其の二 大和へ
「あたしを助けたせいで、あそこに居られなくなっちゃったね」
申し訳なさそうにそう言う女子は、名をチセといった。
「いいや、キミが助けを求めた訳じゃなく、俺が進んでやったことだ。キミが責任を感じることはないさ」
あの場で敵を全滅させて彼女の脅威を取り除いていたのならまだしも、今ではこうして一緒に敵から逃げている身である。いくら助けようとはしたとはいっても、結果がこれでは恩に着せても格好はつかない。エンにはせいぜいそう答えるしかなかった。
やがて日が暮れて世界を闇が包み、二人は美濃国西部の山中で火を囲んでいた。追っ手に足がつかないように、美濃を抜けるまでは森を進むと決めたのだ。
桃色の女子らしい着物姿のチセだったが、ここまで街道を避けて足場の悪い森へ入っても、着物の裾をたくし上げて苦も無くエンに付いてきた。そんな身のこなしから、彼女もまた忍なのだとエンには判った。何のことはない、エンは忍同士の抗争に手を出してしまっただけなのかもしれない。
ぼんやりと頭上を見上げるエン、木の葉に遮られて星空は見えない。ただ焚き火に照らされた枝や葉が小さく揺れているだけだった。
もしも、忍殺しの嫌疑をかけた徳川が濃武の里へと圧力をかけてきたならば、労務局は何と言い逃れるだろうか。そのような者は知らぬと押し通すのか、それとも一時所属はしていたが、以前に失踪して行方は知れず無関係だとでも言い張るだろうか。静かに揺れる木の葉を見つめながらも、頭の中ではどうしてもそんな事ばかりを考えてしまう。終始そんなむずかしい顔で座っているエンを火の向こうからチセが心配そうに見ていた。
「茶屋の人、本当はあなたの知り合いだよね。彼女が逃がしてくれたんでしょ?」
チセは鬱屈としたエンの気が少しでも紛れればと気遣って、積極的にエンに話しかけた。
「あぁ、そうだよ」
「綺麗な人だったよね。もしかしてあなたの恋人?」
「え? いや……まさか。姉みたいなもんだよ。兄弟のいない俺に、サヨちゃんは昔から姉のように接してくれているだけさ」
「それって幼馴染みでしょ? 幼馴染みが大人になって惹かれ合うなんて、よく聞く話よ」
「はは、じゃあチセには一つ不思議な話を聞かせてやろう。これは本人から教えられたことではないけれど、俺には分かっている。あのサヨちゃんはただの茶屋の娘じゃない。彼女もれっきとした忍なのさ。その証拠に、俺が思い出せる中でも古い幼い頃の記憶、その中に出てくるサヨちゃんは、すでに今と全く同じ容姿だったよ」
「それって本当なの?」
「もちろん本当さ。ついでに言えば、あの店の奥にいる無口な爺さんもあれ以上歳をとらない。もしかすると、茶屋の二人は親子ではなく夫婦なんじゃないかと、俺はにらんでいる」
「……… 凄い人がいるものね。そうなんだ…… 歳をとらないのか…… ぜひ弟子入りしたいわね。実は何歳なのかしら」
「さぁね、俺は恐くて聞けないよ」
エンを元気づけようとして話しかけるも、思わぬ情報に、チセがの方が驚かされて終わってしまった。
こうして強制的に始まった二人の旅は当初、追っ手を撒くために闇雲に里を離れたのだが、翌日からは大和国を目指すこととなった。
「あたしの里は、大和国の南の方に在るの」
チセがそう言って、自分の所属する忍の里について語ったからだ。大和国は京よりさらに南の地である。抜け忍となった今のエンには特に行く先のアテも無いので、さしあたってはこのチセを大和へ送り届けることにしたのだ。
そもそも大和国のチセが美濃にいた理由は、木曽方面へ派遣されていたお仕事を終えて帰還する途中だったのだという。女子一人で峠道を歩くのも無用心なのだが、そんなチセに絡んできたのがあの男たちだった。彼らは「徳川の者」を名乗り、不審な者をあらためるなどと言い掛かりを付けてチセに迫ってきたのだという。
この話が本当なら、大和や徳川といった美濃の外の勢力が、普通に美濃へと入って活動していることになる。これまで美濃で活動してきたエンがこのことに気付いていなかったのだから、世の中のんびり生きてると見えていないものが多いようだ。
四日をかけて美濃を抜け、近江に出た。そこからはもう無理に森は通らず、道を歩くことにした。二人は京へは入らず、伊勢方面へと南下する。これは、甲賀と伊賀の間を縫うように大和へと入る進路をとったからだ。もちろん畿内の地理に明るいチセが考えたものである。
美濃を進んでいた当初はまだお互いに警戒心があり、相手を観察するような手探りな会話が多かったが、日を経るにつれて少しずつエンにはチセの人柄が見えてきた。
このチセという娘の言葉は柔らかくて人当たりが良く、語る話に嫌みが無かった。さらには行動の一つ一つにも意思と工夫が感じられる、ひと言でいうと「良くできた女子」だった。そのため、旅の中でエンの足を引っ張るということは一切無く、対等に話せて対等に役割を分担できた。そして何より、これまでのエンの周りの女性たちのような、癖の強さが感じられないことに安心感があった。
「さしあたり、どこで暮らすのかが決まるまでは、あたしの家で寝泊まりすればいいよ」
あるときチセはそんなことを言った。身寄りの無くなったエンには願ってもない話ではあるが、それは女性の家に同居するということでもある。エンがしどろもどろになったのは言うまでもない。
「え……、いや、あの…… いいの?」
「やぁねぇ、そんなのいいに決まってるじゃない。むしろそれくらいさせて貰わないと、あたしの方が申し訳なくて」
こうして、エンの当面の居場所が決まった。このまま全国行脚する羽目になることを恐れていたエンには渡りに船だった。
二人は伊勢国に入った。ここから先はエンにとって未知の国となる。この辺りは尾張湾の内海が近いため東部は山よりも湿地帯が多い土地なのだが、もちろんエンはそんな事は知らない。道は当然、湿地帯を避けるように敷かれており、ただただ平坦で歩きやすい地だと感じていた。しかし、そんな平坦で快適な旅も、やがて終わりを告げる。チセが西に進路を向けると一転、景色は山や森へと変わっていった。
その日の空はどんよりと曇に覆われていた。恐らくまとまった雨が来ると察したエンとチセは大和への足を一旦止め、周辺で風雨をしのげる場所を探した。すると、幸いにも山道から少し森へ入った先に寂れた無人の小屋を見つけることができた。中へ入って調べてみたが、壁や屋根に穴もない。二人はここで夜を明かすことにした。
そこは、かつては誰かの庵であったのだろう、屋内には囲炉裏が埃をかぶっていた。取り急ぎ、エンが付近から食料を採取し、その間にチセが小屋の積年の埃を払った。小屋には鍋も放置されていたため、そこにエンの採ってきた山菜を放り込み、久しぶりの温かい夕食にありつくことができた。
夕刻から降りだした風雨の勢いが、次第に強まってきた。
エンは小屋の壁にもたれて座り、クナイの汚れを拭いている。そして、ふとチセの方を見ると、彼女は何か思案をしているのか、遠い目をして座っていた。
チセという女は普段の動きや仕草の中に、度々色気のようなものを見せることがあった。本人に意識的に行っている素振りは無いのだが、彼女の食べる仕草や遠くを見つめる表情に男のエンはこれまで何度かドキリとさせられた。これを妖艶とでも表現すればよいのだろうか、これも今までエンの周囲にいた女たちとは異なるところで、チセは色香のようなものを纏っている。しかし一方で、彼女は時折もの哀しげな表情をすることもあるのだ。エンにとってそんな不思議な女性であるチセ。年頃の青年エンが次第に彼女を気にするようになってゆくのも仕方のない気持ちの流れだったのかもしれない。少なくとも今のエンにはもう、彼女を助けたことへの後悔は無くなっていた。
クナイの汚れを拭いていたエンの手は止まり、いつの間にかチセの方をぼんやりと見ていた。やがてチセもエンの視線に気が付く。
「なぁに? さっきから」
「い……いや、何でもない……」
誤魔化そうとしたエンの方へ、チセはほんの少し悪そうな笑みを見せながら近づいてくると、エンの隣に腰を下ろした。近い。チセの腕がエンの腕に触れている。
「エンはあたしに気があるの?」
エンは男女の駆け引きというものとは無縁に生きてきた。このように問われても何と答えることが気の利いた回答なのかも分からない。
「な、なにを言って▲□✳△★●」
もはや後半は言葉にもなっていない。そんな当惑がありありとしているエンの手を握って、チセはたたみかける。
「ねぇ、あたしを抱きたい?」
青年エンには強過ぎる誘惑だ。思わず握られた手を握り返してしまう。だが、エンにはこの誘惑に乗ることへの後ろめたさも少なからずある。彼女を手込めにしようとした者から救っておいて、すぐに自分が手を出したのでは、あのとき倒した徳川の忍とやっていることに違いが無いのではないかと。
エンは持てる限りの理性を総動員してそう思いとどまり、
「そ、そういうことは…… 時間をかけて、お互いをよく知ってから……」
などと、訳の分からないことを口走るのが精一杯だった。もう少し格好の付く台詞もあっただろうにと、言ったそばから後悔したエンだったが、チセはそんなエンに誠意を感じたらしい。
「ふふっ エンはお人好しだね。でも、そうやって理性を働かせることができる人は信頼も出来るわ」
「そりゃどうも……」
理性的なのではなく気が小さいだけなのだが、買い被ってもらえたようなので、素直に頷いておくエンがいた。
話は終わった。それでもチセはエンの傍を離れない。そのまま黙り込んでしまったのだ。どうしたのだろうかと、チセに触れている右の腕が離れないように首と目だけを動かして彼女の様子を覗おうとした。その時
「ドゴッ」
突然、小屋に大きな音が響いた。暴風で飛んできた何かが小屋の壁にぶつかったのだろう。その音にエンはビクリと驚いたが、チセは気が付かない様子で微動だにしない。その表情は何か思い悩んでいるようにも見える。
『はぁ…… 勿体ないことをしたかな……』
深刻そうなチセに対してエンの悩みなどこんなものである。そんな煩悩との心理戦を展開中のエンに、チセが語りかけた。
「ねぇ、エン」
「え? あ…… 何?」
チセの声によって煩悩との間を裂かれ、現実へと帰還したエンが慌てて返事をした。
「もしも…… さっきあなたが抱きたいと答えていたとしても……、あたしはあなたには抱かれなかったわ」
突然そんなことを言い出すチセ。
『何だ、からかわれていたのか』
と、エンは少々ムッとしてチセを見たが、彼女からはふざけて楽しんでいるような雰囲気は微塵も感じられない。その硬い表情から事の深刻さを察知したエンは優しく問う。
「何か事情があるのかい?」
「一緒に里で暮らせば遅かれ早かれ知ることになるから、予め話しておこうと思うんだけど……」
そう言ってエンの目を見たチセだったが、なかなか次の言葉が出てこない。思いがけずチセと見つめ合う形で、エンは固まっている。
「実は…… あたしには毒があるの」
「は?」
「あたしのこの身体の中には毒があってね、抱いた者を殺してしまうの」
チセに二度説明させても、エンには意味が解らない。彼女の言う毒とは考え方の傾向のことで、他人を皮肉る癖などのことを指しているのだろうか。理解に至らぬエンの反応は曖昧なものになる。
「はは、何を……」
「それがあたしの…… くノ一の技」
── !?
突飛な話も忍の技だと言われると信憑性が滲み出る。得体の知れぬ技こそ、忍術として世の忍たちが体得を目指すものだから。
「いつしかあたしは周囲に恐れられ、毒蛾と陰で呼ばれるようになった。そりゃ気持ち悪いよね、こんなの…… エンも怖いでしょ?」
「そりゃあ毒だからね。毒の怖さについては、俺もけっこう知ってるんだぜ」
「え?」
「いやそれがさ、俺の仲間にはやたらと毒を使う女子が二人もいてさ、あいつらの毒の効果を目の当たりにしてるんだから。あれは本当に怖いよ」
「いえ、あたしが言いたいのは……」
「知ってるか? 死なない毒ってのもあるんだぜ。代わりに全身の力が抜けて動けなくなるんだ。風下に立つと気付かぬままに毒を吸わされて、力が抜けるんだからタチが悪い。俺はそれをもう二度も吸ったんだ」
「あなた、危ないことをしてるわね……」
気味が悪いと近づかぬ者や怖がる者、言葉を交わすことすら避ける者など、これまでチセの体の秘密を知った者の反応は幾つかの種類に分かれたが、総じてどの者も異質なものを見るような目でチセを見るようになった。それはチセには辛いことなのだが、それでもいずれは知られることだから、チセは覚悟を決めて体内に持つ毒のことをエンに話したのだ。
それだけに、エンのこの反応がチセには意外だった。
『この人はどうも感覚がズレているのではないか?』
彼女は毒を持つ人間の存在の怖さを伝えたつもりなのに、先ほどからエンは毒そのものの怖さを語って盛り上がっている。
「でもさ、」
いささか拍子抜けしたようにため息をついたチセは眠るために横になろうとしたが、エンがそう言葉を続けようとしたので、そのまま耳を傾けた。
「今までキミは俺が想像もできないくらいの長い時間、自分の体のことで悲しんで、悩み抜いてきたんだろ? それでもキミはその心を壊さず、人に笑顔を向けて優しくできる。俺がそんなキミに気味が悪いなんて感じるわけが無い、むしろ好感しか持ってないよ」
「あたしの体のことを知ってそんな感想を言った人は初めてよ。あなたは変わった人ね」
「そうかな? 俺は自分ほどの真人間はいないと思ってるのだけど」
「ううん、あなたは変わってるわ。そもそも真人間は忍なんてやらないもの」
「ははっ、たしかにそうだな」
この夜はそんな会話を最後に二人はそれぞれ横になり、眠りについた。チセはエンに背中を向ける格好で横になっている。閉じられた彼女の瞼には涙が滲んでいた。




