第四話
(4)
その声にホデリの腕は止まった。聞こえたのは自分を支えて来た隼人の古族長ワダツミの声だった。
…いや正確には、
それはホデリの都城が攻め込まれる迄の、と言った方が良かった。
ホデリは目を見開いた。
自分の亡骸、もしくは首を取りに来た隼人の顔を直視する。ワダツミは腰に剣を携えているが、それを抜かず進み寄って来る。
それだけではなかった。後ろにはどうやらここからはっきりと見えぬが誰かを連れて来てるようだった。そのまま岩を駆け上りながら、ワダツミは髭を震わして声を出す。
「ホデリ、日の御子よ」
それからホデリを見た。見ると剣を鞘のまま腰から取り出して跪き、それを地に置いて深く両手をついて頭を伏せた。若き王に対する慇懃さと尊厳を損なわない隼人の族長は伏せたままホデリに言う。
「もはや互いの勝負は決まった。これ以上成すべきことは無益であり、何事もすべきではない。故に弟の日向御子は兄君に伝えたいことがあり、我を君に遣わした」
ホデリはそれを聞くと静かに剣を喉元から外してワダツミを見た。昨日までの仲間であった者が今は敵となり、また勝者として敗者である自分にホオリの言伝を伝えに来たのだ。
「ホデリ、聞いてくれ」
ワダツミは親しみのある声で顔を伏せたまま言った。
「我共は君を蔑ろにし、また武威に優れた君を日向隼人の日の御子として認めていないのではないのだ。
倭の伊都国を始めとする争乱が三韓を巻き込み、やがてそれを鎮めるために纏向の大軍が来る。そうなった時、このヒムカも纏向に組み込まれるかもしれない。我(吾)共はそれならば君よりも纏向の王族でもあり、倭王の血筋である日向御子をいずれヒムカの王とする方がこの争乱に乗じてやって来る纏向や三韓に対して、いや…ヒムカがこれからも生き残ってゆく為に良いと考えたのだ」
ホデリはそこで言った。
「ならば何ゆえに吾を攻め、都城を奪い、戦う??」
ホデリは喉を引き裂くために身体に籠められていた力を振り絞って叫び、剣の切っ先をワダツミに向けた。切っ先は怒りの為か震えていた。
「それも兄である吾をだ!!」
それにはワダツミは静かに黙っていたがやがて伏せていた顔を上げて、ホデリを見た。
「…ホデリ、我共は隼人だ」
「だから何だ?」
「隼人であれば戦ってこそ、そこに互いの正義を認め、そして敵に対する情が生まれる。そう、それは敵も敗者もまた共に兄弟であろうとして」
それを言うや、さめざめとワダツミは涙を流した。その涙でやがて髭は濡れて顔は赤くなり、そして声を上げてワダツミは天に向かって哭いた。
ワダツミは言いたいのだろう。争い奪う時は互いに武を持って死力を尽くし、納得いく決着を経て全ての物事を決めなければ、隼人と言うのは従わぬものだと。そして奪われたものに対する敗者への情け深さは隼人の優である。
ただ、それだけではない。
泣き濡れるワダツミの言外に含まれる心の内に隠れた思いをホデリは読んだ。
――誰が好き好んで、同族で戦うというのだろうか。
潮騒の音に交じる涙にホデリはワダツミの辛苦を聞いた。
――だから、ホデリよ、敵に降り(くだり)情けを受けよと。
ホデリはワダツミの哭声を聞きながら、もはや自死すらも出来ないどうしようもない自分自身へ諦めの決心をして、握りしめていた剣をワダツミに方に投げた。
ワダツミは涙を拭いて投げ出された剣を手に取ると再びホデリを見て跪き、剣を頭上に奉戴して伏しながら自らが捨てたヒムカの王に言った。
「君、日向御子に降るや?」
ホデリは唯、何も言わずワダツミの声を聞いていた。
再びワダツミが尋ねた。
「…君、日向御子に降るや?」
このヒムカを王として統べる筈だった若き日の御子の心中を思わんばかりのワダツミの声は震えていた。日向隼人の王に敵に降れと言わねばならぬ勝者もまた日向隼人の戦士であり、腰に携える剣は日の御子を護る彼等日向隼人の誇りである。しかしそれでも尚、もしホデリが否と言えばワダツミはその剣を王の首に突き刺し、跳ねねばならぬ。
――何ゆえにこれ以上悲しみを増やさなければならぬ
ワダツミが伏して頭上に奉戴した剣が彼の隠した心中の波動を読み取り、小刻みに震えている。
それを見たホデリは天を見上げて黙哭し、心で言葉を紡いだ。
――吾、彼の心の潮騒に哀しみを知る
ホデリは天を見上げたまま言った。
「…吾である兄ホデリ、弟の日向御子に降る。故に君の言伝を降る喜びとして受け取る」
その言葉を聞いたワダツミは泣き崩れる様にして暫く顔を伏せていたが、やがて頭上に奉戴していた剣を静かに置いて、背後を振り返った。
振り返る時を同じくして、後ろから白布の服を着た少女の媛が現れた。ホデリはその媛を見つめたまま動かない。何事が起きようともはや対応する力は無かった。
媛は手に白木の台を持ち、そのままホデリの前に進み出た。進み出ると白い衣服の袖でホデリの顔に染みついていた泥や血潮を丁寧に拭いて清め、白木の台に乗せた小さな二つの何かを見せた。
ホデリは最初それが何なのか分からなかったが、やがてそれがはっきりと視界に入って形を成して分かると、声無く驚いた。驚いて喉を動かし、声を出した。
「…これは釣針ではないか」
そう、それはホオリが失くしたというホデリの釣針だった。ホデリはそれを静かに手にした。それからもう一つを見た。それは鹽盈珠に似ている珠だった。
「これは…」
ホデリは媛に聞いた。
「これは鹽乾珠です」
言ってから静かに息を吐いた。
「日向御子からの言伝を伝えます」
媛は腰を曲げてホデリに拝礼すると、勝者の武と敗者への優を込めて言った。
「――吾は兄を今でも慕っており、やっとの思いでこれを海深い底で見つけました。これは日向隼人の王である日の御子がこれからも長きに渡って大事にすべき宝物であり、吾ごときの卑小な者が持つべきものではないので大君にお返しします。また鹽盈珠は鹽乾珠と揃うべき阿曇の宝物です。是もまた不遜な弟ごときが持つべき宝物ではなく、図らずも吾に降ることになった大君の心慰めの品としてお贈りします。
――武と優に優れたヒムカの大君であり兄ホデリ。卑しくも不遜なる弟ホオリの不始末を許して下さい。
大君には吾が相応しい宮を高天原に建て、平穏なる長の安寧をお約束します。そしてそこで弟である吾は頭を垂れて大君を出迎えますのでどうか美しい媛と共に新宮へお越しくださいますよう、お願いします」
言ってから媛は顔を上げた。それから媛はじっと強い力でホデリを見た。ホデリを見つめる強い眼差しは尊厳あるヒムカ王の最後をいつまでも忘れないという強い意志だった。敵に降る王の心震えが分かるのか、彼女も睫毛に涙を浮かべている。
ホデリは媛を見て思った。
(ヒムカに生きる若い世代はこれで次の時代も強い王のもとで生きられるだろう。吾はホオリに降った後、朝露のようにやがて消えるべきなのだ…)
媛の強い視線の先で彼は鹽乾珠を手に取るとやがて小さく首を横に振って、それを白木の台に置いた。それだけでなく鹽盈珠も置いた。
「これは阿曇族の宝で吾には必要のない物だ。ホオリの心遣いには感謝するがこれは受け取れない」
言ってから媛を見た。
「媛の父は誰だ」
言ってから媛は顔をワダツミに向けた。
「…そうか、それは知らなかった。それで媛の名は?」
彼女は答えた。
「…トヨ」
それを聞くとホデリは微笑した。
「倭王も確かトヨと言った。ワダツミの媛よ、その名は強い纏向海人の媛名であって日向隼人の媛名としては少し相応しくない」
言ってから声を出して笑い、珠を見てからホデリは媛に言った。
「ならば媛はこれからトヨタマヒメと名乗れ、これは日の御子の願いだ。何故なら珠は吾と日向御子を繋いでいる。倭王の名に珠の字を頂けばきっと強さだけでなく縁起を持ち、言霊の力でいつか媛とホオリを繋いでくれよう」
言ってホデリはワダツミを振り返って笑った。振り返るとワダツミは深々と頭を下げて礼をすると腰から石笛を取り出して空高く吹いた。
それは隼人の同朋へ戦いが終わったことを知らせる合図だった。やがてそれが辺りに連呼するように響くと都城を攻めていた戦士達は岩上に見えるホデリに向かって次々に跪いて剣を置き、やがてひとりひとりワダツミがホデリにしたように静かに両手をついて拝礼した。
その跪き拝礼する隼人の戦士達の奥にひとり剣を下げた騎馬姿の偉丈夫が居た。その偉丈夫は居並ぶ隼人達が跪き拝礼するのを見て自らも下馬すると兜を取り、それからヒムカの王に対して慇懃に頭を垂れた。
その姿が岩上のホデリに見えたかは分からない。
しかしながらこれらの事はヒムカの太陽が落ちたことを意味し、そして新たに纏向の太陽がヒムカに昇ったことを意味した。