こんな場所があるなんて知らなかった。旅の途中、初めて見た風景 ――麦の穂きらら――
「ちょっと昇ろうか」
あどけなさが混じった明るい声が降ってくる。手首を掴まれた娘は、その冷たさにひゃっと身をすくめるも、ふりほどこうとは思わなかった。薄い革の靴底が、つるりと滑りそうだったからだ。
どどうどうどう――流れ落ちる滝の水があたりに砕け散っているのだろう、鼻に入ってくる空気がひどく湿っぽい。岩場はどこも濡れそぼっているに違いなく、一人で動くのは怖かった。
「どうどうの音が一つじゃない……」
冷たい手を支えにして岩の上に這い昇った娘は、困惑顔でひくりと耳を動かした。
「そこかしこから、聞こえてくるわ」
「うん。なんだか滝だらけだな。四方八方滝の絶壁に囲まれちゃってるぜ。太いの細いのどんだけあるんだろ。すっごいなぁ、たくさん虹がかかってるよ」
「虹……」
連れの説明に、娘はかすかに首を傾げた。
虹とは、水路に渡された渡り橋のようなものらしい。家の畑を潤してくれた雨が止んだあと、きれいだすごいと幼い妹たちに叫ばれたことがある。「ナナイロ」に「カガヤイテ」いるそうだが……
「空だけでなく、滝にもかかるものなのね」
水が落ちている処にさらに近づいたらしい。
どどうどうどう。どどうどう。滝の轟きは、いかづち落とす竜の群れのよう。
「穴だらけで……だな」
連れの明るい声が、恐ろしい咆哮に呑まれて溺れた。
「どの穴……いいの?」
ああ、自分の声も溺れてしまったと、娘は苦笑した。
「今……て?」
「どの……入れば……の?」
「わ……い」
「え?」
「わ・か・ん・な・い!」
耳元でこおっとはじけた息の冷たさに、娘は身震いした。まったくぬくもりのないそれは、生きているものから放たれたとは思えない。心の中にじわりと確信が広がる。
――この子やっぱり、人間じゃないのね。
『俺はあんたの守り神!』
連れと出会ったのはつい数日前。悪い人買いから逃げだした娘の前に、突然ぽっと現われた。
『あんたが持ってる、婆さんの形見の水晶の中に棲んでたんだけど。この窮状、見るに見かねちゃって。あんた道案内が必要だろ? だって何にも見えないんだから』
なれなれしくて、ぐいぐい手を引っ張ってくるから、娘はとまどうばかり。足音や腕を掴んでくる手の形からすると、人間と似た姿をしているようだが……こわくてまだ、自分から相手に触れたことはない。
冷たい手に引っ張られながら、逃げて逃げて逃げて。暗い洞穴をやっと出たと思ったら、こんな処に出てしまったのだ。
どどうどうどう。怒れる咆哮が飛び交う中、娘は途方に暮れて、頬に落ちた細かい水しぶきを拭った。
来るな 来るな 来るな
すぐそばにある滝の水は、ひどく憤っているようだ。
あっちへ行け 行け 行け!
突然ばしゃりと、頭に水がかかった。勢いよくはたかれた気がして、娘は後ずさった。
背中から、別の滝の音が襲ってくる。
こないで こないで こないで
娘は悲しくなってまた後ずさった。
ここだよおいでという言葉が聞きたくて、一所懸命耳を澄ました。
痛くて血が出そうな言葉は、もうたくさん。今まで嫌というほど投げつけられてきた。
もうずたずたなのに、さらに切り裂かれるなんて耐えられない……
優しい音に抱きしめられたくて、娘は滝の音をひとつひとつ、じっくり聴いた。
どどうどうどう――
あっちへ行けよ!
こんな子いらないなぁ。
もう少し可愛けりゃ買ったのに。
どの滝も、ごうごう怖い調子で吠え猛る。娘は身を縮めて涙ぐんでしまったけれど。
麦の穂きらら
濡れるまぶたをおさえてしゃがみかけたそのとき、遠くからかすかに、柔らかな音が耳に入ってきた。
ゆらゆらきらら
風にゆられておねむりよ
「ああっ……!?」
娘はびっくり仰天した。それは柔らかくていとおしくて。とても懐かしいあの――
「ねえ、あっちよ!!」
娘は力強く、連れの冷たい腕を引っ張った。初めて自分から手を伸ばして、連れを急かした。
ばしゃばしゃ足もとで水が跳ねる。突き出た岩に足がぶつかるのも構わずに、必死になって近づいた。
そのうたごえのもとへ。
麦の穂さらら
びゅうびゅうさらら
「うわ、すごくちっちゃい滝だなぁ」
連れの明るい声がひそりと陰る。
「虹もひとつしかない」
「家のもんが畑仕事する間、あたし、妹をおぶってた。いっぱい子守歌を歌ったわ。おばあちゃんが教えてくれたのよ。ねえどうして、その歌がここから聞こえるの?」
「子守歌? いや、俺にはなんにも……」
「ほんとよ、この滝、歌ってるの」
「そっか……あんたの耳にそう聞こえるのなら、ここから繋がる道はきっと……水が落ちてる裏側に、穴があるよ。入ってみる?」
「うん!」
連れに導かれて穴に入る瞬間、かぼそい滝の水が娘の頬を優しく撫でてきた。
雨にうたれて泣いたけど
空は晴れたよ きれいに晴れたよ
だから風にゆられておねむりよ……
まるでおばあちゃんが撫でてくれたようだと、娘はにっこり微笑んで。切なる願いを別のものに変えた。
きらきらと弾けるものに。
「ああ、あたしきっと、家に帰れるわ……! 」