其の九 草原の死闘
夜明けを待って山を越えて帰るという案もあったが、夜のうちに草原を抜けて来た道を帰る方針を採ることにした。理由は実に明確で、「早く里へ戻りたい」ただそれだけの理由である。ただし、それには砦が見下ろす草原から福徳村の周辺という山賊の膝元を進んでゆく必要がある。ここを夜間のうちに通過してしまわねばならない。
今夜も空には月がある。ぼんやりと草原が月明かりに照らされている。山を下りたエンとユマが胸の高さの草を掻き分け、身を低くして草原へと入っていった。
昼間とは異なり周囲が暗いため、歩けども目に映る景色に変化がほとんど無い。そんななかなか進めない感覚がエンたちの疲労感を倍加させる。
そろそろ草原の対面の林が見えてもよいはず。ユマはかがめていた身を起こして前方を確認する。
── 灯り!?
ユマは、目的の林の方に松明の炎が現れていることに気が付いた。そんなユマの袖を引いて、エンが静止させる。
「敵でしょうか」
「ああ、今のところ味方が来る予定は無いからな」
草原の真ん中で進むに進めなくなったエンは、他のルートはないかと周囲を見回す。
灯りがあった。
先ほどまでエンたちが潜入していた山賊の砦の方角、更には東へと伸びる草原の先にも松明の灯りが揺らいでいるのだ。
「囲まれていますね……」
「砦に戻ってきた賊の一味が仲間の死体を発見したのか、人が戻らないのを怪しんだ福徳村が村人を出したのか」
「どちらも…… ではないですか?」
エンは右手と左手それぞれに数本づつの草を掴み、それらを結んだ。じつに原始的な、人の足を引っ掛けるための罠である。せっせと罠を作っていくエンを見たユマが──
「私も手伝います」
「いや、ユマは毒でも痺れるやつでも何でもいいから、風下に向けて流してくれ」
「分かりましたが、こんな何も無い場所では効果が薄いですよ」
「それでも、やらないよりはマシだ」
今は林の方角が風下にあたる。
現状、忙しく動いているのが林に現れた松明、そして砦の方に見える松明の炎である。一方で東の草原の先に並ぶ炎には動きが見えない。あれら東は、エンたちの退路を断つために守りを固めて待ち構えているのかもしれない。
エンは東からは敵は来ないと山を張り、それ以外の全方位から迫る敵を想定して草の罠を結んでいく。
「地味な作業ですね」
エンが地を這うようにして延々と草に細工しているのを見て、思わず本音を述べるユマ。
「こういう昔ながらの地味で単純な罠ほどよく効くからこそ、こうしていつまでも伝わっているものなのさ…… たぶんね」
エンは大量の罠を結び終えると、半径五歩ほどの範囲に立っている草を踏んで折り曲げていった。すると、草むらの中に直径にして十歩ほどの円形の空間ができあがった。
「ここが俺たちの砦だ」
「ずいぶんと小さな砦ですね」
「山賊の庭に勝手に作ったんだ、贅沢は言えないさ」
そんな砦こと小さな円陣からユマが遠くを覗いてみる。すると、先ほどまでうろうろと動いていた林と砦の松明の灯りが、いつの間にか止まって動かなくなっていることにユマは気付いた。
「こっちに来なかったですね、あの人たち。私たちを探しているのではなかったのでしょうか」
あれらの灯りが草原へと入ってきて、しらみつぶしに自分たち探しに来るのだろうとエンも予想していたが、気にし過ぎだったのだろうか。
「だと良いのだけど…… じゃあ、あの松明の火は何のためなんだ?」
エンもユマも、いまいち敵の動向を読み切れない。それでも用心に越したことはない。もう少し草を結んで罠を増やそうと、エンが円陣の外の草を掴みかけたその時だった──
「うおっ!?」そんな何者かの驚きの声が上がると、体勢を崩した男が草を割ってエンの方へ突っ込んできた。しゃがんで草を掴もうとしていたエンは不意を突かれた。
武器を手にしていないエンは、転びそうになりながら前のめりに急接近する男の顎を咄嗟に下から突き上げた。そうして、男の顎が上がって露わになった喉をユマが小さな刃物で斬った。喉を切られたために声も出せず、男が倒れて息絶える。
「びっくりした……」
「山賊、来ましたねぇ…… あの灯りの所に居るのかと思っていたのに、違いましたね」
「ああ、どうやらもう俺たちを捜索する山賊どもは、既にこの草原に散らばっているようだな。奴らが火を持って探しに来ないのは、火を持ちながら戦闘になるのを嫌っているのか、草原が燃えるのを恐れているのか」
そんな見解を述べながら、エンはその場に倒れている山賊の遺体が握っている刀を取り上げていた。
「あっ、エンくんはまた死体から物を剥いでる」
「生き残るために遺留品を再利用してるだけさ。そもそも俺は今回、引っ越しの手伝いのお仕事に行っただけだから、刀も持ってないんだぜ」
そう言って剥いだ刀を握って待ち構える。
ガサッ──
エンの左前方で草を掻き分ける音がし、その直後にやはりまた、罠に足を取られた男が飛び込んできた。
エンはそんな男の首から胸を狙って、力いっぱい刀を斬り上げた。「ギャッ……」そんな声とも悲鳴ともつかぬ音を最後に、エンの渾身のアッパースイングで致命傷を負った山賊が足元に転がる。
── やった
エンの心が僅かに高揚する。
だが余韻に浸る間もなく、付近から声がした。
「おい、何の音だ! 平蔵! おい、どうした!」
声の元はユマの立つ方の草むら、エンはそちらを向いて刀を構える。
『この足元に倒れている男が平蔵なのだろう。そして平蔵は仲間と一緒にこの辺りを捜索していたということだ。その仲間が間もなくここへ来る』
エンはユマの目を見た。ユマも同じ事を考えていたのだろう、エンに向かって無言で頷くと、エンの横へと移動した。
そんな、つい今までユマが居た場所に人が踏み込んできた。やはりその者もまた罠に足を取られて前のめりにである。
── 来た
そう思ってエンが剣を振りかぶったその時、男がもう一人踏み入ってきた。
「なっ!? 二人いた!」
しかも後に近付いてきた者は罠に足を取られていない。意表を突かれて一瞬固まってしまったエンより早く動いたのがユマだった。
ユマは先に踏み入った男の首に小刀を突き刺すと、エンに迫るもう一人の男へとふくみ針を放った。
ふくみ針は正確に目を捉え、男が思わず顔を押さえたところをエンが刀で貫いた。
「は……はは…… 焦った……
ユマ、助かったよ」
へたり込むようにその場に腰を下ろして、エンがユマに礼を言う。
「いえ、実戦で思う存分に暗器を使うときがついに来たのです。今まで想定だけは色々と頭の中でやって来ましたからね、それを実戦で試せるのは嬉しい限りです」
このような悪い状況で、何とも頼もしいことを言う新人である。しかも、足元の草を結んだだけの罠の効果が絶大なのだ。
それ以降、エンはユマによる多彩な暗器の技を目にすることになる。
敵の首にユマが横から糸を巻き付けては素早く引くと、バランスを崩した敵の胸や脇腹が張り出たところをエンが剣で突く。また、ユマに背を向けてしまった敵は、鎧通しという細い鉄の釘で首筋を刺されていった。
「ハァハァ…… これで十人倒してやったぞ」
「どうするのですか、このままこれを続けるのですか?」
「まさか。流石にこれだけの人数が姿を消せば、敵にも何か変化が出るだろう。例えば、分散している賊を集めて、まとまって動くとかね。でもそうなれば、俺たちも敵の間隙を縫って離脱し易い。まぁ、割が合わないと敵が感じて退いてくれるのが、俺としては一番都合が良いのだけど」
そんなエンの希望も虚しく、悪い方向へと状況に変化が起こった。声が聞こえたのだ。それは分散する仲間に号令をかけるべく放たれた声である。その声はたしかに「囲め!」と聞こえた。さらには「武器を押し出しつつ、一歩一歩慎重に詰めろ!」という叫び声がエンたちの耳にも届く。
「まいったな、どうも決断が遅すぎたらしい。十人倒したなんて喜んでる場合じゃなかったようだ…… すまん、ユマ」
「仕方がないですよ。山賊に知性なんて感じないですからね。こんなに素早くこちらの動きに対応されるなんて思いませんよ」
相変わらず辛辣なユマの手を引き、円陣の中心に身を低く立って武器を構える。すると、円陣の周囲の草の上に人影、そして草の間から剣先が見えてきた。
一つ、二つ、三つ、四つ、どうやら四人が同時に仕掛けてくるらしい。
「ユマ、なるべく敵の目を暗器で狙ってくれ」
「分かりました」
ジリジリと近付いてくる山賊たちだったが、迂闊にもそのうち一人が足元の罠に躓いた。体勢を崩して一人突出してくるところを、エンは喉元めがけてひと突きにした。
残る三人はエンたちの円陣へと顔を晒した順に、ユマからのふくみ針の洗礼を受けることとなった。夜間の近距離からの暗器である、かわせるものではない。
三人全員の顔に針が当たったのを見て、エンが言った。
「よし、目が見えなきゃこっちのもんだ、かかれ!」
斬り合いの中で視界を失うほど致命的なことはない。三人の男たちはエンに斬られまいと刀を振り回す。そんな刀がやがて味方に当たる。そんな同士討ちを前にして、エンはユマの耳に囁いた。
「ユマ、ここが狙われているのなら、無理に留まる必要はない。今のうちに東へ移動しよう」
そういってエンが円陣を放棄して東に抜け出そうとしたとき、突然目の前に大きな矢尻のような形の物体が現れた。
── 槍!?
咄嗟に飛び退さるエンをどこまでも追うように伸びてくる槍の穂先がエンの右肩を捉えた。
「ぐっ……」
突かれた衝撃で思わず刀を落としたエンだったが、すぐに槍を持つ敵の手元へ向けて左手でクナイを放った。敵の一度腕を引いてから再び繰り出してくる槍の第二の突き、その穂先とすれ違うようにクナイは飛んでゆき、敵が槍を持つ手の片方に当たった。
堪らず槍を取り落とした男が慌てて退いてくれたものの、それと入れ代わるようにまた別の山賊が姿を見せる。
「エンくん!? 怪我をして……」
「大丈夫だ、でもすぐにここから移動はできなくなった。ユマは後ろの三人の相手を頼む」
暗器で目をやられ、めくらめっぽうに刀を振り回している三人の賊の始末をユマに任せると、自らは負傷した右肩を押さえながらも立ち続け、目の前に現れた敵を睨み据える。それはエンの精一杯の虚勢であったが、そんな山賊の隣に更にもう一人、新たに顔の大半を毛に覆われた賊が現れると、エンは心が折れそうなるのを自覚する。
今は気が張っているからか、刺された肩は痺れてはいるも痛みは少ない。ただ右腕に温かみを感じることから、かなり出血しているのかもしれない。
状況が悪すぎる。それでも、考えることを止めてはいけない。そう自分に言い聞かせつつ、エンは最善の立ち回りは何かを思索する。
まずは一人に絞って相手をするしかない。エンは先ほどから睨みつけている男を鋭く見据えたまま、左手でクナイを投げた。夜間の飛び道具は避けることが困難である。エンの投げたクナイは睨みつけていた相手の男ではなく、その隣に立つ毛深い男の額を捉えた。
額にクナイを受けた山賊が倒れるのを見て、隣の男が刀を振り上げる。エンも急いで投げたクナイを引き戻すが対応が間に合わない。
── これはマズいな
エンが絶望を受け入れかけたその時だ、エンを仕留めるために踏み出した山賊の胸から剣の先が飛び出した。エンよりも刺された男の方が驚いた表情をしている。
崩れ落ちていった山賊の後ろから見知った顔が現れた。
「タチバナさん……」
「エンさん、ご無事で何より」
濃武の里の労務局の職員であるタチバナだった。
「いたぞ! 無事だ!」
タチバナがそう叫んだということは、里の者を連れて来ているということだ。
そんなタチバナに横から賊が斬り掛かってきた。タチバナはそれを剣で受けると、返す刀で相手を斬り捨てた。もと侍らしい力強い太刀さばきである。
すぐに離れた場所から声が帰ってくる。
「先遣隊はここで賊を釘付けにしろ! 本隊もすでにこちらへ向かっている!」
タチバナは領主の軍勢を動かしたのだろうか。いや、昨日今日で領民を召集して夜間に出動ができる領主などいないはずだ。エンにはこれが嘘であると分かったが、事情を知らない山賊は領主が計画的に兵を出してきたと考えた。山賊たちは領兵の襲来を警戒して砦の方へ移動してゆく。
「さあ、今のうちに我らも退きますよ」
肩を貸そうとするタチバナを制止して、エンは自分の背後で疲れて腰を下ろしているユマの方へ行って手を差し伸べた。
「ユマ、立てるか?」
「何を言ってるのですか。怪我をしているのはエンくんの方ですよ」
ユマはゆっくりと立ち上がって笑ってみせた。
エンに肩を貸しながら、タチバナは草原を東へと進む。東の松明の火は、今も闇を明るく照らしている。
「もしかして、あの炎は……」
「はい。我々が拠点とした場所です。草原までやってきたところ、山賊のものと思われる灯りが見えたもので、対峙するためにこちらも火を灯したのです。どこかでエンさんが戦っているのならば、牽制にもなるかと思いまして」
エンのための牽制にと起こされた東の炎を見て山賊に退路を断たれたと思い、闘いを決意したのがエンだった。
『さっさと逃げ込めば助かったところを戦って怪我をしたのだから世話ないな。なかなか人の思惑というのは読みにくいものだ……』
エンには苦笑いしかなかった。
それはそうと、エンはタチバナに聞くことがある。
「タイからの知らせを受けて福徳村へ向かったことまでは想像がつきますが、よくここが分かりましたね」
「タイさんから事情を聞き、すぐに福徳村を目指したのですが、道中でチュウという忍に出会いまして、エンさんたちが山賊の砦へと向かったことを知りました」
チュウを帰らせたのは正解だった。チュウがタチバナと出会ってくれたおかげで、結果としてエンとユマは助かったのだから。
草原の東、松明に照らされる濃武の里方の拠点にはタイが居た。タイは肩の傷への応急処置を受けるエンを見つけ、傍へと駆け寄った。
「お前、傷を負ったのか?」
「タイ…… 済まなかった、ウチヤの死に間に合わなかった」
正直なところ、タイへのこの報告を何と説明するかが、エンが最も頭を悩ませていたことだった。しかし、傷の痛みもあってか自分でも意外なほどに、簡単に話せてしまった。タイの方も幼なじみのウチヤが死んだことは、既にチュウから聞き及んで知っていた。
「ウチヤの死はお前のせいでは無い。お前以上の早さでウチヤのもとへ駆けつけられる者などいなかったのだから。だから、お前だけでも生きていてくれて、ほんと良かったよ」
タイのこの言葉が聞けたことで、エンの今回のお仕事は終わった。元々、エンのお仕事ですらないのだが、少なくともエン本人はそう思い、全身の力が抜けるような『やりきった感』に満たされたのだった。




