60.嫉妬心と夏の空
鈴木狼介は、映画館にやってきていた。入口の柱に寄りかかり、ブックカバーで覆った自分の愛読書を読みつつ、腕時計と周囲を何度も見ていた。
「狼介」
そんな彼を呼ぶ女性の声がする。狼介が顔を上げると、待ち合わせていた相手、谷川雪乃が歩いてきていた。
狼介は本を閉じると、腕時計を見る。
「5分遅刻だな」
狼介はそう言いながらバッグに読んでいた本をしまう。雪乃はそんな狼介の言葉にため息を吐いた。
「開演25分前集合っていうのがおかしいのよ」
「パンフレットと特典を買う時間を考えれば遅いくらいだ」
「左様でございますか。遅れて悪うございました」
雪乃はふて腐れながら謝る。狼介はそんな雪乃を気にせず、パンフレットの購入口へと歩き出す。雪乃は小さく頬を膨らませると、何も言わずに狼介の後ろについていった。
パンフレットなどの販売ブースにやってきた2人は、さっそく列の最後尾に並ぶ。短い列であり、数分待てばすぐに買い物を始められそうだった。
「それで、狼介は特典で誰のグッズ買うの?」
雪乃が尋ねると、狼介はニンマリとした表情で答えた。
「トヨコちゃん。ポスター買って部屋に飾る」
「そなの」
「お前は?」
「ホウサクくん。タオルかな。彼に抱かれてるって思ったら最高~」
雪乃はわざとらしく狼介に好きなキャラクターをアピールする。しかし、狼介の反応は極めて薄く、雪乃を置いてそのまま目当てのグッズの下へと歩き始めた。
(ったく…!)
雪乃は少しムッとしながら狼介の隣まで歩き、自分の好きなキャラクターのタオルをひとつ手にした。
それとほとんど同時に、映画館内のアナウンスが流れる。
「ご案内いたします。8番シアター、13時45分開演、『神在月の夢』の入場を開始いたします」
「お、始まったな」
狼介は僅かに声を弾ませると、グッズを持ってレジに歩く。雪乃は置いていかれないように、すぐに狼介の後を追った。
狼介が短く会計を済ませて横に流れて行くと、雪乃もレジの係員の女性に映画のチケットと購入するグッズを手渡した。
「こちらのタオルですね。1560円になります」
「はい…全く、奢ってくれてもいいじゃない」
「さっきの彼氏さんですか?」
雪乃が愚痴をこぼすと、係員が尋ねる。雪乃は驚いて財布を落としかけた。
「ち、違います、断じて」
「失礼しました、席が隣同士みたいでしたから」
「ただの友達なんで、はい」
雪乃は動揺しながら2000円をトレイの上に置き、グッズだけ持ってレジを去って行く。
「お客様、お釣り!」
「あぁ、ごめんなさい」
雪乃は慌てて戻ると、係員からお釣りを受け取る。
「頑張ってくださいね」
係員が笑って言うと、雪乃は目を逸らしてその場を去り、足早に自分を待っている狼介のもとまで歩いた。
「何やってたんだ?」
「何もないわよ」
狼介の質問に、雪乃は短く答えて先に歩いて行く。狼介は首を傾げながら雪乃の少し後ろをついて行った。
2時間ほどの映画の上映が終わると、狼介と雪乃はシアターから出てきた。
「よかった。いやホントによかった」
狼介はしみじみと何度も頷いて呟く。そんな狼介の姿を横目で見ながら雪乃は呆れたように笑っていた。
「そんなによかった?」
「あぁそりゃそうだよ、そもそもあの作品のアニメ化なんて無理だと思ってたんだ、どこまでやるのか次第では駄作になりかねなかったし。それがああいうふうに上手くまとめてくれるなんてな。特にあのトヨコちゃんのシーンなんか…」
「はいはい。感想は違うところで聞いてもいい?私お昼食べてないんだ」
早口で感想を並べようとする狼介に、雪乃は短く尋ねる。狼介はそれを聞くと、感想を並べるのを止めた。
「そうか。じゃあ2階のレストランで」
狼介は手短に次の目的地を決める。雪乃もそれを否定せず、2人は階段を目指して歩き始めた。
ほんの数分歩くと、2人はレストランの入り口の前までやってきていた。
「気づいた?あの演出。本当はあの時点でツヨシは死んでて…」
狼介は構わず感想を語り続ける。雪乃はいつまでも感想が出てくる狼介にやはり呆れた様子でレストランの予約用のシートに名前を書いていた。
そんな狼介の背後から、女性の声が聞こえてきた。
「あの、鈴木さんですか?」
雪乃も狼介もその声に振り向く。サングラスをかけ、帽子を被った小柄な人間がそこに立っていた。
「そうですが」
狼介は一応社交辞令的に返事をする。すると、その女性は安堵しながらサングラスを外した。
「やっぱりそうでしたか」
女性がサングラスを外したその瞬間、狼介は目を見開いた。
「良野先生!」
「えっ、ホンモノ?」
狼介の目の前に立っていたのは、先ほどまで狼介と雪乃が見ていた映画の原作を書いた良野神楽こと、池田良子だった。
「お久しぶりです、鈴木さん」
「いやこちらこそ!よく俺のこと覚えててくれましたね!」
狼介の声のトーンがひとつ上がる。話についていけない雪乃は慌てた様子で狼介に尋ねた。
「ちょっと待って狼介、この人って映画の原作者さんでしょ?知り合いなの?」
「あぁ」
「なんで」
「色々あってな」
雪乃の質問に、狼介はあっさりと答える。良子はなんとなく空気を察した。
「あの、お邪魔だったら消えます…」
「とんでもない!一緒に食べましょう!」
狼介はそう言って良子と雪乃を連れてレストランの中に入る。
良子は横目で雪乃がムッとしているような表情なのを見逃さなかった。
レストランの中の4人席に案内されると、雪乃と狼介は隣同士になるように座り、良子はそれと向かい合うように1人で座る。にこやかな表情の狼介に対し、雪乃は仏頂面で、両方の顔が見える良子は気まずそうな作り笑いを浮かべていた。
「それで、良野先生はどうしてこちらに?」
空気感を気にせず、狼介は良子に尋ねる。良子は雪乃を少し気にしながら話し始めた。
「一応原作者なので…公開初日ですし、どれくらいお客さんが入ってくれてるか気になりまして…」
「まぁまぁでしたね」
良子の言葉に雪乃が短く言う。狼介はすぐに雪乃を嗜め、良子を慰め始めた。
「良野先生、気にしなくていいんですよ。俺はわかってます。そもそも映像化されること自体すごいですし、あれだけ客が入ってるのもすごいんですから」
「いやもう、そう言っていただけるだけで恐縮です。スタッフさんや役者さんにも、もうすごい頑張っていただいて。本当にもう、言葉にできないです」
良子と狼介は映画の話で盛り上がる。雪乃は面白くなさそうにそんな様子を横で見ていた。
雪乃はふと立ち上がった。
「飲み物取ってきます。何がいいですか?」
雪乃は他の2人に尋ねる。良子は何かを察すると、答えながら立ち上がった。
「あ、自分で取ります…」
「だったら俺も自分で」
「いいよ、狼介は座ってな。アイスコーヒーでしょ?」
狼介も立ちあがろうとしたのを、雪乃が止める。雪乃と良子は狼介を置いてドリンクバーコーナーへ歩き出した。
「狼介とどういう関係なんですか」
狼介からある程度距離ができると、雪乃は良子に尋ねる。良子は言葉を濁しながら話した。
「そのー…旅行先で…スランプになっていたところを助けてもらったといいますか…」
「へー…」
雪乃は冷たい目線を良子に浴びせる。良子は気まずい空気になりながら雪乃が欲しがっているであろう言葉を投げかけた。
「別に、彼と変な関係はありませんから…ただの私の作品のファンの方ってだけで…」
「ただのファン?いいえ、もう異常ですよ。あの人ったら私と一緒に出かけてもあなたの作品の話しかしないんですよ。私のことはほったらかし、ホント嫌になっちゃう」
雪乃が愚痴をこぼしつつ、コップにアイスコーヒーを注いでいく。良子も雪乃の怒りの矛先が狼介に向いたことに安堵しつつ、話を合わせた。
「あー…彼女さんを放置するのは良くないですね」
「彼女じゃないです、友達です」
「え?」
良子は素直に信じられず、聞き返す。
「お姉さん、彼とすごく仲良くしてるじゃないですか」
「谷川でいいです。そう見えますか、そうですか」
良子の言葉に、雪乃は不満そうにしながらもうひとつのコップに自分の飲み物を注ぎ始めた。
「初対面の人にこう言うのもナンですけど、私、正直あなたに嫉妬してます」
雪乃は良子を真っ直ぐ見据えて言う。良子は思わず息を飲んだ。
「…狼介があんなにテンション上がってるところ、初めて見たんです。いつも私と一緒にいても、楽しいんだか楽しくないんだか…」
「いつもあんなふうな人じゃないんですか?私が前に会った時もあんな感じでしたけど…」
「そうじゃないから嫉妬してるんです、先生。私じゃ彼の心は動かせない。けど、あなたは動かせる。その事実が、すごい悔しいんです」
雪乃の言葉を聞き、良子は俯いて考える。良子は違う部分から話をすることにした。
「谷川さんは、彼が好きなんですか?」
自分の飲み物を注ぎ終えた雪乃は、首を横に振りながらその場を退く。そうしてから良子の質問に答え始めた。
「…そうです」
「じゃあ、告白とかも?」
「…してないです」
「…自分が好かれているか、わからないから、ですか?」
良子に的確に図星を突かれ、雪乃は何も言えないまま頷いた。
「こんなの初対面の人に話してどうするんだって話ですけどね」
雪乃は自虐的に言う。良子は戸惑いながら自分の飲み物を注ぎ始めた。
「作家先生、どうです?私の話、あなたの作品のネタになりそうですか?」
雪乃は笑いながら尋ねる。一方の良子は真面目な表情で首を横に振った。
「私、自分の不幸はネタにしても、他人の不幸はネタにしないって決めてるんです。だから、あなた達の関係も、ハッピーエンドで終わって欲しいです。そうなって初めてネタにできますから」
良子の言葉に、雪乃は目を見開いた。
「じゃあ、何かしてくれるんですか?」
雪乃が良子に尋ねる。良子は一瞬狼介の方を見てから頷いた。
「大したことはできないですけど、せっかく私の作品を見に来てくれたわけですし、感謝の意を込めて、ですね」
雪乃と良子はそれぞれの飲み物を持って自分の席に戻ってきた。
「遅かったな」
「先生と話が弾んでね」
狼介の質問に、雪乃は短く答える。良子もそれに合わせて頷くと、狼介は眼鏡を片手で掛け直した。
「ほー、羨ましい限り」
「谷川さんのお話、面白かったです。次の物語のネタに使わせてもらおうと思いまして」
良子の発言に、狼介は驚きの表情を隠せない様子で雪乃を見る。そのまま狼介は雪乃に尋ねた。
「先生に変なこと吹き込んでないだろうな?」
「さぁね」
雪乃は狼介の質問を受け流しながらアイスコーヒーを口にする。良子は少し軽くなった空気に微笑みながら話を続けた。
「ちょうど次の『神在月』で使おうと思ってます」
「お。じゃあ割とすぐに読めるんですね?」
良子の言葉に、狼介は食いつく。良子はそれに頷いてから話を続けた。
「はい。楽しみにしててほしいです」
「どんな物語になる予定なんですか?」
狼介が尋ねると、良子は少しニヤッとすると、宙を眺めながら話を始めた。
「テーマは、『身近な人』ですね」
「へぇ?」
「ありきたりですけど、『身近な人の大切さ』、これをテーマにしようと思いまして」
良子の言葉に雪乃は声こそあげないが驚いた様子で目を見開く。良子はそのまま話を続けた。
「今のところ考えてるお話だと、例のごとく主人公のところに問題を抱えた女性が逃げてくると」
「いつものパターンですね」
「どうやらその女性、旦那さんが誘拐されてしまったと」
「旦那さんなんですね」
「でもこの夫婦には秘密があって…っていう感じにしようと思ってます」
良子の話に、狼介は思わず声を上げる。良子はすかさず話を続けた。
「一応ボツにした設定があるんですけど聞きます?」
「はい!」
狼介が食いついたのを見て、良子はニヤッと笑って続けた。
「実はその夫婦、数ヶ月前に離婚してる設定にしようと思ったんですよ」
「え?なんでです?」
「その方がテーマに合うと思ったんですよ。結婚して、毎日一緒にいた時は、そのありがたさがわからなくて、雑に扱って、離婚もしちゃった。けど、離れてやっとお互いの大事さがわかる、そういう話にしやすいと思って」
良子の言葉に、狼介は黙り込む。雪乃も、何も言わずに良子の言葉を聞いていた。良子はそんな空気に耐えられず、冗談めかして話を続けた。
「まぁでも、もっと軽くてくだらない方が『神在月』っぽくていいと思ったんで、この設定はボツにしました。読者のみなさんもそれをお望みでしょうし。本編は違う設定を楽しみにしててください」
「はい。でも、ボツになった設定の話、俺は少し心に響きましたよ」
良子の話に、狼介はしみじみと言う。良子が笑うと、その瞬間、机の上に置いてあった良子のスマホが振動し始めた。
「あ、ごめんなさい、編集の人ですね」
良子はそう言ってスマホを手に取る。同時に、声のトーンが一気に弱々しいものになった。
「はいぃ…すみません、お客さん入ってるか不安だったので、はい、すぐに戻って、はい…すぐに仕上げます…!」
良子はしどろもどろになりながら通話を終えると、2人に小さく謝った。
「すみませんお2人とも、私、ここで失礼しますね、また私の作品お楽しみください!」
良子は一方的にそう言うと、頭を下げながらカバンを持って逃げるようにその場を去っていった。
残された雪乃と狼介は、慌ただしい良子の背中を呆然として見送っていた。
「…なんか、面白い人だったね」
雪乃が言うと、狼介はしみじみと息を吐いた。
「前会った時は、もっと自信がなさそうだった。むしろ、俺たちのほうが彼女を励ますみたいな」
「そうなの?」
雪乃の問いかけに狼介は頷いた。
「うん。それが、今回は逆だった。さすが『神在月』の先生だよ。一冊分の『神在月』を読み終えたような、そんな気分。当たり前のことだけど、大事なことを学べた気がする」
狼介はそう言って雪乃の方を見て、ニヤッと笑う。雪乃も思わず優しく微笑み返していた。
「身近な存在を大事にする…思えば湘堂の事件の後、ずっと平和だった俺は忘れてた気がするな。でも、人間いつ離れ離れになるかわからないからこそ、大事にしなきゃいけないんだよな」
狼介はそう言って自分の隣に座る雪乃の方に体ごと向き直る。雪乃は狼介の初めての行動に驚き、何度も目を逸らした。
「な、なに?」
雪乃は平静を装って尋ねる。狼介は気にせず雪乃へ頭を下げた。
「今までテキトーに扱って悪かったな」
狼介の言葉を聞き、雪乃は椅子から転げ落ちそうになりながら、いつも通りの風を作って言葉を発した。
「べ、別にそんな…でも、これから大切にしてくれるって言うんだったら、別に、嫌じゃないけど…」
「そりゃ大切にするよ」
狼介の返事に、雪乃は少し体を前に寄せながら尋ねた。
「それって…もしかして…」
「俺たちはダチ同士だから。単純だけど、大切だろ?」
狼介はいつも通りの笑顔で言い切る。
雪乃は1人で舞い上がっていた自分に嫌悪感を抱きながら、狼介に話を合わせた。
「そうっすね」
「じゃあ飯食うか。腹減ってんだろ?『食事以上の幸福はない』って『神在月』でも言ってたし」
狼介はそう言いながらメニューを手に取る。雪乃も自分の分のメニューを取りつつ、自分の後ろの窓ガラスから外を眺めた。
(作家先生。やっぱり私はあなたに嫉妬してます。あんなにあっさり彼の心を動かしちゃうなんて。けど、私だって、いつかは彼の心を、自分の力でこっちに向かせて見せますから)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
次回もお楽しみいただけると幸いです
今後もこのシリーズをよろしくお願いします