中どう見ても冬用であろう分厚いベージュのコートに白いロングスカートとかいう季節外れなんて次元じゃない服装で平然と喋っているのだから。
これを街中で見かけるためには雪女と誤解されるレベルの冷え性か、あるいはここを真夏の我慢大会の会場と勘違いしているかといった様な極めて特殊な条件を要するだろう。
少なくとも、自分ならこんなのが白昼堂々町中を闊歩していたら先ほどとは別の理由で振り返る自身がある。
――でして、つまりこことは別の世界を管理している神です」
「はぁ、そうですか――」
そんな思考に意識を持っていかれている内に、彼女の自己紹介は終わってしまった。
――ん?
今、なんて言った??
他のこと
服装に気を取られて特に何も考えず返事をしてしまったが、聞き間違いじゃなければ今、こことは別の世界を管理している神とかなんとか言ってなかったか?
もしかして、本当に頭がおかしい部類の人間なのだろうか……?
それとも、この暑さで頭をやられてしまったのだろうか。
これで彼女の顔に笑みの一つでも張り付いていてくれれば冗談か何かだと思うこともできたのだが、生憎とそこにあるのは隅々までもの真面目だった。
こうして実際に自分事として体験してみると、転移系ラノベの主人公たちはよくそんな簡単に目の前の不審者を神だと認識できるな……。
(いろいろと疑問はありますが、 いきなり全部聞いてしまっては本題がぶれてしまうでしょうから、とりあえず、先にあなたの目的についてだけお話ししていただけますか?)
「……正直突っ込みどころしか見当たらないんだけど、それにいちいち反応してたららちが明かないし何より僕がつかれるんで、とっとと本題に入ってくれませんかね」
つっこみ
本当に色々と聞きたいところではあるのだが、どう考えてもあまり関わらない方が良さそうなのでやはり適当に話を聞いて断って、なるべく早くお帰り頂こう。
「はい。えっと、では……先ほどもお話ししました通り、本日ここに来た目的はあなたに私の世界を救っていただくためです」
・・
アレは話したうちに入るのだろうか。
そして、やっぱり頭がおかしいんじゃなかろうか。
「……えー、それはあれですか?いわゆる宗教勧誘ってやつですか?それともRPGゲームの宣伝かなにかですか?今時珍しいですね」
いや、前者はともかく後者は昔でも大概珍しいような気がしないでもないけど。
と、僕がそんなことを考えていると、その張本人はそんな自覚などないとでも言わんばかりの様子で頬を膨らませて抗議してくる。
「ち、ちがいますよ!ゲームの宣伝とか宗教勧誘とかそんなものじゃなくて、私は本当に、あなたに私の世界を救って頂きたいのです!」
この人が座るべきはうちのソファーではなく診察室の椅子なのではなかろうか。
そもそも、彼女の目的が何であったにせよやはりもう少しやりようはあったと思うのだ。
・・・・・・・・・ 新手の観光名所
少なくとも、直射日光の降り注ぐくそ暑い玄関前で土下座岩と化す以外のやり方が。
やっぱりこれただ頭おかしいだけ――?……何か、違和感がある。
……なんだ?もしかして、僕は何か大事なことを見落としてるんじゃないか?
……いや、考えすぎか。
――それは、僕がそう結論付けた、まさにその時だった。
「――!?」
おかしい。
彼女は、正直言ってすごく胡散臭い。
だってそうだろう。
このクソ暑いのに冬用コートだわいきなり土下座してくるわ神だわ異世界だわ挙句それを救えと。
どれか単体ならともかく五つ揃えばそれはもはや何かのドッキリだろう。
というかなんなら胡散臭いとか以前の問題だとすら思う。
・・・・・・・
そう、そうなのだが……そのはずなのに、なぜか、彼女の言っていることがすべて真実だとわかってしまう。
いや、ありえない。
異世界だのなんだのって、そんなものはせいぜい創作と一部特殊な病を患った人間たちの脳内くらいにしか存在しないはずだ。
昔、某三大宗教に傾倒していると言っても差し支えない友人に聞いたとき、彼はこう言った。
フィクション
『え?神?神話?そんなの作り話にきまってんじゃ~ん』
と。
そう言いながら、彼はけらけらと笑っていた。
こんなんが信者で本当に大丈夫なのだろうかと思った。
・・
だが一方で、ソレが普通なのだ。
・・
コレはありえないはずなんだ。
・・
しかし、実際問題彼女の言っていることは紛れもなく本当だった。
彼女の告げた一言一句が、僕の中で勝手に現実味を帯びていく。
真実だと沁みわたる。
これが、神ってことなのか?
「……ひとまず、要件は理解しました」
気づけば、僕は勝手にそんな返事をしていた。
まじか……じゃあ本当に――って、ちょっと待て。
つまりこの人(?)神なんだよな。
ならわざわざ異世界人に任せずとも、自分で解決できないのだろうか?
ふと頭に浮かんだ疑問を敬語に直してそのまま口に出すと、彼女は少し暗い表情になりうつむいた。
言ってから気付いたが、自分で解決できるならわざわざこんなボロアパートまで来てないか。
「……本当は、私も自分で救えるならそうしたいんです」
その声音には、悲痛の色が垣間見えた。
「でも、私では無理なんです。『神は世界に直接手を出してはいけない』これが長年保たれてきた神界の秩序であり、絶対のルールです。なので、一部の例外といくつかの暗黙的に許容されていることを除き、神々は原則世界に干渉できないししないのです」
「暗黙的に、許容……?」
僕が半ば無意識的に気になった部分を繰り返すと、彼女は一つ頷いた。
「はい。そもそも、このルールがあるのは神がその力をもって直接干渉すると最悪世界が壊れてしまう、というのが原因ですから。屁理屈の様なものではありますが、神の力が直接世界に触れないか、触れてもその影響が無視できるほど小さなものであれば良いんです。例えば神託や祝福、加護等がこれにあたります」
要はゼロもゼロコンマ一も四捨五入すれば全部ゼロだからオーケーってことか。
なるほど、確かに屁理屈だ。
「それでも神託を告げれば国が動き、祝福や加護を与えた者はその神の得意分野に関する様々な恩恵を受けることができるので、最終的にはとても大きな影響になることが大半なのですが」
「要はその神自身が世界に舞い降りたりさえしなければいい……ってことですか?」
ヴァルミニアは小さく頷いた。
「例えば加護なら、世界の中にある一つの宇宙の一つの星のほんの数人程度と言う極極小さい部分に極めて小さな影響を与えるだけのものですから」
ヴァルミニアは麦茶を一口飲み下すと、まあさすがに世界全体に祝福や加護をばらまいたりしたら問題になりかねませんけどね、と付け足す。
「ただ、逆にいえばこの方法でできるのはその程度のことです。そして、そんなもので変えられるほど破滅の運命は甘くありません」
……まあ、それはそうだろう。
そうじゃなければ今頃僕はだらだらと動画三昧の午後を過ごしてるか、あるいはまだ夢の中だ。
「それで、他の方法として、受肉、というものがあります。これは、雑にいえば自らの魂を肉体の内に封印して活動する、というようなものです。
「――ああ、なるほど。つまりこれなら神としての力は使えないので地上で活動しても世界に影響を与えることはない、と?」
ヴァルミニアは静かに頷いた。
もしかして、今ここに居るのもその受肉した体なのだろうか。
「その通りです。これなら、神が地上で活動しても問題はないのです。……問題はないのですが、この方法には別の問題がありまして……」
彼女は徐々に顔色を曇らせていき、俯いてしまう。
僕があえて何も言わずにいると、やがて少し言い辛そうに切り出した。
「その、私は戦闘関連の神ではないうえにまだ低級神にすらなれていなくて、受肉して人間として活動したところで大したことはできないのです。……あ、ちなみにこの体も受肉したものなのですが、今あなたに襲われたら普通に死にます。肉体だけですが」
なんか今さらっととんでもないことを言っていた気がするがいちいち突っ込んでたら日が暮れそうだしスルーしよう。
というかやっぱり受肉して――あ、もしかしてそれがこの違和感の原因なのだろうか。
まがい物の肉体故のディティールの差異…………とか?
現状確かめる術はないので推論でしかないが、間違っていたとしても恐らくそう遠くはないんじゃなかろうか。
ミーン…ミーン…ミーン…
外ではうだるような暑さにも負けず、セミたちが元気に鳴いている。
僕達は、特に示し合わせたわけでもないがほぼ同時に麦茶へ手を伸ばした。
いつの間にやら水滴に覆われていたコップに、カラカラと氷が躍っている。
……さて。彼女は完全に黙ってしまったし、何か話題を……あぁ、そうだ。
「ちなみに、その世界は現代日本の異世界好き達が一般にイメージする様な、いわゆる中世ヨーロッパ風な剣と魔法のファンタジー世界、という認識で合ってますか?」
どうでもいいが、およそ千年にも及ぶ中世ヨーロッパの歴史は果たして"風"くらいでカバーしきれるものなのだろうか。
「あ、はい。その認識で大丈夫です」
しきれるらしい。
「じゃあ僕も、魔法、使えるようになりますかね?」
「…………そうですね……この世界からあちら――私の世界に行かれた方は、それが転生でも転移でも大抵の場合強力な魔法が使用可能ですし、それだけでなく身体能力についても基本的には強化されます」
「なるほど」
それはちょっと興味出てきたな。
いわゆる転生特典という奴だろうか。
そういう事なら向こうに転生しても何とかやっていけるかもしれない。
ま、どのみちこの世界に大した未練もないし、せっかくのチャンスだ。行ってみてもいいかもしれない。
――ただ、その前に。
「……一つ、お聞きしたいことがあります」
僕は柄にもなく言葉と表情に重みをもたせることを意識しながら、ヴァルミニアを見据える。
「は、はい……なんでしょうか」
彼女もその雰囲気を察したのか、少し表情がこわばった。
「はっきり言って、僕はごくごく平凡な人間です。そのままなら言うまでもないですが、例え最強の力を与えられたとしても中身がこれでは下手をして大怪我を負い、碌に社会保障もない世界で苦しい生活を強いられることになるか、あるいは――
数秒、途方もなく重い沈黙が僕達の間にある空間すべてを埋めていた。
――死ぬ」
一言の後、再び沈黙がその姿を鮮明にしだす。
今までけたたましく鳴いていたセミ達も、まるで何かを察したかの如く鳴き止んでしまった。
「……と、いう事もあると思うんです。そして、仮に五体満足で世界を救ったとしても、それで得られるものは何ですか?富?名誉?酒池肉林?」
――いつの間にか、僕の口は自然に動いていた。
「…………ぶっちゃけ、僕は現状に満足しています。ただ何となく働いて、余った時間で適当に趣味をして、たまにおいしいものを食べて、寝る。それだけで、……それで、十分なんです」
――そうか、そうだったのか。
「……このささやかな幸せを捨てて、死ぬより悲惨な目に合うリスクを負って。……そうまでしてわざわざ赤の他人を救う理由なんて、僕にはないんですよ。……ねぇ、ヴァルミニアさん。――」
――だから、心のどこかでずっと靄を感じてたのか。
「――それを踏まえたうえで、あなたは僕が納得するだけの報酬を用意できるんですか?」
話し始めた時は、単に報酬を聞きたいだけだった。
だが、言葉を紡いでいく内にいつの間にか、ずっと胸の奥にあった靄――あんなにあこがれ夢想したはずの異世界転移に、どこか気乗りしないこの不可思議な心情――その答えが、こぼれていた。
ああ、そうだ。
確かに僕は、現状に満足している。
少なくとも、今の生活を捨てリスクだらけの異世界へ赴いてまで得たいと思うものは、何もない。
……なるほど、だから妙に気乗りしなかったのか。
思考の淵から意識を持ち上げ、対面に座る女神へと視線を戻す。
……彼女は、何を言うでもなくただ顔を伏せていた。
やはり、死ぬかそれ以上の目に合う可能性は十分にあるらしい。
そうして、おそらくそれなりの時間気まずい間を開けた後、彼女は唐突に口を開いた。
なぎ
「――確かに、私に凪宜様が満足できるような報酬を用意することはできません」
思ったよりもはっきりと言い切った彼女の瞳には、確かな決意が見えた。
――ってあれ、そういえば僕、名乗っただろうか……ってまあ、今更か。
「もしかすると、得る物よりも失う物の方が大きいかもしれません。死ぬ可能性も、十二分にあります」
その整った顔に張り付くつらそうな表情が、これが彼女にとっても苦渋の決断なのだという事を伝えてくる。
「でも……それでも私は、私の世界に住む命を……今日を生きる多くの命を、明日生まれる小さな命を、見捨てたくはないんです!!」
僕達の間に、何度目かの沈黙が流れる。
ミーン…ミーン…ミーン…
いつの間にかまた鳴き出していたセミの声だけが、この八畳半の部屋に充満していた。
――あるいは、最大多数の最大幸福、か。
ふいに、いつかにゲームかアニメかで見たようなシーンがフラッシュバックする。
そして、深く、ため息をついた。
――自分が少数側であったことを嘆くように。
「で、具体的には何をすればいいんですか?それを聞かないことにはなんとも言えせんね」
沈黙を破った僕の言葉に対し、目を合わせた先の彼女は驚いたような、まるで「いいんですか!?」とでもいうかのような顔になってそのまま固まってしまう。
いや、まだ行くとは言ってないからな。 ・・・・
と、この状態からそんなことを言えるような度胸があるなら僕はもうとっくの昔に死んでるわけで。
かといって肝心のヴァルミニアは驚きすぎてその状態からいつまでたっても戻ってこない。
仕方がないので何をすればいいのかは一旦おいておいて、途中から気になっていたことを聞かせてもらおう。
「ところで、そもそも一体どうして世界を救わなきゃいけないような事態が起きたんですか?」
まずはこれだ。
そもそも何が原因でよそ者である僕なんかを呼び込むはめになってしまったのか。
普通に考えて神が直接出向いてくるなんて異常事態がそんな頻発しているとは思い難いしね。
「ああ、えーっと、どこから話しましょうか……」
僕が声を発して数泊、ようやく我に返ったヴァルミニアはそう言って少し悩むそぶりをみせる。
「そうですね、では――
ヴァルミニアは膝の上で軽く手を組むと、どこか遠くを見つめるような目をしてぽつりぽつりと語り出した。
――きっかけは、大昔に色々あって世界が終わりかけたことです」
かつてここまで気になる色々が存在しただろうか。
「その危機自体は、私の前々任者が向こうの世界の人間に神器を授けたり神託を授けたりしたことでなんとか去りました。ただ、その時ちょうど前々任者と前任者との入れ替わりがありまして……引継ぎの際、授けた神器の回収が忘れられてしまったのです」
いろんな意味でざっくりしてんなぁ……って、神器を授けるのは良いのだろうか。
そう思って聞いてみたら、今回はそもそもの”手を出してはいけない”というルールが適用されない例外の中でも特に稀な事例だったらしい。
「それで、それからしばらくは特に何もなかったのですが、ある時偶然多くの天災が重なり、その天災で家族や家財を失った人々の負の感情が大量に溢れ、それらを吸収した神器がやがて意思を持ちます。――いえ、正確にいえば神器は元から簡単な指示くらいなら理解できる知性を持っていたのですが、それが強く濃い負の感情や思考に影響されて、より確固たる自我を確立してしまったんです。……悪い方向に」
意思を持つ道具――つまるところがインテリジェンスウェポンって奴か。
AIみたいなものだろうか?いやでもわざわざ『知性』って言い方をするあたりもしかすると本当に生物の様な思考能力があるのかもしれない。
というか、神器って武器である以上負の感情と接するのは必然だろうになぜそれを吸収する性質なんてものをもっているのだろうか。
ちょうど言葉が途切れたので、僕はこの新たに生まれた疑問を投げかけてみた。
――が、彼女はなぜか首を横に振った。
「そうですね……実際には少し違うのですが、イメージとしては、元々神器にはその場の状況や学習内容に合わせて少しずつ思考パターンを組み替えるプログラミングの様なものがされていたんです。それゆえに神器とは本来定期的なメンテナンスを必要とする繊細な道具だったのですが、あまりにも長期間放置されたせいで多くのバグを抱え込み、その結果運悪くあふれる負の精神エネルギーを能動的に吸収するようになってしまった、という感じです」
僕がうなずくと、ヴァルミニアは続きを語りだした。
「仮にその段階で気づくことができればギリギリなんとかなったのですが、神器の存在を知らない前任者は結局最後までその存在に気づくことができず、二百年ほどの時が流れてしまいます」
二百年……頑張っても精々百年かそこらしか生きない僕たち人類からすればずいぶんとすっ飛ばしたよう感じるが、まあ神からすれば下手すりゃ一秒にも満たない感覚なのかもしれないな。
地球の歴史を一年に縮めると人類が生まれたのはほんの数十秒前とか言うし。
それにしても、負の感情を吸って邪神化した神器ね......
「あの、要するにその神器が邪神になったんですよね?二百年もの間、そいつが暴れたりしなかったんですか?」
あるいはどこかに身を潜めでもしていたのだろうか?
と、そんな僕の予想はまたしても的外れだったようで――
「あ、いえ、この程度では邪神にはなりませんよ」
「え」
ここからの説明が思いのほか長かったので予約すると、神器には何千何万というセキュリティやセーブ機能、セーフティといった類のものが設定されているらしい。
そして、先ほど挙げられたバグを抱え込んでしまった部分というのはいわばマンションの一室のようなもので堅牢に区切られた他の部屋にそのバグが波及することはないためこの状態でも神器の大部分は問題なく稼働していたようだ。
さらに、もし仮にそれらセキュリティのすべてを何らかの形で突破された場合、今度は幾重にも張り巡らされた自己崩壊プログラムが作動し、自壊するそうだ。
それに加えて、そもそも大前提として邪神になるには神器として作られたときに与えられた魔力量ごときでは砂粒程度にもならないほどの魔力が必要な上魂も必要になってくる。
故に、神器から邪神などそうそう生まれることはないのだそうだ。
「なるほど……でも逆に、それだけ条件が厳しいならその邪神が生まれてしまったのってもしかして人為的な何かが絡んでいたりするんですか?」
何気なくこぼしたその言葉に、ヴァルミニアは何かを言いかけた後顔をそらして、「いや、これはまだ――」や「かえって混乱を――」等とブツブツ小さくつぶやいたあと、最終的に手をたたいて「順番に話していくのでそれについてはとりあえずいったん置いておきましょう!」とはぐらかされた。
どうやら僕はあまり触れられたくないかめんどくさいことに片足を突っ込んでしまったらしい。
「それでですね、ある時その神器が置かれていた場所にかつてないほどのマナ――自然界の魔力が溜まってしまい、最終的にあたり一帯を吹き飛ばすという大災害が起こってしまったんです。さらに、不運は続くものでその時発生した諸々のエネルギーが神器のエネルギーを排出する部分へ逆流してしまいまして、膨大なエネルギー量に処理が間に合わずほとんどの機能が破損した上、普通そんなことになれば自己崩壊プログラムなど関係なく自壊してしまうはずのところを奇跡的な悪運で何とか切り抜けたらしく、さらに吸収した付近住民の魂を無理やり分解して強引に再構築することにより自らのものとし、邪神化してしまったのです」
そんな、なんという奇跡的な運のなさ……いや、無数に世界があるのだとしたらそのうちの一つでくらいはそんなことが起こっても全体としてはむしろ隔離t通りなのか?
あまりそういうことには詳しくないので何とも言えないが。
「その時ようやく未回収の神器――もとい邪神の存在に気付いた前任者は、急遽人類に神託と邪神化した物とは別の神器を授けました。幸いにも邪神は生まれたてでまだ弱かったためなんとか封印し、その後神器は本来のルール通り与えられた者の願いを可能な範囲で叶えるのと引き換えに回収されました」
「よかった、今度はちゃんと回収したんですね」
僕の茶々に、彼女は苦笑で返した。
なるほどなぁ……なかなか壮絶な世界だ。
そう考えると、やはり魔力なんてない方が人類は幸せに生きられるのかもしれない。
しかしまあそれにしても人々を救うはずの神器がむしろそれを害するようになるとか、何とも皮肉めいた話だ。
と、勝手に終わった気になっている僕がそんなことを考えていた矢先、彼女の表情に、再び影が差した。
「――ですが、事態はそれで解決……とはいきませんでした」
おっと?
急に雲行きが怪しくなってきたぞ??
というか、そういえばこれどうして"僕が向かわなければならない"世界の危機が起こったのかの話だったね。
じゃあハッピーエンドで終わるわけないよねだって現在進行形でバットエンドまっしぐらなんだもんねそういえば。
「というのも、その時邪神に施した封印はもともとは永遠に続く設計で、一度発動すればよほど高位の存在でもなければわずかな歪みすら与えられない、世界から――というより……そうですね、この世界ではまだ当分見つからない概念なのでうまく説明できませんが、たとえるなら三次元の世界に無理やり新しい方向軸をくっつけてその頂点に括り付けるような、どちらかと言えば封印というより削除や隔離に近いものだったのですが――」
「つまり、四次元の世界に追放するということですか?」
「いえ、新しい方向軸というのはあくまであいまいな比喩のようなものですし、そもそも邪神とは曲がりなりにも神なので次元や位相の違いなどとは関係なくすべてに貫通して存在しますから――いえ、ややこしくなるのでやはりこれについて詳しく話すことはやめておきましょう。ともかく、『本来はすごく堅牢な封印』のはずだったのです」
どうやら、人類はまだまだ知らないことの方が多いらしい。
「ところが、どうやら封印を行った際に邪神を崇拝する者達の手によって術式の一部が書き換えられてしまったようで、封印は物理的な空間を伴う八次元の円柱のようなものになってその影が地上に残り、しかも百年ほど前その封印球を管理していたあたりで起こった大規模な魔力災害の衝撃をもろに受けてかなり不安定な状態になってしまいました」
「封印球……は封印のことですか?」
「ああ、はいそうです。三次元世界から見るとちょうど球のような形なので、現地では封印球と呼ばれているのです」
ちょくちょくわからない概念は出てきたが、恐らく主要な部分は理解できているだろう。
それにしても、何気に優秀だな狂信者。
下手したら神よりもよっぽど有能なんじゃ――いやまてよく考えたらもしかして今回僕が呼ばれたのそいつらのせいか!?
「そういった事情で、現在封印はいつ効力を失い始めてもおかしくない状態にあります」
そいつらのせいだああああ!
というかちょっと待て、今の話をまとめると、つまり敵は邪神てこと?どこぞの魔王とかじゃなくて?
じゃあ何か?邪神倒せって??神だよ???無理だよ????
しかし目の前の女神は僕がそんなへっぴり腰でいることなど考えてもいないようで、容赦なく話を続ける。
「一応、封印が効力を失い始めても完全にその機能を失うまで最低でも十数年はかかるはずなので、そうなった際は神託を授ける予定になっています」
いやいや、だとしたらその世界泥船にもほどがあるでしょ。
「神託を受けた各国はほぼ間違いなく勇者を召喚しようと動き始めるでしょうが、正直なところ焼け石に水です。神とは、その前に立ったならば、常人ではただ動くことさえ許されないのです」
恐らく僕も動けないと思います。
常人以前の理由で。
そんな脳内返答が通じるはずもなく、彼女は話の大詰めに入るためか改まった様子になり僕の眼を見た。
「ですがそれは同一世界の存在に限った話です。そこで、如月凪宜さん。あなたは封印が解け始めるのと同時に、召喚された勇者でも、あるいはまったく別の、それこそただの農民でも構いません。とにかく、この人だ!と言う誰かを見つけて、その方を鍛えて邪神を倒せるようにしていただきたいのです」
「全然無理ですけど」
まあ確かに僕が倒せとかよりはまだ現実味のある話だけどそれこそ焼け石に水程度の意味しかないだろ。
頼むからそういう案件は教職に就いていらっしゃられるような方々のところに持っていってくれ!……などとド直球でいうのもこの空気感ではなかなかに厳しく、僕はどう断ったもんかと頭を悩ませた。
そうしてしばらくの間無言で悩んでいると、眼前の迷惑客が突然机に手をついて身を乗り出してくる。
「大丈夫です!今回そうするにあたって、凪宜さんには向こうの世界にあるすべてのスキルが付与されますから!」
「……」
いや、じゃあもうそれ勇者に渡せよ。
そういわんばかりのジト目でガン見していると、彼女も察したのか慌てて補足してくる。
「あ、えっと、これは普通の人では魂が耐え切れずに崩壊してしまうのです。なので適合者を探して少なくともこの国の国家予算は軽く超えるくらいの世界を見て回り、ようやく今回夜さんを見つけた……というわけです」
なんか途中表現方法が変だった気もするが、なるほど。
だからあれほど僕に拘ってたのか。
それにしても、宝くじなんてまるで目じゃない確立をこんなところで引き当てるとは……果たして運がいいのか悪いのか……いや、極悪だろ。
「……ちなみに、もし邪神を倒せなかったら?」
「世界が滅びます!」
極悪以下だった。
というか、少なくともそれはそんな満面の笑みで言いきるセリフじゃない。
僕は半ば無意識的に深くため息をついていた。
「なるほど、それについてはわかりました」
僕がそう言うと、あからさまにほっとしたような顔を見せるヴァルミニア。
だが安心するにはまだ早い。
「ただし、いくつか条件をつけさせてください」
そう後出しすると、彼女は少し表情を強張らせて唾を飲み込む。
あっ、神でもやるんだそれ。
ちなみに要求はまとめるとこんな感じだ。
①この世界に帰して欲しいと言ったらいつでも帰すこと
②その時僕が自分以外の人も一緒に返して欲しいと言ったら一緒にこの世界に転送すること
③その際に生じるあらゆる不具合はそっちで何とかしてもらうこと
④何がどうなっても必ず可能な限り僕の望んだ報酬を支払うこと
要は、いつでも逃げ出せるけどいつ逃げ出しても報酬はよろしく、ってことである。
不平等なんてものじゃないが、しかし、なんとヴァルミニアはこの条件をすべて二つ返事で了承したのだ。
「あ、ただ、わたしはこの力を付与した後数年間回復のため休眠状態に移行します。ですので、転移後最低でも五年程は干渉できませんがそれでも構いませんか?」
「なるほど……それくらいなら問題ないです」
僕がそう返すと、彼女はほっと胸をなでおろして微笑んだ。
「では、交渉成立ですね」
「そうですね」
誠に残念ながら。
「改めて、私の世界をよろしくお願いします。……とは言っても、封印が解け始めるまでにはおそらく最低でも数年、長ければ数万年単位の猶予があります」
ヴァルミニアは麦茶を喉へ流し込むと、もちろん、今のまま行けばですがと付け足した。
数年から数万年って……いくら何でもアバウトすぎやしませんかね……
神単位の計測はやめて欲しい。
「というか、もし休眠中に復活したらどうするんですか?」
「存在を感知して自動的に神託を下すよう世界に設定を施してあるので問題ありません」
なるほど……なら、まあ多分問題はないか。
「ですので封印が解け始めるまでは私の世界やスキルなどに慣れる意味も兼ねて異世界旅行を楽しんでいただければ」
「……まあ、わかりました。じゃあ後はこの部屋をどうするかですね……」
この部屋は、他号室と違うところなんて何もない至って普通の部屋だ。
だがそれでもずっと暮らしてきて住み慣れているし、愛着も湧いていた。
何より、今のところ戻るつもりはないが、もし万が一帰ってきたとき住所不定じゃ困るし。
かと言って住む訳でもないのに何年も契約したままなのはなぁ……。
そんな僕の些細な悩みを、彼女は大胆に解決してしまった。
「あ、それについては問題ありません。向こうでの一日はこちらでの二十四億分の一日になります。ですので帰ってきた時も大して時間は経っていないでしょう」
「えぇ……なんか、すごくSFチックな話ですね…………」
浦島太郎的な感じなのか。
「……ところで、それって逆に言えばこの世界の一日は向こうの世界の二十四億日なんですよね?それじゃあもう邪神復活してるんじゃないんですか?」
「それについても大丈夫です。これでも私は神ですから、異なる世界同士の速度を一時的に調節するくらいは簡単にできますので。今も、こちらの一日が向こうの一日になっているんですよ」
「ああ、そういえば……って、あれ?」
僕はつい十分ほど前、神は世界に直接干渉できない、と聞いたはずなんだがそれは良いのだろうか?
そんなことを聞いてみると、ヴァルミニアはまた満面の笑みになって言い切る。
「グレーです!」
「グレーなんだ……」
正確には、これも暗黙の了解的にオーケーとされているらしい。
それ、グレーってかアウトなんじゃ……?
もしかしなくても、神の世界って結構アバウトだよね。
「では、これを」
そんな会話の後渡されたのは、掌大の麻製(?)の袋だった。
「この中には魔物除けや周辺の地図、サバイバルグッズ等のアイテムや非常食、神器などヨルさんのこれからに役立つものが入っています。袋も中に入っているものも自由に使ってください」
うんちょっと待て。
「今、神器って言いました???」
「はいっ!」
何満面の笑みでとんでもないもん預けてくれてんだよ。
「……あー、神器に関しては育てたやつに自分で渡せと?」
「はい。というかあまり驚かないんですね?」
「いや、まあ……よくよく考えれば初手玄関前土下座の人ですからね。別にこのくらいはあり得るかなって」
ちょっとした意趣返しのつもりで言ってみたら、心なしか顔が赤くなった。
うん、美人の赤面はいいものだけど赤面するくらいの理性を残しているなら手段は選んでほしかったよね。
あと、この手の中のとんでも爆弾は今すぐに返品させてもらいたい。
「んんっ!……最後に、スキルについてです」
そんなことを考えているうちに真顔になったヴァルミニアが、じっとこちらを見る。
僕は心の内でため息をついた。
ま、そんなことより今はスキルか。
スキルとか魔法とか、改めて考えるとなんかすごくゲームっぽいな。
「スキルなんですが、実は凪宜さんでもいきなり全てを解放した状態で渡すと魂が崩壊してしまうんです。ですので、とりあえずは凪宜さんの中に封印した状態で置いておきます。これらは特定の条件を満たすと解放されていきますので、向こうについてからはいろいろしてみることをお勧めします」
なるほど、それも兼ねての異世界旅行か。
つまり、邪神の封印が解け始める前にスキルをある程度開放しろ、と。
「さて、まだ何かやり残したことはありますか?」
そう言われて考えてみる。
が、割とどうでもいい人生を過ごしてきた僕にとって、この世界にこれといった後悔や執着の対象となりうるようなものはない。
……なんか、自分で言ってて悲しくなってきた。
僕がいなくなって悲しむような人は大体もう死んでるし、友人達もそういう柄じゃない。
何なら何人かは葬式すらめんどくさがって来なさそうだ。
……まあ、そういうところが気楽でいられて好きだったし別にいいんだけど。
うーん……でも今のところ帰ってくるつもりはないし、そもそもヴァルミニアがこの約束を果たす必要はないんだから最悪帰りたくても帰って来れないという可能性もあるし……まあ念のため誰かに伝えておくか。
最悪帰ってきたらその時は冗談だったとでもいえばいいし。
ただ問題は誰にどうやって伝えるかだ。
家族に手紙……は、血の繋がった家族は妹以外みんな死んでるし親戚とも疎遠だ。
というか父方の親戚に至っては中学生だったか小学生だったかくらいの時に祖母が死んだ時の葬式で一度見た以外まったく関りがなく、今となってはもはや顔すら思い出せないくらいだし。
お隣さん……もまあもしかするとちょっとは寂しがってくれるかもしれないが、わざわざ手紙を残すのも変かな?
……となると、やっぱあいつらか。
そうやって僕が悩んでいる間、ヴァルミニアはただ微笑を湛えて静止していた。
……正直マネキンみたいでちょっと怖い。
「友人達にメッセージを残してもいいですか?」
「はい。どんな内容でも構いませんよ」
てっきり多少は制限をかけられるかと思っていた。
「……いや、でもまあ確かに『神様に会いました』とかいきなり言いだしたら、ただの頭おかしいやつにしか見えないか」
「ふふっ。そうですね」
本人から何を書いても良いという言質をいただけたので、一番端的に要点だけ書こう。
と言うか、そういえば彼女のちゃんとした自然な笑みを見るのは、これが初めてな気がする。
まあ、それは今は良いか。
「じゃあ……」
メモに文字を打ち込んでいく。
どうでもいいが、僕は全員に同じ内容を送る時メモに一度打ち込んでから共有するタイプだ。いや、そんなタイプ分けが存在するのかは知らないが。
「これと……これと…………あれ、あいつはどこに……あ、いた」
名前とアイコンをころころ変えるせいで見つけにくいやつを押した後、ちゃんと全員を選択したかもう一度確認してから共有ボタンを押す。
コンマ数秒を開けて、読み込みマークがくるくると回りだした。
ああ、これが消えたらいよいよこの世界ともお別れなんだな。
実感が湧かない。
そして数秒後、その一言が全員に送信される。
『ちょっと異世界行ってくるわ。』
「よし、行きましょう」
ソファにスマホを放り投げ、ヴァルミニアを見る。
彼女は偶然表になったスマホ表示されている一言を見て、くすくすと笑っていた。
そんなに面白かったですかねそれ。
「と、すみません。では――行きます!!」
兎にも角にも、そんな感じで、僕の異世界行きが決定した。
補遺
な……なっっっっが………………
一項で個の量って、正気か?
……がんばれ、未来の自分。