其の拾三 そんな愛のかたち
レイトの描く絵図をヨシノが覗いている。
「ふぇ~、上手なもんだねぇ」
「忍にしておくのは惜しいだろ? 都で流派でも興せばいいのに」
レイトの絵は妙に立体感があり、絵心の乏しいエンには地図というより絵画のようにも見えた。
「褒め過ぎだ。つーか、都の絵師を舐めすぎだ」
そう無愛想に応えるも、褒められて悪い気はしていない。
この数日、レイトは足で関の領内を巡り、時に木に登って観察し、地図を描き進めていた。エン・チセ・ヨシノも情報収集のために毎日関の領内を探り回っている。三人揃って動く日もあれば、バラバラに動く日もあった。
そんなある日の午後のこと。合流したヨシノにレイトが言った。
「さっき、不穏な噂を聞いた」
「不穏な噂?」
「ああ。何でも尾張の方から今日、砦の調査にやって来た連中が話していたんだがな、どこぞの軍勢がこの関を攻めようとしているってんだ」
関の城を攻めようというのか、それとも建造中の砦の破壊が目的なのか。もしも砦を軍勢が囲むようなことになれば、ヨシノたち調査の忍が近づけなくなってしまう。
「ここが戦場になるの?」
「分からん…… よくは分からんのだが、どうも近隣との仲間割れのようなのだ。ま、それ以上のことは分かんねぇから、ヨシノさんもせいぜい気を付けて動いてくれ」
レイトとヨシノがそんな話をしていた頃、チセは東の砦からほど近い空き地にいた。そこは、西側に木々が壁となっていて砦から見つかることが無い。また、東も大石が積年の積もり積もった土に覆われることで自然の起伏ができあがっており、目立たない待ち合わせ場所としてエンが見つけた場所だった。今日はここでエンと合流して、レイトたちの居場所へと戻ることに決めていた。
草の上に腰を下ろし、今日見てきたことを何と言って報告しようかと、頭の中で整理する。そんな些細なことも楽しかった。チセはこの安いお仕事を毎日生き生きとこなしている。本当はこうしてお日様の下を駆けまわる方が、彼女の性には合っているのだろう。そういう点からも、女性にくノ一としての籠絡のお仕事を強要される十津の里に育ったことは、チセの不幸であったといえる。
そんな時だった。チセが人の気配を感じたのは。
『エンが来た』
チセがそう思ったのと岩陰から足が見えたのは、ほぼ同時だった。残念ながら、エンの足ではない。見上げるとそれは見知らぬ男。しかも、忍ではない。武装しているのだ。
ハッとしたチセが立ち上がったときには、二人、三人と武装した兵は増えていった。
「こんなところに女子か」
そういって兵士の一人が品定めでもするように、チセを見る。
「こんな所で何をしている?」
「付近に住む者か? それとも他国からの忍か?」
兵たちが口々に問うてくる。しかし、チセは黙して口を開かない。様子からして、おそらくこの兵たちは砦ではなく余所から入ってきた者たちだろう。であれば、何と答えたところで、彼らを目撃したチセをタダで解放するとは思えなかった。
だが、チセと兵との距離が近すぎた。チセは振り返って逃げようとしたが敵兵はそれを許さず、チセの腕を掴んだ。
このときエンは、チセと敵兵の傍にある岩の裏へ回り込んでいた。チセとの待ち合わせ場所に武装した兵が立っていることに気付いていた。すでに刀は抜いている。エンは敵の死角から岩を駆け上ると、勢いそのままに無言で跳躍した。そして、チセを掴む兵の手の関節を狙って刀を振り下ろす。鎧にも手甲にも守られていない肘を狙ったのだ。
ところが、腕を掴まれているチセは、気丈にもここで敵兵の手を引き寄せたのである。それによってエンの斬撃の当たる場所が敵兵の肘から、肩当てに守られる二の腕へとズレてしまった。
── ズザッ!
敵も味方も目を見張った。腕が一本、ごろりと地面に転がったのだ。とつぜん飛び掛かるように割って入ってきた男の振り下ろした刀が、鎧ごと兵の腕を切り落としたのだ。
斬られた兵は苦悶の声を挙げ、他の兵は思わず後ずさった。
「なんて切れ味だ!? こんなものは、ただの物見の武器ではない。こいつは城方の武士の一門じゃないのか!」
敵兵の一人が思わず声を上げた。エンのこの刀は、先のお仕事にて退治した流れ者のアジトから勝手に持ち帰った物なのだが、この刀で斬るのはエンも今が初めてのことであり、エン自身もその切れ味の鋭さに驚いた。エンはこの刀の銘すらも知らないが、敵が驚いてくれているのだから、これを利用しない手は無い。
「ふん、次はどいつだ? 俺は無用の殺生は好まぬが、貴様らが望むとあらば、この妖刀『渡部篤郎』の錆にしてくれるわ」
「妖刀篤郎…… 聞いたことが無い、新参の名工か」
「新参だろうがあの切れ味だ…… 城の者がこんな所に出ているなんて、儂は聞いてないぞ。ここは退いた方がよい!」
負傷した兵を抱え、敵兵たちは去っていく。エンは追わなかった。その場はエンとチセの二人だけになった。
「エンが妖刀を持っているなんて知らなかったわ」
「うん、俺も知らなかった」
「え? じゃあ、何たら篤郎って名前も?」
「あぁ。あれは咄嗟に考えた鍛冶っぽい名前さ」
刀が思ったよりよく切れた以外は、エンはあの場を全て嘘で切り抜けたのだと、エンのその言葉でチセも悟った。するとチセは何だか可笑しさがこみ上げてきて、ついに我慢できず声を上げて笑った。そして、笑って溢れた涙を袖で拭きながらエンに言う。
「ありがとう。危ないときはいつもエンが助けてくれるね」
「いつも俺がついている…… と言いたいところだが、さっきは俺が助けなくても自分で反撃しようとしていたんじゃないか?」
たしかにエンが敵兵の腕を斬る直前、チセは逃げるどころか相手の手を引き寄せようとしていた。あの動作に反撃の意思を感じられたのだ。
「うふふ、気のせいよ。あたしはか弱い女子、頼りにしてるわね」
どうも手の内を明かす気はないらしいチセに、エンはのらりくらりとかわされるのであった。
まだ日のあるうちにエンたちはレイトと合流できた。
「この砦の裏手から、ここをこう抜けるように道が開かれていた。たぶんそこを使って資材を運び込んだんだろう」
「さすがにオメェは目ざといな。これはなかなか良い情報になる」
いつものようにその日見てきたことを報告し、皆で有益であると判断すればレイトが地図に書き込んでゆく。そんなことを繰り返して、地図も随分と詳細になってきた。地図への追記が落ち着くと、エンとチセの身に起こった今日の災難に話が移る。
「オメェたちがどこぞの兵に襲われたってんなら、噂は本当だったようだな」
「こうなると、城方からすりゃあ、砦の見物客なのか敵の偵察なのかの区別も付かんだろうからなぁ。今後は我らへの警戒と対処が厳しくなるかもしれないな」
「見物客」といっているのは、新たな砦の様子を探るために各地から派遣されてくる忍のことである。ワラワラと集まってくるので、追い払ってもキリがない。そのため、相当に目立った行為でもしない限りは、砦方も躍起になって山から追いたてたりはしない。だが、領地を脅かす敵が迫っているとなると、話は変わる。敵の斥候や偵察は放置してはおけない、排除すべき対象となるのだ。
「西の砦の調査はこの辺りで切り上げるか。東に移るのも今はやめて、しばらく離れて様子を見た方がいいだろう」
レイトはなかなか慎重な判断を下す。エンたち十津の三人は、同里のハツとの持ち場の取り決めで、西側の砦の調査のみで良いことになっているのだが、レイトと組んでいる今となっては、西が終わったからさようなら、というわけにはいかない。里に報告は行わないが、レイトに付き合って東側の調査も行うつもりでいる。
翌日エンたちは南の領境付近まで移動して、のんびりと二日間をすごした。そして三日目にハツとの打合せのため、エンだけが北東へ向かった。
ハツたちがねぐらにしている木蔭、そこにこの日もハツは居た。しかし、その様子はこれまでと明らかに異なった。名も聞かされていないハツの仲間が寝ていた。
「あぁ…… エン、……そうか、オマエが来る日だったな」
「どうした。何かあったのか?」
ハツの憔悴した様子が、何事かが起こったことを物語っている。エンの問いかけにハツが記憶をまとめるようにして話し出した。
「砦の兵に足を射られたのだ。昨日、ここから北東の砦を見に行ったときにな。きっかけは他里の忍同士が口論を始めたことだった。止める者に加担する者、それが騒ぎとなった。砦の目と鼻の先だというのに。その時だよ、砦からそこらじゅうに矢が飛んできたのは……」
たしかに寝ている男の脚に巻かれた布は、一部が赤く染まっている。おそらくハツは、傷を負った仲間を早く里へ戻したいという思いと、引き続き忍の任務を全うせねばならないという忍としての責任感の間で葛藤しているのだ。
「後でまた来るから、今日はここでそいつの面倒を見ていろ」
そういって姿を消したエンが再びハツの前に戻ってきた頃には午後になっていた。エンは紙をハツに手渡す。それが何なのかが分からず、折られた紙を開いて内容を見たハツが、「これは……」と、呟きながらエンの顔を見た。
「西側の調査結果だよ。それをお前にやるから、そいつを連れて先に里へ帰ればいい」
「いや、でも……」
「西と東で調査を分担したことなんて、里の誰も知らないんだから、お前らが西側を調べたことにしておけ。東側は俺たちが引き継ぐよ」
ハツはためらった。それが、申し訳ないという思いからなのか、見下していた毒蛾とその仲間から情けを受けることを嫌ったからなのかは判らない。しばらく考えたハツは、「恩にきる」と、エンの提案を受け入れたのだった。
仲間の元に帰ったエンは、ハツとの間であった事を情報共有した。
「なんだ、テメェは善人だったのか。気持ちの悪い奴だなぁ」
ひどい言われようであるが、エンに地図を渡したのはレイトでもある。
「世の中ってのは狭い。美濃を去って新天地へと旅立った俺たちが、すぐにこうして再会したようにな。だから、売れる恩は売っておく。狭い世の中でいつその恩が効いてくるかも知れんしな。それだけのことだよ」
そんなエンの言い分をニコニコと聞いているチセとヨシノを見て、レイトは呆れたように苦言を呈する。
「おい、オメェらもコイツを甘やかしすぎなんじゃねぇか? こういうときは、念のために叱っておいた方がいいぞ」
「エンがそれでいいのなら、私もそれでいいよ」
儲け度外視でお仕事に来ている人たちは、銭や労力に執着が無い。コイツらがどうかしているのは毒蛾だからじゃなくて、こういう世間とズレたところだとレイトは思ったが、口には出さなかった。
さらに二日ほど、のんびりと過ごしたエンたちは、活動を再開した。レイトは西側のときと同じように、関の東側を見て回って、地図を起こしていった。
エンはハツから引き継いだ情報の裏取りから始めて、その後は砦に張り付く役を担当した。ハツの仲間が砦から射られた件を考慮して、遠筒を持って少し離れた位置からの観察が可能なエンが適任だったのだ。
そして砦から離れた場所は、チセとヨシノが二人揃って調べて回った。チセのそつのなさとヨシノの警戒心により、これも無事に動き回ることができた。
さすがは諜報に長けた忍というところか、この頃になると先日の砦方による周囲への攻撃の詳細は、砦を調査する忍たちの知るところとなっていた。
エンたちが関に入った頃のこと、この夏に甲賀郡に出て武功を挙げていた関の主力部隊が帰還したらしい。これによって城や砦に駐留する兵たちは、にわかに活気づいたという。そんなところに嘘か誠か何処ぞの軍の襲来の噂が立ち、噂は砦の駐屯部隊も知るところとなった。
そんな経緯があってあの日、血気にはやった砦兵によって、砦の周りに湧く目障りな忍どもに報復の攻撃が行われたのだという。
果たして噂は真実だったのか、そしてチセが遭遇しエンが斬ったあの兵が何者だったのかは謎のまま時が過ぎ、東側での地図は完成をみた。
そしてさらに日は経ち、肌寒さも目立ち始めた十津の里。労務局にエンとハツの姿はあった。関での調査完了の報告、そして成果物を納品し、労務局から報酬を受け取っていた。
「オレが受けた報酬だが、これはお前が受け取るべきだ」
ハツはそういって銭をエンに譲ろうとする。
「結果はどうあれ、お前たちが現地に赴いて、お仕事をしたのは事実だ。それはそんなお仕事での拘束時間への対価なのだから、貰っておけばいい」
「しかし、あの成果物も全てオマエたちが作った物だ。あれを納めて完了と認められたのだから、オレが貰うべき銭ではない。むしろオマエのおかげで、オレは任務失敗の汚点が付かなかったのだから、それだけでも有り難いのだ」
人は変わるものだ。ハツから毒蛾とその仲間への見下した態度は、もう微塵も感じられない。
「とはいえ、仲間の脚の治療費もかかるのだろう? ならその銭は俺たちからの見舞いと思って持って帰りなよ」
じゃあねと軽く手を上げ、エンはハツに背を向けたが、「あっ」と思い出したようにエンはハツの方を向き返って言った。
「この事、里の連中には言うなよ。毒蛾の仲間と馴れ合っているなんて思われたら、お前もロクな目にあわないからな」
それだけ話すと、あらためてエンは去っていった。ハツはその背に向かって、頭を下げた。
ハツへの一連の対応は、人を心酔させるお手本のような行動だったが、当のエンにはたいした狙いは無い。此度のお仕事はチセとヨシノと共に遊び半分で楽しむために臨んだものだから、報酬へのこだわりが無く、心に余裕があっただけなのだ。
秋は深まり紅葉が大和の山を染める季節、エンにとっては二度目の赤い大和の山。エンはチセと二人でそんな山へ入っていた。冬を前にして残った生命力を使い切るかのように、山の幸はそこかしこで土から頭を出していた。日がてっぺんに登る前にもう袋はいっぱいになっていた。
遮る葉がなくなりエンの顔を陽が差した。そんな陽を受けてキラキラと水面が輝く川原へと出た。少し休憩にしようかと、川原の石にエンは腰を下ろした。なぜか元気なチセは、小川の水面に顔を出している石の上を、トントンとゆっくり渡って遊んでいる。そんなチセをぼんやりと見ていた。紅葉で朱に染まる向こう岸の木々を背景にして、秋の風に髪をそよがせるチセは何とも可憐に見えた。エンは近くチセに話そうと思っていた事を、今ここで話そうと決めた。
「なぁチセ、お前、他の里へ移らないか?」
「……え?」
エンが何を言い出したのか、真意をまだつかめないチセが戸惑う。
「やっぱり十津の里はおかしいと思う。俺はレイトの考えを聞いて確信したよ、お前が受けている不当な扱いは毒蛾だからじゃない。十津の里だからだよ」
たしかにレイトは対等にチセと接していた。エンも外から来た人で、チセに偏見など欠片も無い。これこそが世の中の正常な考え方なのであり、十津の大勢こそが世の中の異常なのだとエンは主張している。
「だからキミは、十津の里にしがみつき続ける必要なんてない。俺が居た濃武の里がそうだったように、忍としての実力を見て平等に接してくれる里は他にいくらでもあるはずだ。どこへ移っても、今よりはマシな暮らしになるといっても、言い過ぎじゃないくらいだと俺は思う」
チセは生え抜きの自分が里を替えるなんて考えたことも無かった。それだけに、この地での暮らししか知らない自分が外の世界で暮らすという提案は、魅力と同じくらいに不安も感じるのだ。
「もしも、あたしがそうしたら……、エンも一緒に来てくれる?」
抜け忍となったエンは当面の食い扶持を工面するために十津の里で忍をやっているが、今後の身の振り方については無限の選択肢がある。少なくともチセやヨシノはそう思っている。このチセの問いは、そんなエンにチセと共に里を移り、そしてチセと共に暮らしてゆくというエンの身の振りをある程度限定させるものといえる。エンがチセに大きな決断を提案したように、チセもまた、エンに大きな決断を迫ったことになる。
「キミのくノ一としての素質は、キミが自覚しているものより凄いんだよ」
「え?」
「俺はね、とっくにキミに魅了されている」
「それって……」
「惚れているってことさ。キミに言われずとも、俺はこれからもチセと暮らしたい。ずっと添い遂げてゆきたい」
優しい言葉だった。これまでチセの身体の秘密を知ってもなお、チセに優しい人などほとんどいなかった。優しげに彼女に近づいた者がいても、みな同調圧力を恐れてすぐに掌を返していった。だから今では、彼女に優しく接するのはチセの力を利用したい人だけ。唯一の例外であるヨシノ以外は。だからこそ、嬉しい言葉には寂しさも感じる。いずれ失望へ替わることが怖い。
「でも…… あたしと夫婦には…… ねぇ…… きっと後悔するよ」
「いつか跡取りが欲しくなれば、養子でいいよ。こんな時代だ、身寄りのない子供なんて山ほどいるさ」
エンらしい遠回しな優しさだと感じた。ここまで自分のことを考えてくれているエンの案に逆らう選択など無かった。
「分かったわ、ありがとう。今のあたしにできることは、これくらい」
スッと顔を寄せたチセは、エンの唇に唇を合わせた。初めて感じる柔らかい感覚。エンはチセの術に完全に落ちたことを実感した。
長いような短いような時間が過ぎ、唇は離れた。何と言葉を発すればよいのかが分からないあたりにエンの経験不足が露呈していた。いや、何かを言わねばならないと考えていること自体が若いのかもしれないが。その点、チセは落ち着いている。言葉は無く、優しい目でエンを見つめていた。そんなチセが、ふふっと小さく笑うと、
「やっぱりヨシノに悪いわね」
と、自嘲気味に言葉を漏らした。ヨシノの名を聞いて、やっとエンにも失われていた本来の語彙力が蘇った。
「あぁ…… そうだな。それ、よく解るわ。俺も初めてチセの家に来たときは、チセとヨシノが夫婦だと勘違いして、居心地の悪さを感じたもの。だから、俺たちが夫婦になったんじゃあ、ヨシノの居心地が良くないよな」
ときに鋭い読みや観察眼を発揮して周囲を驚かせるエンだが、こと自分に関わる色恋となると鈍感といわざるをえない。今のチセには、そんなエンも可愛く見えたのだった。
チセの生活の様式に大きな変化があったわけではない。今までと同じ里の同じ家に暮らし、同じお仕事を糧として過ごした。それでも、これまでの何年も変わることなどなかったチセの目に映る世界は、エンと出会ってからのほんの一年ほどで随分と変わった。それも明るい方へと。




