其の三 カウンター
未来の大物くノ一候補のユマも、今はまだ養成所を終えたばかりの未熟な少女である。それが初仕事にして仲間を殺され、敵中での孤独な戦いに追い込まれていたのだ。心折れそうな極限状態、そこに現れたのがエンだった。ここでついにユマの緊張の糸は切れたようで、ユマはエンの腰に手を回して抱き付いた。
暗がりでエンの胸に顔を埋めたユマが泣いているのかは分からない。そのまま、しばしの時だけが過ぎた。
エンはまだ状況を知らない。そろそろユマも落ち着いただろうかと、少しずつ尋ねる。
「ウチヤは?」
ユマはエンの胸に着けたままの顔を、ぶんぶんと横に振った。エンの最優先の目的はユマとウチヤの救出だっただけに、これは残念な知らせであった。
「他の仲間は?」
「みんな死んでしまいました」
「そうか…… よく頑張ったな、ユマ」
エンに抱き付いたまま再び動かなくなっていたユマだったが、にわかに周囲が騒がしくなったことで、ハッと我に返った。邸内の捜索が進み、とうとうここまで来たのではないかと焦る。
「この屋敷には山賊の仲間の村人が沢山います。早く外に出ないと、ここも見つかります」
「いや、このままここに居た方がいい」
「どうしてですか?」
「屋敷を囲む塀にくぐり戸があったんで、俺はその近くの塀を乗り越えて中に入ったんだよ。そして、閂を外してくぐり戸を内側から開けておいた」
「それって……」
「うん、俺が応援が来たことなんて知らない連中が見れば、いかにもユマがそこから脱出したように見えるだろうね」
「村人は屋敷の外を探し出すということですか」
たしかに、騒がしかった人の気配が次第に遠ざかってゆく。
その間、ユマは今日体験したことをエンに語った。特にウチヤとの別れのくだりからは、その言葉から無念と悲しみがにじみ出ている。
「悔しいのか?」
「ウチヤを殺されているのですよ、当然です」
「怖くはないのかい?」
「分かりません。今は悔しさが勝っていますから」
「そうか。じゃあ行こう」
「え? でも、まだ屋敷の傍に村人がたくさんいますよ」
「ちがうよ、外ではなく庄屋の所に行って、仕返しをしてやろう」
それは逃げることしか考えていなかったユマには、思いもよらない誘いだった。
「そんなことができるのですか?」
「ユマの話を聞く限り、庄屋は指令塔で動くのは村人たちだと思う。ならば手下の村人たちが屋敷の外へユマを探しに出ている今も、庄屋はこの屋敷に残っている筈だ。そして何より、相手はユマの反撃なんて警戒していない。これってどうよ?」
言われてみれば絶好の条件が揃っている。たしかに殺るなら今しかないだろう。
「はい。行きましょう」
ユマは目を輝かせて答えた。
「よし、それじゃあどう殺るかだけど、ユマは暗器使いの天才だと聞いている。実際どれくらいやれるんだい?」
姉のユナと暗殺を請け負ったときのように堂々と敵の部屋へ乗り込んで一気に片を付けるのも手だが、連れているのが暗器使いなら話は別だ。安全な場所から一方的に狙う方が危険は少ない。
「相手に見つかることなく十歩以内に近づくことができれば、殺す方法はいくらでもあります」
想像以上の大風呂敷をしれっと広げてくるユマ。だが、初の実戦となると緊張感が違うだろう。ここは少々危険を冒してでも、エンが相手の注意を引くくらいのフォローが必要かもしれない。
「しかしユマ、実際に人を殺すのは初めてだろう?」
「…………」
「あれ? ……あるの? その若さでもう人を殺めたことがあるの?」
「はい…… 実は以前、「他所の村に乱暴者の人でなしがいる」などという噂を聞きつけると、世直しと称してマチコさんと一緒に……」
世直しなんてものは、女子二人が気軽に悪人を殺めにいくようなものではない。
『それは、ぜったい世直しじゃなくて暗器の実験だ。さては、少し後ろめたそうに話しているあたり、本人も自覚しているのだな』
そうと分かれば余計なことはせず、のびのびとやらせた方が良さそうだ。
ユマならばマチコがやっていたように痺れや眠りの香薬を扱えるのだろうが、香薬は効くまでに時間がかるし壁や仕切りの向こう側の相手へ仕掛けるのには向いていない。ならば、上から近づく方法が手っとり早いように思えた。
「先ずは庄屋のいる部屋を見つけよう。灯りのある部屋を探すんだ」
騒ぎが嘘のように静まった邸内。頭数の少ない村で、屋敷内の警護に人を割く余裕などないのだろう。村人は皆、外でユマの捜索にあたっている。
灯りのある部屋を探すのは容易かった。エンとユマは灯りの部屋から二つ離れた部屋へと上がり込み、そこから梁伝いに庄屋の部屋を目指す。
この屋敷は部屋ごとの天板が無く、梁が向きだしの構造だった。肩車でユマを梁に上らせる。エンも柱をよじ上り、何とか梁にしがみついた。二人が音を立てぬようにして梁を進むと、下で灯りに照らされている部屋の様子が見えてきた。男が一人、座って何かを書いている。エンは無言で男を指差し、あれが庄屋かとユマに確認すると、ユマも無言で頷いた。
下手にこのまま二人で進んで気配を悟られ、庄屋に上を向かれたくはない。そこでエンはその場で待機、ユマだけが庄屋の上まで進んだ。
『では、やりますよ』
声には出さないが、読唇術で読むユマの口はそう言った。エンはユマに向かって人差し指を立てる。それが了解の合図だ。
するとユマは懐や袖を探って何やら準備を始める。
それをエンは、はらはらしながら見守っている。もしもこの間に庄屋に気付かれたら、エンも飛び降りて庄屋に襲いかかる覚悟である。
するとユマは、小さな筒を口にくわえた。
『あれは、小さな針が飛び出す筒……』
エンもかつて、マチコから手に向けて吹き刺された憶えのある筒だった。
更に右手に糸、左手には小瓶を持つと、糸を庄屋の頭のすぐ上まで垂らす。そして小瓶の中の液体を糸に沿って流したのだ。しかし、このままでは液体はうつむく庄屋の首筋へと落ちるだけだろう。
疑り深く見守るエンだったが、ここから凄いものを見た。
液体が糸の先に達する直前、ユマは口にくわえた筒から針を吹き出した。それが庄屋の首筋、頭のすぐ下あたりに刺さった。その瞬間──
ビクンッ!
庄屋は背筋に電気が走ったかのように口を開けて上を向いたのだ。そして、その口の中に小瓶からの液体が滴り落ちた。
『凄い、何それ! ってか、やっぱ暗器使いは怖い』
エンが感心するほど見事な手際で、ユマは庄屋の口内に毒を流し込むことに成功した。上を向いたことで庄屋の方もユマの存在に気がつく。
「ぐがが…… キサマ…… 何をし……」
「隊長たちに毒を盛ったことへの仕返しですよ」
そう言ってユマは梁から飛び下りた。エンも彼女の方へと梁を歩いて近づく。
こうもあっさりと毒殺に成功するのだから、マチコが天才と言ったのは正当な評価だったようだ。
「死にはしませんが、声が出なくなり身体もある程度痺れるでしょう?」
ところが、庄屋の前に立ったユマがそんなことを言い出した。
『え!? 殺したんじゃないの?』
エンが慌てて梁から下りる。
もう一人いたのか。庄屋はそんな表情でエンを見た。そして、倒れれば終わると知っている庄屋は、何とかして反撃せねばと気力で立ち続ける。
しかし、そんな庄屋の希望を断ち切るように、ユマは庄屋の懐に急接近すると、小太刀で斬り上げたのだった。
致命傷を受けた庄屋がゆっくりと崩れてゆくのを見届けながら、ユマは言い放つ。
「これは、ウチヤを殺された仕返しです」
エンの方を振り返ったユマは、返り血に染まっていた。




