33.出立前夜
5月14日 13:00 虚山洋館
「荒浜を殺し損っただと!?」
事件が起きる前から、赤葉環境大臣はここに逃げてきていた。そして、目の前で傷の治療を行う暁広に、強烈な罵声を浴びせていた。
「この役立たずの無能め!貴様がやれると言ったから貴様を信じたのだ!なのに貴様は…!肝心の荒浜は殺せず、のうのうと生きて帰ってきたのか!?」
暁広は茜に包帯を巻かせながら、正面に立つ赤葉を睨みつける。赤葉は苛立ちながら辺りを歩き回った。
「クソッ!クソォッ!」
赤葉は苛立ちのあまり、そこに立っていた自分の秘書官を殴りつけた。
「このままでは私は破滅だ…!荒浜は私が主犯だと気づく…!もう終わりだ…!」
「落ち着けよ、老いぼれ」
横に立っていた圭輝が赤葉に言う。赤葉はそれでも落ち着きを取り戻せなかった。そのまま赤葉は洋館の出口へ歩き出した。
「おい、どこへ行く」
「警察だ」
「何だと?」
「貴様らを警察に突き出す!お前らのせいで私が破滅するわけにはいかんのだ!地獄に堕ちろクズども!」
赤葉は言うだけ言うと、洋館を出ようと暁広たちに背中を向けた。
瞬間、赤葉の体を、青白い光を纏った西洋剣が貫いた。
「…!」
赤葉は痛みに声を失いながらゆっくりと振り向く。見ると、心音が冷徹な表情で剣を握り、赤葉を見ていた。
「心音…貴様…!実の叔父に…!」
「実の叔父であろうと、意志を貫けない人間に力を握る価値はない」
心音はそう言い放つと、剣を引き抜く。赤葉はその場に倒れた。
「保身のみ考える権力者など、死んだ方がいい」
心音はそう言うと、わずかに息のあった赤葉に剣をもう一度突き立てる。赤葉の体は刺された瞬間大きく跳ね上がったが、すぐに動かなくなった。
心音はそのまま握った剣の切っ先を、その場にしゃがみ込んでいる赤葉の秘書に向けた。
「空善、あなたも選びなさい。あなたの父のようにここで死ぬか、私たちと共に新しい世界を作るか」
心音に剣を向けられると、赤葉の秘書、空善は心音の前に跪き、意を決した表情で心音の顔を見上げた。
「父のような小物にうんざりしていた頃です。この命、心音様に捧げます」
空善の表情を見ると、心音はニヤリと微笑んだ。
「よろしい」
心音はそう言うと、剣を手放す。瞬間、剣は青白い光となった。
「では死体を埋めてきて。私は彼らと話がある」
「かしこまりました」
空善は心音の指示に恭しく答えると、赤葉の死体を担ぎ、その場を後にした。
一方、その場に残った心音は、暁広の様子を見ていた。茜の手当を受ける暁広の顔色は龍人になって以来初めて見るような具合の悪さだった。
「具合悪そうね」
心音が暁広に言う。暁広は不満そうに首を横に振った。
「そんなことはない…」
暁広が言うが、茜は暁広の体調を誰よりもわかっていた。
「だめだよトッシー。脈拍も変だし、掠めただけなのに傷口も浅くない。一回龍観基地に戻って治療した方がいいよ」
「ダメだ、あいつらを倒さなきゃ…平和な世界は…」
茜の言葉に、暁広は意地になって言う。そんな暁広に、心音は冷静に提案した。
「トッシー、あなたは基地へ戻って」
心音の言葉に、暁広は顔を上げた。
「どういうことだ」
「二手に別れた方がいいと思うの。おそらく敵は既に龍観基地の異変に気づいてる。追手を出してくる頃合いでしょうね。だからあなたはそちらを守った方がいい。」
「心音はどうするの?」
心音の言葉に茜が尋ねる。
「私はここに残る。残って手駒にした明美や桜を利用して政治的に敵を追い込む。そうすればあなたが体勢を立て直す時間は稼げる。準備ができたら、もう一度あいつらを攻撃し、今度こそ荒浜首相を消せばいい」
心音の語り口調は冷静で、作戦は合理的に思えた。
なので、暁広もそれを使うことにした。
「心音、お前の作戦に乗ろう。俺は悪いが北回道に帰らせてもらう」
「あなたは私たちの旗印。あなたの唱える正義でみんなが動くの。だから決して死なないでね」
「言われるまでもない」
暁広は心音に短く返事をして立ち上がる。同時に少しよろめいたが、すぐに茜がそれを助けた。
「ここは任せたぞ」
暁広は心音にそう言うと、茜に肩を担がれながらゆっくりと立ち去り、浩助と圭輝もその後に続いた。
洋館の外に出ると、4人は部下の1人が運転する車に乗り込み、空港へと走り出した。
「重村…数馬…」
暁広は窓の外を睨みながら、ふと憎い相手の名前を口にした。
「貴様を殺さなければ…俺たちの理想を叶えるために…!」
同日 14:00 レストラン「さみだれ」近くの国防軍の拠点
無数の遺体が、白い布に包まれてテントの中に並んでいた。数馬は1人それをじっと見下ろしていた。
身元が確認できた死体の足元には、手書きで小さく名前の書かれた紙のプレートが置かれていた。
「永戸誠司、石原楓、桜木義夫、塚崎正也...」
数馬は足元に眠る死体の名前を読み上げる。彼はそのまましゃがみこむと、そっと両手を合わせ、目を閉じた。
数馬は同時に、背中からテントの開く気配を感じた。彼は背筋を伸ばし、ゆっくりと語り始めた。
「ここに眠る人間たちは、誰だって誰かの特別な存在だったはずだ。だから、俺の後輩たちの死を特別視するのは、不公平な気もする。理屈じゃわかってるんだが、俺は割り切れない。彼らが死んだことは悲しいことだ」
数馬はそう言って立ち上がる。そしてゆっくり振り向き、テントの入り口に立っていた佐ノ介と向き合った。
「俺が死んだ時、そう思ってくれる人はいるのだろうかな」
佐ノ介は、数馬の言葉の真意を察していた。だからこそ、その質問には答えなかった。
「波多野さんと何を話していたんだ」
佐ノ介は淡々と数馬に尋ねる。数馬は静かに答えた。
「任務の話をな。今回の首謀者の殺害を任された」
「美味しい役は独り占めか?」
数馬と佐ノ介は隣に立ちながらお互いに正反対の方向を向いていた。数馬はテントの外を、佐ノ介はテントの内側を見ていた。
「死んで悲しむ人がいる人間を連れてはいけない」
「その逆だろ。死んで悲しんでくれる人がいるから、生きて帰ろうと思うのさ」
数馬の言葉に、佐ノ介は答える。
数馬はわずかに佐ノ介に目をやる。佐ノ介もそれに答えるように数馬に目をやり、ニヤリと笑ってみせた。
「明日の0800に灯島駅だ」
「了解しましたよ、訓練生?」
数馬の言葉に、佐ノ介は皮肉で答える。数馬も少しニヤッとしてから、その場を歩いて立ち去った。
数馬はそのまま本部のテントに歩いてきた。
しばらく入り口の横に立っていると、竜雄が一礼してから本部のテントの中から出てきた。竜雄はすぐに数馬に気づいた。
「…数馬」
竜雄の言葉に、数馬は小さく手をあげて答える。
2人は、横並びに立って作業している他の軍人たちをぼんやりと眺めていた。
「現在確認できている死亡者は70人だそうだ。和久のお父さんも亡くなったらしい」
竜雄は落ち着いて報告する。数馬は何も言わなかった。
「湘堂を思い出した」
何も言わない数馬に、竜雄は静かに話し始めた。
「あの時も、たくさんの人間が死んだ。俺の家族も、洗柿の盾にされて死んだ。そのこと自体は、別に洗柿じゃなくてもやったと思う。あの状況じゃぁな。だから、俺はそういうことが起きないようにするために、妹のような人間を増やさないために、軍人になった」
竜雄の言葉に、数馬は静かに耳を傾ける。次の瞬間、竜雄は両手を強く握りしめた。
「なのに…なんだこれは?俺は許せねぇよ。こんなにたくさんの人間を殺したやつが、今も平気な顔して生きてることが許せねぇ…!数馬、お前だってそう思うだろ?」
竜雄はそう言って数馬を見る。数馬は何も言わなかったが、その横顔は自分と同じ思いだと、竜雄は認識した。
「波多野さんから任務を出されたんだろ?俺も連れてってくれ。こんなことをした奴らには、絶対に償わせる!」
竜雄の言葉に、数馬はゆっくりと竜雄の方を向き直り、右手を差し出した。
「明日の朝、0800に灯島駅だ。絶対に…やろう」
数馬の目も、竜雄と同じ光を宿していた。竜雄はそれに気がつくと、数馬の右手を力強く握った。
「あぁ…絶対に!」
数馬は次の仲間を探すため、軍人たちの休憩所にやってきた。休憩所と言ってもテントが設置されている訳でもなく、ただ単純に座れるようにシートが敷いてあるだけである。
数馬はそのシートの隅で1人で食事をしている隼人のところへ近づいた。
「隼人」
数馬が声をかけると、隼人は缶詰を置く。そして自分の隣を空けると、数馬をそこに座らせた。
「大変だったな、数馬」
隼人は数馬に声をかける。数馬は座りながら、あぁとだけ答えた。
数馬は腰を置くと、本題を切り出した。
「波多野防衛大臣から任務を受けた。今回の首謀者を抹殺しに、北回道まで行く。来てくれないか」
「引き受けた」
数馬の言葉に、隼人は素早く手短に答える。数馬は何の抵抗もなかったことに逆に驚いた。
「いいのか?危険な任務だぞ」
「危険なことを誰かのために率先してやるのが軍人だ」
隼人は平然と言い切る。数馬は隼人のそんな姿を見て、大柄な彼の背中に手を回して軽く叩いた。
「わかった。明日の0800に灯島駅だ。私服でな」
「おう」
数馬は隼人の返事を聞くと、立ち上がってその場を後にする。隼人は目を鋭くすると、もう一度缶詰の食事を口へ掻き込み始めた。
「これで4人か…できればもう少しいてくれると助かるんだが…」
数馬は人数を指折り数えながら歩く。そんな数馬の前に、狼介が立った。
「おい、何やってるんだ」
「狼介か。探してたんだ」
数馬はそう呟くと、本題を切り出した。
「今回の首謀者を抹殺する任務を受けた。来てくれないか」
「なるほど、防衛大臣と話してたのはこれか」
狼介はそう言いながら掛けていたメガネを片手で掛け直す。そのまま狼介は質問を続けた。
「聞いた話によれば相手は不老不死の化け物らしいじゃないか」
「耳が早いな」
「盗み聞いたのさ。それで、それを倒した報酬は何だ?」
狼介の言葉に、数馬は詰まる。思えば波多野からはそのようなことは何も聞いていなかった。
「やっぱりお前はバカだな。普通、真っ先に聞くだろう。命を掛けて戦うんだ、それに見合った対価はもらってしかるべきだ。こっちだって仕事でやってるんだからな」
狼介に言われ、数馬は考える。狼介の言葉は正論だった。
「名誉だ」
数馬は狼介に対して答えた。
「名誉?」
「あぁそうだ。敵は多くの国民を脅かす強敵、それを倒せば、英雄としての名誉を得られる」
数馬の言葉に、狼介はニヤリと笑った。
「命を掛けて戦っても、金は出るかどうかわからない、得られるものは形に残らない名誉だけ。そんな条件を呑む奴がいると思うか?」
「お前はそういうやつだろう?」
狼介の質問に、数馬は平然と答える。狼介は満足そうに微笑んだ。
「買い被りだ、って言いたいが、生憎と俺はその報酬が気に入った。いいぜ、その名誉とやらに命を掛けてみようじゃないか」
狼介は右の拳を出す。数馬もその右の拳に自分の拳を突き出した。
「明朝0800に灯島駅集合だ。長旅になるぞ」
「望むところだ。他は誰が来る?」
「佐ノ介、竜雄、隼人」
「雄三と雅紀も連れて行こう」
狼介の提案に、数馬は目を見開いた。
「本気か?あいつら軍人じゃないんだぞ」
「だが俺たちと同じ強力な魔法使いだ。不老不死を殺すなら、頼りになるのは違いない」
数馬の言葉に、狼介は的確に反論する。それに一理あると考えた数馬は、頷いた。
数馬は事情聴取を受けた一般人たちが集められているテントにやってきた。テントの中では何人もの人が自分の連れの事情聴取が終わるのを待っていた。
数馬はその中からカメラや他の器具を持った人間を見つけ出した。
「雅紀」
数馬は雅紀に声をかけると、雅紀も軽い空気で挨拶を返した。
「うい。どうした?」
「ちょっと外で話せるか」
「っしゃ」
数馬は雅紀を連れてテントの裏にくると、誰もいないのを確認してから話し始めた。
「今回の事件の首謀者を殺す任務を受けた」
「へぇ」
「相手は不老不死。ただ魔法は効きそうなんだ」
「ほぉ」
「協力してくれないか」
数馬は申し訳なさを滲ませながら雅紀に頼む。雅紀は数馬のそんな表情を見て、穏やかに微笑みながら話し始めた。
「なぁ数馬ちゃんよ、仲間は多い方がいいって。俺も行くよ」
「頼んでおいてあれだが…いいのか?お前は一般人だぞ?報酬もどうなるか…」
「あの街生き延びて、魔法も使えるのが一般人ってのはないだろ」
雅紀はそう言って笑いかける。数馬はそれもそうだなとひと言答えた。
「それによ、今回みたいにあぁいうことするやつがいるとさ、写真家もやってらんねぇ訳ですよ」
「というと?」
「俺はね、人の笑顔と風景画、そしてカワイコちゃんを撮りたいわけ。なのにあぁいうのが天下とったんじゃ、全部無くなっちまう。そうなっちまったら報酬も何もないわけ。自分の生活は、自分で守らないとな」
雅紀の目は真剣だった。口調こそ冗談めかしているが、雅紀の本音がそこにあった。
「わかった。明日の朝、0800に灯島駅に頼む」
「まるはちまるまる?」
「失礼、8時に灯島駅で」
数馬は一般人向けに言葉を言い直すと、雅紀もようやく理解したようだった。それを見てから、数馬はその場を後にした。
数馬は歩いているとマスコミがカメラやマイクを1人の男に集中させているのを目にした。男は短くマスコミの質問に答えると、手に持っていたトランプで軽く手品を見せてから軽々とマスコミの渦から抜け出した。
「雄三」
数馬はその男に声をかける。雄三はゆっくりと振り向いた。
「さっきぶりだな、数馬」
雄三はそう言って片手でトランプを弄びながら数馬と向き合った。
「頼みがあるんだ。この事件の首謀者を倒す任務を任された。強力な魔法を使えるやつが欲しい。協力してくれないか」
数馬の頼みを聞くと、雄三はトランプをジャケットのポケットにしまう。そのまま雄三は数馬をじっと見た。
「敵は銃弾すら効かない不老不死の化け物。倒せるかどうかは正直わからない。だから、断ってくれて構わない」
数馬は雄三の選択肢を増やす。雄三は、それを聞くと口角を上げた。
「勝っても何もなし、負ければ死ぬ。自分の命をチップにした、ハイリスク・ノーリターンのギャンブルってわけだ?」
数馬は雄三の言葉に答えられなかった。だからこそ雄三は笑った。
「乗った」
「いいんだな?」
「あぁ。ここ最近、シナリオ通りのバラエティばっかりで飽きてたんだ。極上のスリルを馳走してくれよ?」
そう言いながら雄三は隠していた右手から数馬の拳銃を差し出す。数馬は一瞬腰のホルスターを確認してからその銃を受け取った。
「明日の朝、8時に灯島駅だ。長旅だぞ」
数馬の言葉を聞くと、雄三は背中を向けて歩きながら数馬に手を振った。数馬はそれを見送ると、腰の元々拳銃のあったホルスターに拳銃を差し直した。
同日 15:00 灯島市 波多野オフィス
数馬は波多野のオフィスにやってくると、目の前の波多野と和久に今回の任務に参加するメンバーたちを報告していた。
「…なるほど。君も合わせて7人か。わかった。旅費と報酬はどうにかする。必ず魅神を殺してくれ」
「かしこまりました」
波多野の言葉に、数馬は短く答える。10年ほど前に見た数馬の表情とほとんど変わりがないことに、波多野は感慨深いものを感じていた。
「和久、そちらはどうだ」
波多野は和久にも声をかける。和久は頷いた。
「赤葉に派遣したJIOのエージェントが死体で発見されました。何かあります」
「やはり赤葉か…あの小物め」
波多野は呟く。そんな時だった。
「波多野俊平防衛大臣!」
オフィスの外の廊下から野太い声がする。次の瞬間オフィスの扉が開いたかと思うと、ゾロゾロとスーツの人間たちが入ってきた。
「警察です。荒浜首相殺害未遂、および武田徳道殺害の件でご同行願います!」
スーツの人物の中でも特に一番偉そうな男がそう言う。波多野が大人しく立ち上がると、その両腕を警官たちが取り押さえた。
「おいおい暴れゃしねぇって」
波多野がそう言ったのにも関わらず、警官たちは波多野を連行していく。数馬は思わず身構えたが、すぐに和久がそれを止めた。
「ったく、誰の情報で動いてるんだオメェら?」
「守秘義務ですので」
波多野は警官たちから情報を引き出そうとしたが、警官は一切答えなかった。
「おい和久、俺ぁ留置場は慣れてるから心配無用だ。あとは頼んだぞ」
波多野はそう言いながら連行されていく。
数馬と和久の2人になったオフィスは、嵐が去った後のような静けさだった。
「…参ったな。敵は相当手強いぞ、数馬」
「構わねぇ。それが仕事だ」
和久の言葉に、数馬は短く答える。2人は静かに決意を強くしていた。
「和久、お前の方はどうするんだ。人、いるのか?」
「飛鳥と桜、泰平にも協力してもらう。すでに連絡はつけといた」
「仕事が早いな」
「あぁ。だが、今日は一旦お互いお開きにしよう。やることがある」
「わかった。また会おう」
「あぁ、必ず」
2人は挨拶を交わし、数馬はゆっくりとオフィスを出ていく。和久は数馬の背中を静かに見送った。
19:00
陽子は数馬の家にいた。
職場の昼休みにスマホでニュースを見ていたので、昼に何が起きたかは知っていた。同時に、彼女はそこに誰がいたか知っていた。
「数馬…無事でいて…」
陽子はすでに料理を作り終え食卓に並べていた。しかし、陽子は目の前に並んだ料理に箸をつけようともしなかった。数馬が死んだかもしれないと思うと、とても食事の気分ではなかった。
「はぁ…ダメ、しっかりしなきゃ…」
不安でため息が漏れ出てくる。しかし陽子はその度に首を横に振ってそれを振り払った。
そんな瞬間、玄関の扉の鍵が開いた音がした。
陽子は思わず立ち上がり、玄関に現れた数馬に叫んだ。
「おかえりなさい!」
いつもの陽子からは想像できない声量に、数馬は少し驚きながら会釈した。
「あぁ、どうも、ただいま」
「無事だったんだ…!今朝の事件…!」
陽子が感極まって言葉を発すると、数馬がそれを止めた。
「…すまない。今はその話はしたくない」
「…ごめんなさい」
陽子は自分の不安な思いが先走ったことに自分で苛立っていた。自分自身が数馬に何をしたか忘れていたわけではない。しかし、今だけは感情が記憶を上回っていた。
「ごはん、できてます」
「ありがとう。いただきます」
2人の心は未だに遠かった。陽子はそれを思い知ると、食卓の自分の席に着き、数馬も自分の席に座って食事を口に運び始めた。
15分間、2人の間に会話はなく、沈黙の中で食事を終えていた。
「ごちそうさま。美味しかったです」
「よかったです」
数馬がわずかに微笑むと、陽子も恐縮したように返事をした。
すでに太陽は沈み、街の灯りはなく、窓の外には何もない。
気まずい沈黙が2人を包み、どことなく落ち着かない2人は、そんな窓の景色を眺める。
何度も目を逸らした後、数馬は本題を切り出した。
「明日から、しばらく出かけます」
数馬が言うと、陽子はそちらを向いた。
「どちらへ?」
「北回道まで、任務で」
数馬が言うと、陽子はどこか悲しそうだった。
「そう…ですか…」
陽子の返事を聞き、数馬は意を決した。
「この任務、正直に言って生きて帰れるかわからない」
数馬の言葉に、陽子は息を飲む。数馬の目は真剣そのもので、陽子の目を真っ直ぐ見ていた。
「だから、その前に君と話したい」
数馬の視線を真っ直ぐ受け止めながら、陽子は震える手を膝の上に乗せて姿勢を正す。
「…わかりました。どうぞ」
陽子の声は緊張でわずかに震えていた。
数馬は一瞬目を逸らすと、そのまま話し始めた。
「今朝の事件…全部で70人以上が死んだらしい。そのうち、国防軍の死者が24名…警備に参加していたのは25人、要は、俺以外全滅したわけだ」
突如として語られる事件の詳細に、陽子は何も言えなかった。数馬の立場は、陽子の想像を遥かに上回る壮絶さだった。
「この事件の首謀者は、不老不死で、俺の力を使わないと倒せない…だから俺がこの任務に選ばれた」
陽子の脳裏に、かつて数馬が敵を倒すために、赤黒い光で敵を倒した光景がよぎる。数馬はそれに気づかず続けた。
「…その首謀者に殺された中には、俺の後輩もいた。さっきまでそのご遺族に挨拶していたんだ…皆泣いてた…憤っていた…」
数馬は下を向き、右手を握りしめる。
「それで思ったんだ。俺が死んで、誰が泣いてくれるのかなって」
数馬はそう言うと、陽子の方を見る。
「俺は、湘堂の街からずっと戦ってきた。正直、俺は他の誰よりも強くて、戦いが得意だった。だから全員で生き延びるため、率先して戦場に立った。でも、ある時からみんなと疎遠になった。その時から、すごく悩んだんだよね。得意なことは戦いだけ、でも戦場以外に居場所が欲しい。そう思ってたのに誰にも必要とされなくなって。俺はどうすればいいんだろうって」
数馬は机の上に自分の手を置いた。
「そんな時に、君と出会ったんだ」
「私…?」
「『色んなその人もその人自身。否定する必要はない』君がそう言ってくれた」
陽子はその時、自分と数馬が初めて出会った日のことを思い出した。一緒におばあさんを助けたこと、その日の夜、コスプレをしたのを見つかったが、数馬は秘密にしてくれたこと。同時に、数馬の記憶力にも驚いていた。
「よく覚えてるね…」
「それだけ俺にとって嬉しかったんだ。だから、俺はその日決めたんだ。いつか大切な人ができたら、俺のために泣いてくれる人ができたら、その人のために戦う。それで生きていくって」
数馬はそう言って陽子の目を見つめた。
「陽子、今から言うことは、俺の本心だ。聞いてほしい」
数馬は低い声で穏やかに言う。陽子は次に起きることを覚悟して頷いた。
「俺は君が好きだ」
数馬の声は、しっかりと陽子の胸のうちに響いた。同時に、陽子は言葉を失っていた。
「え…?」
「初めて話した時から、今日まで、これからもずっと。心の底から愛してる」
数馬の言葉は嘘ではない。陽子は数馬の目を見てそう確信していた。
だからこそ、陽子は俯いていた。
「…違う…!違う違う!」
陽子は俯きながら叫ぶ。数馬は状況がよく理解できなかったが、陽子が泣いている顔を上げたのは理解ができた。
「私が…私なんかがあなたに愛される資格なんてない…!あなたはあの時私を助けてくれた!命懸けで戦ってくれた!なのに、私は…!そんなあなたを『人殺し』って罵った!何にも知らないで、ただ怖かったからってだけで!それなのに…!あなたは私を…!2度も救ってくれた…!私はあなた以上に優しい人間を知らない!あなた以上に好きになった人もいない!だけど…!私なんかに…!」
陽子は叫ぶだけ叫ぶと、机に突っ伏して嗚咽を漏らし始める。
数馬はゆっくりと立ち上がり、陽子の隣へ歩き、陽子を静かに抱きしめる。陽子は数馬の胸元で泣いていた。
「気にしてないよ」
陽子の耳元で、数馬は静かに囁いた。その言葉に、陽子は数馬の背中へ腕を回し、強い力で数馬を抱きしめ返した。
「残酷すぎるよ…!私を罵ってよ…!クズだって…!なんでそんなに…!」
「君を愛しているからだ」
数馬のひと言に、陽子は再び言葉を失う。だが、陽子の数馬を抱きしめる力はさらに強くなっていた。
「でも、そんなに自分が許せないなら、ひとつ」
数馬は胸元の陽子を一度離し、陽子の目を真っ直ぐに見つめた。
「もしこの任務から生きて帰ってこれたなら、俺に居場所をくれ。君と共に生き、君のために戦わせてくれ」
数馬の言葉に、陽子が答えようとするが、数馬はそれを止めた。
「答えは、帰ってきた時に聞きたい。だから、今は」
数馬に言われ、陽子は開けた口を閉じた。
「ねぇ、数馬…」
陽子が数馬を見上げるようにしながら話しかける。数馬は涙で潤んだ陽子の大きな黒い瞳を見つめた。
「本当に…あの時助けてくれたのに..ひどいことを言ってごめんなさい…」
陽子の言葉に、数馬は穏やかに微笑んだ。
「そんな気にすんなって」
「気にするよ…あの日からずっと…ちゃんと謝りたいって思ってた…でも…そう言ってもらえて…なんかホッとした…」
陽子の表情は穏やかだった。今まで数馬に対して作っていた壁も、今はすでになく、気にしていたものがなくなって胸の支えが取れたようだった。
数馬もそんな陽子の表情を見て、数馬も穏やかに微笑む。2人はお互いの目を見つめ合い、お互いの手を強く握った。
「じゃあ、明日の準備しなきゃいけないから」
「手伝うよ」
「その前に、顔洗ってきなよ」
数馬に言われ、陽子は自分の顔が涙でボロボロになっていることに気づいた。
「…はい」
陽子は数馬に明るく微笑んだ後、数馬から離れ、洗面所へ向かった。
リビングに1人になった数馬は、陽子を抱きしめた感覚を噛み締めていた。
「可愛かったな…」
数馬は知らず知らず呟き、微笑んでいた。
翌朝 7:00
数馬は旅行用の着替えやその他の道具を入れたボストンバックを横に置き、靴紐を結んでいた。
「数馬」
数馬の後ろから、パジャマ姿の陽子が声をかける。数馬は立ち上がって振り向いた。
「数馬、襟」
陽子はそう言うと、数馬の紺色のシャツの襟を正す。2人の顔が近づき、お互いの息が触れ合ったが、2人はお互いに目を見て一歩引いた。
「首のスカーフは…」
「いや、大丈夫」
陽子は数馬が首に巻いているタオルを見て言うが、数馬はそれを止めた。
2人は一瞬沈黙すると、もう一度目を合わせ、小さく微笑んだ。
「行ってまいります」
数馬が静かに、しかしはっきりと言う。
陽子は数馬の覚悟を決めた表情に、内心複雑な思いもあったが、それを押し隠し、素直に微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
陽子の言葉に、数馬は敬礼で答えた。
陽子は数馬の背中を見送る。
誰もいなくなった玄関を見て、陽子は1人でつぶやいた。
「必ず、帰ってきてね」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
次回もお楽しみいただけると幸いです
今後もこのシリーズをよろしくお願いします