其の一 酔った勢いで人を助ける
時は戦国、京とその周辺で起こった戦乱はやがて全国各地へと波及してゆき、日々この日ノ本のどこかでは戦が行われている。戦・乱取・徴発、それは民にとってもいつ巻き込まれるやも知れぬ不安の中で生きる日々。人々の気の休まることのない油断の許されぬ時代であった。
ここ美濃国のとある峠の茶屋には、昼間にふらふらとやって来て、表の通りに近い長椅子に腰を下ろして虚ろな目をしている油断のかたまりのような男が居た。
「アンタねぇ…… よくもそんなに堂々と営業妨害をしてくれるわね」
「なにを人聞きの悪い…… もはや俺なんて、ここの看板息子みたいなものじゃないか」
「その看板が通りを威圧するから、お客が来ないんでしょうが」
眠ってはなるまいと本人は頑張っているのだろうが、据わった目であれやこれやと表情を変える妙な男が店先に居座っているのだ。それは通りかかる旅人も入店をためらう。
「そんなに眠いのなら自分の部屋で寝ればいいのに。どうせアンタはまた、タカシあたりと朝まで飲んでたんでしょ」
図星である。決して種類の多くはないエンの行動の中から何をやっていたかを当てるなど、付き合いの長いサヨには容易いことなのだ。
「いま寝ると、昼夜が逆転しちゃうんだよ。だから、少なくとも夕方までは寝ないって決めたのさ」
「ならせめて、もうちょっとシャキッとしな。ウチの店が潰れたらアンタのせいだからね」
そう言いながらもサヨはエンにお茶を出した。
深酒の後で喉の渇いているエンは、その茶を一気に口へと流し込む。
「うえっ……」
濃くて渋い茶に思わず吐き出しそうになったエンは、恨めしそうにサヨを見るのだった。
そんな虚ろなエンの元に騒動の種はやって来た。最初に聞こえたのは何かを嫌がるような女性の声、続いて男の怒鳴り声。誰のせいだか閑散としている茶屋とその周囲にまで、それらの声はよく届いた。
何事かと声の方を見ると、一人の女性がこちらへ向かって走っていた。さらにその後ろには三人の男の姿が。どう見てもあれは男どもが女を追っているのだろう。乱れた髪に髭、先頭の男の手には短刀まで握られている。見た目だけで決め付けるなら、それは野党が女性を襲っているようにしか見えない。そして、そんな騒ぎから目と鼻の先に在る茶屋の店先には、深酒による思考停止により見た目だけで決め付けた者がいた。
追われる女性がこの茶屋に到達するには、まだ少し距離がある。エンはゆらりと立ち上がると、茶屋の前の道に出てゆく。そして右手にクナイを握ると、狙いを付けて振りかぶった。それは、どう見ても投擲動作である。
そんなエンの動きに気が付いたサヨが咄嗟に店内から止めようと発した「だめっ!」という言葉がエンの耳に入ったのかは分からない。エンはそのまま迷いもなくクナイを投げた。
エンの放ったクナイは真っ直ぐ糸を引くように飛んでいき、向かってくる女性の頬をかすめた。突然のことに驚く女性を通過したクナイは、そのまま刃物を持って女性を追っていた男の右目に命中した。
男は声すら上げることなく、その場にバタリと倒れた。
「なにっ!? 仲間がいたのか」
残る二人の追っ手は慌てて足を止め、倒れた仲間を抱え起こそうとする。
ここまでくると、エンもさすがに目が覚めた。いつもの自分ならば、このような行動をとっただろうか? ふとそんなことを思ったが、答えを考える間もなく女性がエンの位置まで逃れてきた。
「ありがとうございます。でも、あなたに迷惑が……」
「は……ははっ…… やってしまったものは仕方がない。で、あいつらは何だい?」
「道で急に絡んできて…… トクガワの忍だとか言って不埒なことをしようと迫ってきたので抵抗したら、刃物で襲ってきたのです……」
『トクガワ!?』
二人のやりとりを聞いていて、誰よりも驚いたのがサヨだ。徳川といえば大名ではないか、その配下を平時に手にかけたとなれば、ヘタをすると戦の引き金になりかねない。ましてや、それを濃武の里の忍がやったと知られれば、里が潰される最悪の事態まで考えられる。
「ウチの店の前で物騒な揉め事はやめてくんな!」
サヨは追っ手の男どもにも聞こえるような大声を上げて、無関係を装った。そうする一方で、声には出さずに口の動きだけでエンに語りかけた。
『エン、これから言うことを黙って聞くんだよ』
『サヨちゃん?』
エンには読唇術という特技がある。サヨはその事を知る数少ない人の一人なのだ。
『エン、徳川の配下を手にかけたとあっては、もう里に入れるわけにいかない。アンタはこのままその子を連れて里を離れな。労務局にはアタシから事情を伝えとくから』
あまりにも急激な状況の変化に、どう動くことが正解であるかの判断がつかない。ここはサヨの言葉に従って逃げるしかないのか。
「迷惑だって言ってんだろ! 失せな!」
サヨがエンに怒鳴った。「ごめん……」エンは小声でそう言い残し、女子の手を引いて駆け出した。
女子を襲っていた残る二人の男はエンたちを追ってこなかった。倒れた仲間を置いては来れなかったのかもしれないし、サヨが上手く足止めしてくれたのかもしれない。それでも警戒のため、エンと女子は道を外れて森を縫って逃れる進路を選んだ。
「これで俺は抜け忍か……」
なんともあっけないものだった。 濃武の里からも追っ手が放たれるような命懸けの逃避行ではないのだが、突然に居場所を失った寂しさがエンの後ろ髪を引くのだった。




