お掃除の時間
午後三時三十八分。
校長室から出て来た二年の遠野太一は、突然後ろから呼び止められた。
「ちょっと!」
だから太一はその無骨な顔を後ろに振り返ると、大抵の同い年の女子ならば怖がるであろう目を、細めては睨みの効いた表情をそちらへと一瞬向けた。
この時間に校長室から出て来た事のばつの悪さは気付いていたからだ。
しかし声の主はそんな太一の威圧的な表情にもピクリとも怯まなかった。
何故ならば彼女は、今この中学に教育実習に来ている女子大生だったからだ。
「まだ清掃時間が始まってから五分くらいしか経っていないわよね。一体何処に行くの」
彼女は太一の睨みにも負けないつもりでか、その可愛い顔を無理に引き攣らせては、威厳を持たせる為に紺色のスカートスーツの上から腕組みをしながら続けてそう言う。
「何処って、帰るんです。掃除終ったから」
太一は今度は表情を緩ませ、少し笑顔さえ作る様にして、そして口を開いた。
それはこの先生の事を知っていたからだ。
太一は元々マセた子供だった。
小学校の頃に熱烈に好きになった女子がいて、その子と付き合いたいが為だけに、女の子と仲良くなる為のHow To本等を幾度となく万引きした事があった。いや、これは正確ではない。現実には今も万引きは続いているのだ。そしてその成果もあって、今まで女子を妙に意識して喋る事の出来なかった太一は、中学にして女子とも気楽に話をする事が出来るまでに成長した。しかしながらその意中の女子は、母親の起こした交通事故を境に現在は学校には来ていないのだが…。
とにかく、そういう経緯で太一は女性というものには目ざとく、当然この教育実習の先生の事もチェックしていたのだ。
彼女の名前は秋月梨華子、身長は百五十センチ程で、胸はかなり小さく、お尻はその華奢な体つきからは意外な感じだが、スカートを少しピチピチにさせる(言い換えればお尻の形が分かる)程度に大きかった。そんな感じだから、顔も幼気で可愛かったので、肩に掛かる少しカールの効いた髪共相まって、一見すると中学生でも通らなくはなかっただろう。
だから太一はこの先生がもし同級生であったなら、きっとモテただろう事は全校集会の実習生挨拶の時既に感じていたし、それは直ぐに現実のものとなった。
梨華子は、「りーちゃん♪ りーちゃん♡」と男女問わずの生徒達からあだ名で呼ばれ、直ぐに人気者の先生になったからだ。
当然太一もこの先生の事が嫌いな筈はなかった。
「掃除はどうしたの。まだ清掃の時間でしょ」
「だから終ったんです」
「ちょっといらっしゃい」
そう言うと梨華子は自分の直ぐ脇にある校長室の扉を開けた。
どうにも納得がいかなかったからだ。
校長室は引き戸ではなくて開き戸で、中にもう一つ横に扉があり、それは職員室へと繋がっていたが、普段は閉じられているので、今もそこは閉まった状態であった。
太一は仕様がないので、校長室の直ぐ隣にある昇降口の側から、引き返す様に校長室へと向かう。
先に校長室へと入って行った梨華子は、繁々と中の様子を上へ下へと眺めたが、しかしながら校長室というものは、常々から生理整頓され綺麗な状態にあるから、掃除をサボったという証拠を探すというのには不適切な場所だった。
だから梨華子は太一が中に入って来ると、少しばかり作戦を変えて、壁に掛かった時計の方を指差して口を開いた。
「ほら、まだ三時四十一分。掃除をしていなきゃいけない時間でしょ」
「でも、早く終ったんなら帰ったっていいんじゃないんですか。どうせ掃除の時間なんてあと四分もないんだし」
「じゃあ君は何をやったの。何処を掃除したの。規則なんだから時間一杯まで掃除しなきゃ駄目でしょ」
太一の言葉に厳しく返す梨華子に、少しばかり気分を害したのか、それに対して太一は強く足元の床を指差した。
「床をモップでかけました」
「それだけ?」
その言葉に呆れた様な声を出した梨華子は勢いもそのままに続けて口を開く。
「ガラスは? テーブルは? 何もやっていないんじゃないの」
それはもう、普通に怒られている様で、正直太一は納得がいかない気持ちになって来た。
太一は今日は、母親の起こした交通事故以来学校に来なくなった好きな女の子の家の様子を見に行こうと思っていたのだ。
それなのにこれでは下手をすれば掃除の時間以上に小言で時間を取られそうである。
そして何よりもこの先生がある点に気付いていない事に腹が立って来ていたのだ。
「ガラスはやらなかったけれど。でも先生、テーブルはどうやって拭くんですか? 来賓の方とかが使うテーブルを、清掃用具室にある汚い雑巾で拭いていいんですか」
「それは…」
それには梨華子も即答は出来なかった。
太一にして見ればしてやったりである。
しかし太一の攻撃はこれで終わりではなかった。
寧ろここからが本番で、これを言う事で太一は先生に褒められこそすれ、怒られる筋合いはなかったと思われる自信があったのだ。
(これでりーちゃんは俺を可哀想だと思って、きっと好感度も上るぞ♪ どーしよう、あまりにも感動して俺の事を抱きしめて来たら♡)
だから太一はそんな事まで想像しては、期待に胸を膨らませて次の一手を口から吐いた。
「それに先生、気付かないんですか。校長室の掃除、先生に呼び止められたのは僕一人ですよ。清掃は班ごとですよね」
「ええ、それはそうね。他の生徒は?」
梨華子の問いかけは、まさに計算通りだった。
だから太一はこの瞬間心の中で『勝った!』と思わず叫んだ。
「僕が来た時からずっと、誰もいません。きっと皆、校長室なら普段から綺麗だから、掃除しなくてもバレないだろうと思って帰ったんですよ。でも僕は来ました。床のモップかけだけだけど、ちゃんとしました」
「それで?」
「えっ?」
それは太一にとって予想外の言葉だった。
「それでって?」
だから太一は思わず梨華子の言葉を繰り返した。
そしてそれから語気を荒げて付け加える。
「だから皆はサボったけれど、俺は来たんですよ!」
その際太一は思わず普段の自分が出て、『僕』とは言わず『俺』と言ってしまったが、そんな事はこの際どうでも良かった。
今はただ、自分のイメージの回復と、梨華子の心象を良くする事だけが最優先の課題だったからだ。
しかしそんな思いとは裏腹に、次に梨華子の口から出た言葉は太一にとって更に辛らつなものだった。
「それはまさか、他の生徒は全くやらなかったけれど、自分はちょっとでもやったんだからいいだろうって事?」
その言い方は、直ぐに太一の中で引っ掛かった。
確かにそうなのだけれど、何やらその言い方だと自分が悪い様に聞こえる。
(これはおかしい)
太一は梨華子が何か勘違いでもしているのではないかと思った。
何故ならば自分さえも校長室の掃除をサボっていたならば、誰も今日は校長室を掃除しなかった事になるのだ。しかし現実には自分はやって来た。そして誰も来ない事に気付くと少しとはいえ掃除をしてから早く切り上げただけだ。
だって他の奴らは来もしなかったのだ。ずるいではないか。
それに比べれば少しくらい早い時間で清掃を終らせたとはいえ、自分はこの状況の中ちゃんと来て自分の分程度にはやって行ったのだ。
それなのに何故自分が責められる様な事を言われなければならない。
だから太一は、つい大きな声で叫んだ。
「そうですよ! だってずるいじゃないですか! そしたら俺だって少しくらい早く終らせて帰ったっていいじゃないですか。大体、一応掃除をした俺が怒られて、先生はサボった奴らの事を触れようとしない。これっておかしくないですか? これじゃあ掃除をしに来た俺は損だ!」
そんな太一の言い分を聞いているうちに、梨華子はどうしたのだろう。
頬が徐々に赤くなり、目が潤んでいく。
そして溢れそうになる涙を堪えようとしてか、若干嗚咽を漏らし気味に話しだす梨華子。
「そういう風に考えるの? 君はそういう風にサボった生徒達と比べて考えるの? 皆がサボったから、自分もサボらなきゃって思うの? 規則とか決まり事とかは重要じゃないの?」
話しながら梨華子の瞳からは、大粒の涙が溢れて来ては、少しずつ頬を流れ始めて来た。
太一の言動が、悲しかったのだ。
「ちょ、ちょっと、先生」
そしてそんな涙ながらに話す梨華子に、太一は驚いていた。
全く以って意味が分からなかったからだ。
何故急に泣きながらそんな事を言い出したのか、一体何がいけないのか。
「君は自分だけが損をしたと思うの? そういう風に感じるの?」
尚も梨華子は泣きながら太一にそう問いかけると、あまりにもそれが悲しい事だったのか、その場でしゃがみ込むと腕で顔を覆った。
そしてその頃には太一は、そんな梨華子に呆れ果てていた。
やれやれである。
意味も分からずただ急に泣き出した梨華子を、太一はただその場に立って呆然と見続けるしかなかった。
(これじゃあ余計に帰るのが遅くなるだけじゃないか…)
時計は午後三時四十五分。
今まさに清掃終了のチャイムが鳴り始めていた。
そしてそんな中、太一が閉めたつもりでいた扉は僅かばかり開いていたのか、校長室の机の上に置かれた花瓶の中の花は、静かに揺れた。
アリウムの花が。
お わ り
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