其の拾七 夢幻の如くなり
日中に降りだした雪の中、エンとヨシノはチセの眠る墓の前で手を合わせていた。墓といっても立派なものではない。近くの寺が持つ埋葬地の隅に埋葬させてもらい、墓石も自分たちで形のよいものを見つけて運んできた。その隣にはカツヤ翁の墓が並んでいる。
エンとヨシノは伊賀から戻ると、これまで貯めてきた銭を投げ打ってこの寺への埋葬を願い出た。だが、埋葬といってもチセの遺体や遺骨があるわけではない。墓の下にはチセの持ち物やチセがよく身に着けていた物、そういった物を身代わりとして埋めた。本来、忍の最期などというものは、その名の通り人知れず朽ち果ててゆくものかも知れない。それでもエンは、どうしてもチセがこの世に存在した証しを残したいと願った。
カツヤの墓にしても、エンが用意せずとも服部家が供養くらいはしてくれただろう。だがこちらも、カツヤの最期の旅を共にした者として、そして仲間を全滅から救ってくれたせめてもの礼として、自分たちで埋葬をしたかった。
チセと三人で温泉旅行へ行く計画は果たせなかった。そんな旅の資金がまさか墓に代わるとは、この世は無常なものだ。
エンはカツヤの墓の前に生えた雑草を抜きながらヨシノに言う。
「あのカツヤさんの技を見ただろう? 引退してもあれだけの動きができるんだぜ。しかもだ、俺たちが見たものなんて、まだあのおっさんの中のほんの一部分だったのかもしれない。そんな凄い人なのに…… カツヤさんは現役時代の全てをこの里の忍として働いて、あれだけの懐の深さをもってしても、最終的に猿級どまりだった」
「うん」
「その一点を持ってしても、十津の里は忍に冷たすぎる。俺がいまだにこの里を好きになれない所以さ」
「だからこの里で骨を埋める気はないと?」
「ああ、そうだな。それにカツヤさんと違って、俺にはまだ義理立てするほどの恩もこの里には無い」
エンは美濃へと帰ることを決めていた。抜け忍となった原因である徳川の忍殺しの件が赦免された今では、古巣の濃武の里から距離をとる理由がなくなっていたのだ。
「そうだね…… でも、淋しくなるな」
「ヨシノ、お前はどうするんだ?」
「私ももう今回のことで、忍には見切りを付けたわ。神部ではエンを助けたい一心で跳び込んだのだけど、あのあとカツヤさんに「よくやったな」って褒められたんだよ。もう思い残すことは無いわ。この先はエンやチセに勧められた食事処でも始めようかな」
「そうか、そりゃあいいな」
負けて逃げるのではなく、前向きな引退であるならエンも応援したい。
「少なくともタイガが養成所に入る春までは俺はここにいるから。その間、お前の店の準備にできるだけ協力するよ」
それ以降、エンは労務局へ足を運ぶことが多くなった。それというのも、ヨシノの計画が杜撰だったからだ。ヨシノ曰く、これからもチセの家に住み、タイガが帰ってきたときにも同じくチセの家で一緒に暮らすという。そこまではエンにも異論は無いのだが、お隣のタイガの住んでいた家を店に改造するというのだ。村の外れに建つ家をである。
『誰がわざわざ食いに来るんだ?』
そもそも人が通らない場所なのだ。それではどんなにヨシノの腕が良くても成り立たない。そこでエンは労務局の土地に目を付けたのだ。
十津の里へと帰還して間もなく、労務局は聞き取り調査のために、生きて神部から帰ってきた三名を個別に呼んだ。その場においてエンは労務局員に苦情を申し入れた。
数々の状況証拠から、相手が難物と知った上で労務局員は一人も同行せず、身代わりとして忍たちを神部へ派遣したと見てとれること。派遣する忍に先方の情報を共有することなく行かせたこと。そのせいで、約半数の忍が命を落とした事実。それも、現役生活の全ての任務で生還を果たした里の功労者であるカツヤが命を落としていること。これらを厳しく糾弾したのだ。
労務局内でも今回の件はさすがに無責任が過ぎた、それによって起こった波風が大き過ぎたと、事態を問題視する声が挙がっていた。また、カツヤの死を知った里の者からも何があったのかを公表しろと詰め寄る者が現れたりと、十津の里労務局の信用に関わる穏やかではない状況であるだけに、外様であろうと事件当事者であるエンの訴えをむげに聞き流すわけにはいかなかった。
「そこで、一つ保障をしてもらえませんか?」
「保障?」
「今回の一員であったヨシノは、忍のお仕事ではなく、あなた方のお手伝いにおいて凄惨な事件に立ち会うこととなり、心に受けた傷から忍のお仕事を続けられず、転職を余儀なくされています」
「だから労務局に入れろとでもいうのか?」
「まさか。彼女は料理の腕が確かなので、食事処を始めるように勧めているんです」
大きな要求とそれを労務局へ飲ませるための脅しが突き付けられることを警戒していた局員だったが、料理や食事といった言葉が飛び出したことでポカンとしている。エンは続ける
「今は使われていない労務局の南西の建物、あれも労務局が所有するものなんでしょ?」
「ああ、あれは以前、警備が詰めていた場所だが……」
「あそこを食事処として使わせてください。もちろんタダではなく、売り上げの一割を借り賃として毎月労務局へお支払いします」
局員たちがザワついた。コイツは何の話をしているのかと理解をしない者、使っていない建物から利が上がるなら貸していいという者、そもそもなぜ労務局が外様に保障などせねばならないのかと撥ね付けようとする者など、すぐには話はまとまらなかった。
「ヨシノへの保障をしていただければ、今回の件の当事者である俺とヨシノはもう事件を不問とし、今後この事を他人に語ることは無いでしょう」
これは、保障がまとまらなければ、他人に語って事を荒立てるとも取れる言い回しである。結局これが効いて労務局側も首を縦に振った。
食事処となる建物へヨシノを連れて行くと、彼女は目を丸くして驚いた。
「こんな良い場所がお店?」
「もともと警備の者たちが詰めていた所らしいから、それなりの人数が入れるし、調理の場所もある。ここなら少し改造するだけで、店を始められる」
一緒について来たタイガが「おお!?」と、建物の中を走り回っている。
「家賃は売り上げの一割だが、店に来る客層はすぐ傍の労務局の局員や独り身の忍、里外から労務局への訪問者が主なところだろう。まぁ彼らの銭がぐるぐると回ることになるわけさ」
「ありがとう…… ほんとうに」
昨夜、タイガの実家を店に改造する案をエンから散々に貶されたヨシノは正直なところムッとしてついて来たのだが、エンの用意した物件の好条件を目の当たりにすると、昨日までの自分の計画が恥ずかしく思えた。
やがて大和の雪は溶け、いよいよタイガが養成所へと入所する日となった。三人はチセの家の前に出た。朝の光が眩しい。本人の希望もあって、この数ヶ月はタイガもチセの家に住まわせていた。毒蛾亡き今、毒蛾の仲間たちが世間からどう見られているのかはよく分からないが、そのような雑魚に興味など無いといったところが世の大勢なのではないだろうか。
タイガの衣服は今日のためにヨシノが布を縫い合わせて作ったものだが、タイガの体の成長を見越しているため、少々ダブついている。新入生らしい出で立ちだ。タイガはヨシノによく懐いていて、ヨシノもよく面倒を見ている。二人の別れは長くなるかもしれないと、まずはエンからタイガへ声をかけた。
「入所祝いだ。これをやるよ」
そういって差し出したのは、十津の里での初仕事の際、ヨシノと共に乗り込んだ流れ者のアジトから持ち帰り、以降エンが愛用していた短刀だった。
「いいのか?」
「俺の持ち物でお前の役に立ちそうなのはこれくらいだ。まぁそのうちお前の背丈にも合うようになるだろう。実用的な御守りだからな、護符なんぞよりよっぽどものの役に立つだろうよ」
タイガの手に短刀を握らせる。本物の刀を手にし、タイガは目が輝くのを隠せない。これが名のある刀剣だとは知られぬまま、エンからタイガへと受け継がれた。
「賢い忍になりな。そして、できればヨシノを守ってやってくれ」
横で聞いているヨシノは、強くなれと言わないところがエンらしいと思った。タイガは小さく「うん」と応えると、頭からエンの腹に跳び込んで抱き付いた。不意に腹に衝撃を受けたエンの息が止まりそうになったが、タイガが初めてエンに見せた態度に、腹の痛みをこらえてタイガの頭を撫でた。
「はは、遅いよ、なつくのが」
「うるさい……」
顔は見えないが、言葉は相変わらず生意気だった。
そのあとのタイガは、ヨシノからの確認攻めを受けた。忘れ物は無いか、髪が乱れている、衣服の着方がだらしない、から始まり、夜寝るときは冷えないように、夏と正月の休みくらいは帰ってきなさいなど、母親のように門出を見送るヨシノに手を振りながら、タイガは忍への一歩を踏み出していった。
それからさらに数日が過ぎ、いよいよエンが十津の里を離れる日となった。里の外までヨシノはエンを見送るという。
チセの家の居候の身として寝食を共にした。外様の忍として、二人で助け合いながら命をかけてお仕事を遂行した。エンは役立たずといわれていたヨシノに活躍の場を作っていった。そうした生活の中でいつしかエンは、ヨシノにとって特別な人間になっていった。その『特別』が、恋や愛を含んだ特別なのかはヨシノ自身にもよく解らないが、心から信頼できる唯一の異性であることは間違いなかった。だからこそ、これでお別れとなれば話したいことはいくらでもある筈なのに、なぜか言葉が出てこなかった。
あっという間に里の外へ出た。エンは止まってヨシノの方を向くと、
「じゃあな。またいつか会おう」
そういって、拳をゆっくりと突き出した。エンとヨシノ、二人の合図である。
「うん……」
そう返事をして拳を合わせるのが精一杯だった。去りゆくエンの背を見送るヨシノの頬を涙が伝った。
エンはチセと一緒に初めて大和へとやって来たあの時の道を逆に辿りながら、美濃へと歩いていた。そうしながら、チセの言葉、チセの表情、これまで見てきた全てのチセを思い出していった。それは、大和での日々の全てを一つに束ね、過ぎ去った想い出として心の中にしまい込もうとしているようだった。
美濃国へ入ってからは山森の道なき道を進み、やがて峠道へと出た。
『この道はもうすぐ左へと曲がっていく』
エンのよく知っている道だ。そしてそのまま進めば、サヨの茶屋へと辿り着く。つい最近歩いたかのように鮮明に思い出されるその道に懐かしさは無い。
そもそも旅のきっかけは何だったか。チセを助けたこと? その前に眠気覚ましに茶屋へ行ったこと? いや、そもそも朝まで呑んだこと。そうだ、エンはただ日常の中で、飲み仲間と深酒をしただけだったはずなのだ。本当は何もかも全て、酔いつぶれて眠って見た夢ではないのか。そんな風に考え出すと、むしろ二年ものあいだ別の国に暮らしていたことの方が、まるで夢か幻のように思えるのだ。
エンは濃武の里へと続く茶屋の前に立った。ほどなく店内でガシャンと何かが落ちる音がしたかと思うと、店からサヨが飛び出してきた。二人が静かに対峙する。行方を気にかけ心配し続けていたエンが目の前に立っている。サヨはまだ信じられないといった表情だ。
「ただいま」
エンから言った。少し背が伸びてサヨの身長を超えていた。どことなく雰囲気も変わったが、あの時のままの声にサヨの心も落ち着いた。
「お帰りなさい。心配したのよ」
「ごめんなさい」
あんな別れだっただけに、もっと叱られるかとエンは覚悟していたが、サヨは怒らなかった。怒るどころか優しく微笑みながら尋ねた。
「あの子も無事だった?」
あの子とはチセのことだ。二年前のあの日、エンが茶屋の前で徳川の暴漢を殺してチセを救った。そのエンをサヨが逃がした。サヨはそれからのエンとチセのことを知らないのだ。
「うん…… 無事だったよ……」
俯いてそう答えるエンの目には涙が滲んでいだ。遠い過去の想い出として心にしまい込んだばかりなのに、サヨの問いは早くもエンにチセを思い出させていた。そんなエンの様子から、ただならぬ事があったのだろうと察するサヨであったが、それ以上深くは尋ねなかった。ただ、そっとエンの頭を撫でて
「よしよし。つらいことがあったんだね」
そういって、エンの帰還を喜んだ。
第八章 ── 完 ──




