腰痛から腹痛まで。具合を見つめる弊社。※よい子は絶対マネしないでね
いつもと違う月曜日。
その始まりは、お盆を持ったイチカがやってきたことから始まりました。
「おはよー! フユミちゃん、とはちゃん」
さわやかな笑顔で、彼女はお盆から小袋を持ち上げ、「あちちっ」と言いながら私とフユミの机に置きます。
袋の中身は、社長がたまに買ってきてくれるお餅のお菓子。
表面にある焼き色、その部分の固めの食感と香ばしい味わい。
女子事務員一同が大好きなお菓子に、思わず私は笑みを浮かべます。
「あれ? どうしたのこれ?」
私の声で、お菓子の存在に気づいたフユミが、自分の机に目をやると顔をほころばせます。
朝から美味しいお菓子が食べられるのだ。
私とフユミのテンションが、ぐぐっと上がります。
イチカはお餅を、電子レンジで温めてくれていました。
熱々になった袋を、私は手に取ります。
「なんか会社の冷凍庫から出てきたの~。賞味期限ちょっとすぎてるけど、食べるでしょ?」
フユミはこのお餅が大好物。
急いで席に戻り、嬉しそうに袋を破ると、ぱくりとほおばっていきます。
では、私もいただくとしよう。
温める際に、袋が破裂しないように。
その配慮で、イチカが袋の隅に切り目を入れてくれています。
そこから開こうと手を伸ばした私に、袋の上部にかかれた賞味期限が目に入りました。
『2022.5.17』
私はとりあえず、まばたきを二度ほどしてみます。
そして、自分のパソコンの右下に表示されている日時へと、視線を向けていきました。
『2024/5/26』
簡単な日にちの引き算。
なのに現実逃避により数秒経過した後、ようやく答えを出した私は、イチカへと向き直ります。
「イチカちゃん。時、超えすぎ! 二年という年月を、『ちょっと』というジャンルで語らないで!」
そう叫ぶ私に、フユミが満足そうな顔を向け、答えてきます。
「え~、大丈夫だよ。変なニオイはしなかったもん」
袋に書かれている文章を、私は読み上げます。
「ここに『お早めにお召し上がりください』。そう書いてあるのですがね」
私の言葉に、フユミが即座に反応します。
「つまり、一口目を食べたらすぐに食べきりましょうということね! 了解っ!」
まだ熱々のお餅を、フユミはあっという間に食べきってしまいました。
「逞しいな、フユミ。まぁ、確かに私とあなたは大丈夫だろうけどさぁ」
そう、私とフユミの胃腸はとにかく強い。
女子事務員でご飯を食べに行っても、「そろそろ帰るよ~」という声が掛かるまで、私とフユミの箸は止まることがありません。
対して、イチカの胃腸は平均よりちょっと弱め。
だいたいそうやってご飯を食べにいった翌日は、ちょっぴり体がつらそうにしています。
「私たちはともかく、イチカちゃんは食べない方がいいと思う。それかお腹を壊すとしたら30分後くらいだろうから、私たちがその間、普通に過ごしているのを確認してから、食べたらいいんじゃないかなぁ?」
そう話す私へ、イチカは首を横に振ります。
「私、さっき食べたもん。美味しかったわぁ」
満足そうに言うイチカに、フユミが続いていきます。
「加熱消毒しているから大丈夫でしょ。とはも冷めないうちに食べな~」
確かに温かいうちに食べたほうが美味しい。
あわてて袋を破り、ホカホカのお餅へとかぶりついていきます。
少し心配をしていたのですが、数十分経っても体調に変化はなし。
ホッとしながら、私は午前の仕事を片付けておりました。
ようやく仕事が一段落し、ふと顔を上げた私は、フユミが席に戻っていないことに気づきます。
随分前に倉庫作業に行く報告は受けていたけど、もう終わっていてもいい時間。
まさか、お腹を壊したのだろうか?
心配して、トイレに確認しに行くも、彼女の姿はありません。
今日の商品に、イレギュラーな品があったのだろうか?
そんなことを考えながら仕事を続ける私の前に、ようやくフユミが現れます。
――おかしい。
フユミの様子が明らかにいつもと違う。
てきぱきと仕事をこなす彼女は、いつも社内を颯爽と歩いています。
ところが今は、一歩一歩を踏みしめるように。
信じられない遅さで、こちらへと向かってくるのです。
顔色は青白いを越えて、おしろいでも塗ったかのように真っ白。
口を真一文字に結び、慎重に歩む姿に思わず私は呟いてしまいました。
「……花魁道中ごっこ?」
いやいや。
そんなことを、会社でする必要はない。
とりあえず彼女の方へと近づきながら、私は声を掛けます。
「太夫、……じゃなかったわ。えっとフユミ、大丈夫?」
彼女の動きがぴたりと止まり、絞り出すような声が聞こえてきます。
「腰を、……やりました」
あぁ、倉庫の作業でやられたか。
私も何年かに一回、腰を痛めるので、そのつらさはよく知っています。
「とりあえず、いま持っている荷物を私に。イチカちゃーん! フユミがぎっくり腰になったから湿布を持ってきてほしいんだけど。救急箱にまだ残ってたっけ~!」
横になりたいというので、ソファーに寝かせようとするものの、フユミの返事は「No」。
ソファーの位置が、人がよく通る場所であるということ。
さらには、そのソファーに体を預けるのすら辛いというではないですか。
自分の席の後ろの床に、直に横たわるのが一番落ち着く。
そういった本人の要望もあり、彼女は私の席の斜め左の床でうつぶせになりました。
自分の席へ戻った私は、パソコンで近くの整形外科を検索していきます。
「フユミさん、ここから15分くらいの所に整形があるよ。まだ11時過ぎたばかりだから、午前の診察には間に合うから行ってみようよ」
住所を確認しながらそう伝える私にフユミは、「大丈夫、行かない……」とか細い声で答えてきます。
普段こそ容赦ないコメントで私をばっさばっさと斬るフユミさんですが、実は人一倍気を遣う人。
私が彼女を病院に連れていくことで、業務を止めてしまいたくない。
大方そんな心配をしているのでしょう。
私はなるべく優しい口調で、彼女に話しかけていきます。
「仕事のことなら、気にしなくていいよ」
「いや、本当に大丈夫。家に帰ってから近所の病院へ行くから気にしないで」
そう言いながらも時折、苦しそうに唸っている彼女を、とうてい放っておけません。
「逆の立場だったら、同じことを言うでしょう? 仕事なんてどうとでもなるから病院へ……」
説得する私の元へ、電話を持ったイチカが近づいてきます。
「とはちゃーん! フユミちゃんを病院に連れていくよ~。今からミオナちゃんが送迎してくれるって」
「あ、イチカちゃん! 私も説得しているけど、仕事が終わってから行くって譲らないんだよ~」
会社の子機を掲げながら、イチカは私たちに伝えてきます。
「社長の知り合いの接骨院に12時に予約を取ったって。本当は社長が連れていきたかったらしいんだけど、どうしても仕事抜けられないからって言ってる。だから一度、そこに行ったことのあるミオナちゃんが連れていくってさ」
ここまで予定が組み立ててあれば、さすがにフユミも断れまい。
そう思い床にしゃがみこめば、戸惑いの表情を浮かべる彼女と目が合います。
「もう予約してあるらしいから、行くしかないねぇ」
「でも、でも私……」
まだ遠慮しているのだな。
そう感じたであろうイチカが、フユミへ穏やかに声を掛けていきます。
「大丈夫、とはちゃんがちゃんと頑張ってくれるから。安心して任せていきなさい」
その通り。
心配しないで、改めて仕事は任せてほしい。
そう言おうとした私に、フユミは小さな声で呟いてきました。
「いや、その今日はさ。……今日の下着は可愛くない。……だから、見られるのはちょっと」
あぁ、痛い場所が腰だけに見られちゃうよね、そこは。
彼女の言葉に、私は去年の健康診断での出来事を思い出していきます。
心電図の足首につける装置の存在を忘れ、『パン』とでかでかと文字の書かれた靴下を履いていってしまった日のことを。
「足の方、失礼しま~す! ……うっ!」
私のズボンの裾を上げながら検査の方が絶句した瞬間を、自分は決して忘れることはないでしょう。
履いていったのは自分。
そのことを棚に上げ、『避けられなかった悲劇』の思い出に浸る私の隣で、イチカがにっこり笑います。
「パンツが何色だろうが、形がブルマみたいなやつを履いてきていようが関係ない。さっさと治療してきな」
「いや、いくらなんでもブルマみたいなやつを履いているわけで……。いえ、すみません。行ってまいります」
よろよろとフユミは立ち上がります。
そんな彼女へと頷くのは、顔はいつも通りに穏やかでありながら、いつになく早口のイチカさん。
――いえ、『イチカ様』がおりました。
普段はゆったりと話す人が、早口で話してくる。
たったそれだけのことなのに、結構な威力というか迫力があるのだ。
私はそれを、改めて知ることとなりました。
おりしもその矢先に、ミオナから『向かう準備が出来たので玄関前まで来てほしい』と連絡がきます。
私はフユミの鞄を持ち、彼女を支えながらゆっくりと玄関へと向かいはじめました。
そんな私たちに、後ろからイチカの声が聞こえてきます。
「フユミちゃん待って! 多分、これがあった方がいいだろうから」
足を止めた私たちの元へ、イチカがペットボトルのお茶とタオルを持って走ってきます。
確かにあの騒動で、フユミはしばらく水分をとっていません。
さすがイチカ、その心配りを私も見習わなくては。
彼女の優しさに表情を緩め「ありがとう」と言いながら、フユミがお茶を受け取ります。
「あと、施術できっと使うだろうから。それに痛いの我慢していると、汗が出てくるでしょ?」
まだ未開封のビニール袋に入ったタオルを、フユミはありがたそうに受け取ります。
「じゃあフユミ、そろそろ行こっ……!」
そう声を掛け、彼女を見た私は思わず言葉を途切れさせます。
「どうしたの? とは」
「いっ、いや何でもない! ミオナちゃん待っているから行こうね!」
言えません。
私にはとても言えませんでした。
片手にお茶、反対の手にはビニールに包まれた未使用のタオルを持ったフユミ。
そんな彼女の姿がまるで、『運動会の参加賞を持って佇んでいる人』に見えて仕方がなかったということを。
「ま、まずはお茶とタオルはフユミの鞄に入れておこうか!」
「うん、ありがとうね」
何も知らないフユミが、感謝しながら渡してきたそれらを鞄に入れ、肩を貸しながらゆっくりと歩いていきます。
まるで二人三脚をしているようだ。
先程の連想で、どうもそっち系に行く考えを必死に振り払い、私はフユミをミオナへと託し事務所へと戻ります。
幸い午後からも大きなトラブルはなく、無事に仕事を終え私は家に帰ることが出来ました。
今回はフユミだったけど、自分もいつ腰を痛めるかわからない。
これからは、細心の注意を払って仕事をすることを心がけよう。
そんなことを考えながら翌朝、出社した私へと青白い顔をしたイチカが問うてきます。
「……おはよう、とはちゃん。あのさ、お腹は大丈夫だった?」
「おはよう、イチカちゃん。そんなことを聞いてくるってことは、まさか」
儚げな笑みを私へと向け、イチカはこう言いました。
「昨日、私はマーライオンになりました」
私の頭の中に、シンガポールにある、口から水を放出しているあの白い石像。
あれが、顔だけイチカに変わった姿となって現れました。
さらには茫然と見つめる私に、イチカは不思議そうに言ってくるのです。
「でも下痢の症状はないんだよ。ただ吐いちゃうだけで。これの原因がちっとも分からなくてさ」
「いや、原因は一つしかない。これ、犯人がすでに自首しているレベルの事件だから。探偵も警察もノーサンキュー案件だよ!」
朝から叫びながら、私は思うのです。
――弊社、健康だか不健康だかよくわからない女子事務員しかいないようです。




