其の拾 すみっこ暮らし
眠っていると、無意識に寝返りを打ってしまうものだ。その度に肩に強い痛みが走り、目を覚ましてしまう。そんな日が既に三日続いていた。
一日目は痛みだけではなく、傷が熱を持って発熱があった。二日目の夜に一旦熱が下がったのだが、同じ寮のタカシが見舞いと称してやって来たのが良くなかった。タカシは「酔いで痛みを紛らわせちまえ」などと酒を持ち込んでエンに飲ませた結果、再び熱にうなされることになったのだ。
今日は里に戻って四日目、熱は下がっていた。労務局に呼ばれているのは明日である。また労務局からは、それまでは休息して身体を癒すようにとも言われている。
『どうせ明日は労務局へ赴いたところで叱られるだけなんだ。危険な山賊の砦へ向かおうとする新人を何故止めなかったんだってね』
さしあたってエンの未来にはそんな憂鬱な予定しか入っていない。しかも、この怪我ではしばらくお仕事も出来ないだろうと考えると、どうしても気持ちが沈んでしまう。
『よし、家に居たところで痛いものは痛いんだ。それなら気晴らしに道場にでも顔を出してみるか』
しばらく風呂に入れていないが、せめて衣服くらいは着替えて行かないと、道場の女たちに何を言われるか分からない。エンは肩の痛みに堪えつつ汚れた服を脱ぎ、替えの衣服に袖を通した。
普段より身体が重いのは怪我のせいかそれとも寝不足のせいなのか、エンはいつもより時間をかけて遊好館道場まで歩いた。
あの日、タチバナに救われて里に帰る途中、ユマには今回の事件のこと、そしてエンがその際に負傷したことは、父親であり館長であるのユデ以外には話さないようにと言ってある。流石に師に隠す訳にはいかないが、年端もいかぬ道場の娘を連れて賊の住処へと乗り込み、大怪我を負って来たなどと門下生に知られた日には、根掘り葉掘り聞かれて忍のお仕事の機密性なんて吹っ飛んでしまう。いや、本当は門下生たちに責められるのが怖いだけなのだが。
足を洗って道場へ入り、まずは師のユデに挨拶をと奥の館長席へと歩くエンをユナが見つけた。
ユナはエンに駆け寄ると
「妹がね、養成所を終えてウチに帰ってきたの。エンくんの後輩だし、お仕事でも一緒になるかもしれないから紹介するね」
ユナはそう言うと、自分を一回り小さくしたような女の子をエンの前に連れて来た。ユマだ。
「この子が妹のユ……」ユナが紹介しようとするのを無視するように、ユマが話し出す。
「エンくんは本当にウチの生徒さんなのですね。お仕事でも威厳はありませんでしたが、道場ではさらに貫禄がありませんね」
無邪気に心無いことを言い出すユマを相手にムキにならぬよう、エンは余裕を滲ませて答える。
「ユマよ、実力や存在感を隠し、物静かに環境に溶け込む。これこそ忍の在るべき姿なのだよ」
その言葉にユマはハッとする。
「そうだったのですね。忍と広言しているのがイタいですが、確かにここまで存在が消えているのは何かしらの技の効果ということですか。そういえば、忍には気配を絶って自然に溶け込み、上忍になると姿をさらしていても気付かれないような術があると聞いたことがあります。エンくんのこの置物感は、もはやその域に達しようとしているのでしょうか」
エンが適当に言った軽口を真に受けて、ユマが純粋にエンを買い被るにつれて、エンの表情が暗く沈んでいく。
見かねたユナが、ユマを止める。
「やめな、ユマ! エンくんが泣きそうになってるでしょ。 ……それよりもあなた、後輩のくせになんで「エンくん」なんて言ってるのよ。しかも、なんでさっきからそんなに親しげなの?」
「だって、エンくんがそれでいいって言ったんだもん」
「えぇ─!? 何よそれ」
自分の知らぬ間に、妹がエンと親しくなっていたことがおもろくないユナが、頬を膨らませた。
その後、師のユデと面会したエン。ユデはエンに話があるからと、他の者を離れさせた。
「ユマから話は聞いたよ。ユナに続いて此度はユマまでも助けてくれたそうだな」
「偶然ユマと出会って、偶然に山賊の噂を聞いて、何とか間に合って、どれも、ユマの運が良かったんですよ」
「いや、その全てでお主が動いてくれておる。今ワシの娘が生きているのはお主のおかげだ、礼を言う」
そう言ってユデは頭を下げた。
「頭を上げて下さい、先生。私が動いたくらいで仲間が助かったのなら、そんなのはお安いご用です。それに…… こうやって先生に直接恩を売っておけば、この先当分は破門されなくて済みそうですしね」
ユデはガハハと笑ったが、またすぐに真剣な表情に戻り、エンに問う。
「お主、ユマを助けた際に傷を負ったというではないか。傷は深いのではないのか?」
「こうしてここまで歩いて来れていますので、心配はご無用です…… いや、……やっぱり少し心配して下さい。肩がこの調子なので、しばらくは剣を握れません。ゆえに稽古が疎かになりますが、どうかお見捨てなきよう」
エンは衣服の胸をはだけ、まだ痛々しい肩の包帯をユデに見せた。ユデはすぐに道場にいる皆に向け、エンが私用にて怪我をしたため、しばらく稽古はできないと告げた。
最後にエンはマチコのもとに向かった。マチコは今日も道場の隅に陣取っている。いつもと違うのは、そこにユマも座っていることだった。
「おいユマ、そこは俺の特等席なんだよ」
「勝手にウチの道場の隅を私物化しないでください」
エンの暴言にユマが反論した。ユマが養成所を出て実家に戻ったことにより、にわかに道場の隅の人口密度が増した。
「珍しいね、キミが大きな怪我をするなんて」
「可哀相でしょ? だから優しくしてください」
「分かったよ、じゃあ、ウチが特性の薬を作ってあげよう」
「お願いだからヤメて。それ、ぜったい毒性の薬だから……」
挑発されたマチコがエンの肩を狙って一撃入れようとしたとき
「エンくんが怪我をしたのは私のせいなんです」
ユマが言ってしまった。
マチコはユマとエンをじっと見る。
「そこまで言ったんだから、詳しく話してくれる?」
ユマは初めてのお仕事で起こった出来事をマチコに話した。マチコであれば他者に言いふらすこともないだろうと、エンも黙って聞いていた。
話を聞き終えたマチコの表情は、先ほどまでより優しくなっていた。
「よく無事にユマを連れて帰ってくれたね、そんな怪我までして。見直したわ」
「はは…… 今までどれほど見損なわれていたのか、知るのが怖いなぁ……」
そしてマチコは、ユマの話の中で語られたエンが刀を手に奮闘したというくだりで、あることに気付いた。
「キミはとうとう剣で敵を倒せたわけね」
「何のことですか?」
永らく道場を留守にしていたユマには、何の話かが分からない。
「エンはね、剣を使った実戦で勝つことを目標にしてて、ずっとそれが叶っていなかったのよ」
「へぇ そうだったんですね、でも今回のエンさんは、こうやって結んだ草に躓いた人や、私が目を潰した人をたくさん刀で刺してましたよ」
「おいこら、余計なことを言うんじゃない」
エンとしては倒した数よりも、剣で華々しく戦って勝ったことを強調したかったのだが、ユマは無防備な状況の敵を数多く、それも斬るのではなく刺していたのだと無邪気に暴露したのだ。
「これは数に入れるわけにはいかないね」
「いやいや、剣で倒したという事実が全てだろ? こういうのは」
「最初の一人くらい剣の腕で勝ってみせなさい。じゃないと、ウチは認めないわよ」
マチコは過程にこだわるタイプだった。
「それからね、」マチコは続ける。
「どう? ウチが言ったとおり、ユマは暗器使いの天才だったでしょ?」
そう言って、マチコは微笑んだ。
暗器使いの天才ユマ。
将来、彼女が濃武の里における初の暗殺専門組織【夢魔】を創設。その頭領として、世の権力者や富豪そして悪人たちの心胆を寒からしめることは、今はまだ誰も知らない。
第七章 ── 完 ──




