其の七 タチバナ奔る
「これだけいりゃあ、もう軍勢だな」
そう言うエンは、志村を見下ろせる山から遠筒を覗き込んでいる。武装した僧侶がわらわらと動き回っている。街道を封鎖し、櫓や砦を築いているのが見える。僧兵が民衆を先導し、軍事調練を行っている。
エンとサクが志村で僧侶相手に暴れたのは七日前のこと。それからの僧たちの動きは速かった。
翌日から町中での僧侶どもの乱暴が目に見えて増えた。三日目にはこれまで町の統治に関して大名と寺社の橋渡しをし、両者の折り合いを付けていた担当官の僧侶たちが殺害されたという。それでも殺される前に町を脱出できた者たちもおり、それらの者から詳細が大名側へも伝わった。
城方の侍は早々に寺社側へと恭順し、城にこもって見て見ぬふりを決め込んでいる。
そして、この波は志村だけでなく近辺の町へも波及し、僧侶とその門徒が武装決起している。
エンとサクも、あまりにも簡単に事が成ったことに驚いた。あれで駄目なら今度は湖を渡り、第二、第三弾と僧への嫌がらせを画策していたのだが、その必要もなくなった。
こうしてエンとサクが順調な任務の遂行に満足している一方、はるか東では焦りと緊張で落ち着かない時を過ごす者がいた。エンを送り出したタチバナと、サクを送り出した斉藤氏の一党である。
東近江にて本願寺の門徒たちが蜂起との知らせを受けた時、あの冷静なタチバナが「しまった!?」と声を発した。同じ近江国でも西と東では宗派が違う。そのことはタチバナの中ではあまりにも常識的な知識であったため、あえてエンに教えるということを失念していたのだ。
そもそも、エンたちが近江に入るなり、比叡山に近づくこともなく事を起こすとは考えていなかった。
西近江の比叡山は延暦寺、東近江は本願寺、同じ寺社でも仲は悪い。仏に仕える両者にも関わらず、いさかいが戦にまで発展することも珍しくない。
タチバナは急いで里を出ると、サクの主君である斉藤氏の元へと走った。斉藤氏の所在は把握している。今は岐阜城下の明智の別宅に明智様や数人の家臣と共に入っている。
懸命に馬を飛ばしたタチバナが岐阜の明智邸に到着したのは夕暮れ時であった。
「御免下さい。どなたかお取り次ぎいただけませぬか」
タチバナが門前で声を上げると、しばらくして潜り戸が開いた。
応対に出てきたのは、以前サクと共に濃武の里に来た安田甚兵衛である。
「タチバナ殿、よくおいでなさった」そう言って中へと入れてくれる甚兵衛は愛想は良いものの、以前のような明るさが無かった。屋敷を案内しながらも、時折タチバナを見る視線には冷たさも感じられ、今回の仕事の首尾が良くないことに腹を立てているのだと想像する。
「おう、タチバナ殿」
通された部屋には、既に斉藤利三が座っていた。
タチバナは斎藤氏の前に静かに着座すると、背筋を伸ばした姿勢からスッと流れるような何とも綺麗な土下座を行った。
「まぁまぁタチバナ殿、面を上げなされ。今回はそちらの忍だけではなく、こちらも作兵衛を随行させたのだ。正直なところ本願寺の蜂起と聞いて、作兵衛が短気を起こしたのではないかとも疑ってもいるくらいでな」
この斉藤氏からは、協力してお仕事に当たっていたのだから、不慮の問題に際しても協力して対応に努めようとする姿勢が伝わってくる。
トラブルがあれば、頭ごなしに下請けの責任にして怒鳴りつける依頼者が多い中、斉藤氏のこのような気遣いのある対応はタチバナには有り難かった。
「はっ。お心遣い、かたじけのう御座います」
「ほほっ タチバナ殿、お主はもしや、出身は何処かの武家では御座らんか? いや…… な、先程の切腹でもしようかというたたずまいで整然と頭を下げられたのを見てそう感じただけじゃが」
「かつて時勢の波に乗ることもなく消えていった武家がありました」
まるで昔話を他人事のように語るタチバナ。
「さようか。事情もあられようから根掘り葉掘りとは聞かぬが、まぁ落ち着かれるがよかろう。 今な、我が主が大殿の下に参じておる。上手くやってくれると信じて待つしかない」
岐阜の大殿は気の難しい御方と聞くが、斎藤氏をはじめ皆落ち着いたものだ。明智様とはそれほどに弁の立つ御方なのか。それとも家臣は、明智様で駄目なら仕方ないと腹をくくっているだけなのか。
「タチバナ殿にとっては、作兵衛を連れて行ったことが幸運であったやもな……」
斉藤氏はそんなことも呟いた。失策を他者のせいにして言い逃れようとする者は多い、所領安堵のためには背に腹はかえられないからである。そんな時に梯子を外されて処断されるのは下請けである。しかし、少なくとも今回、明智殿はそのような解決策は採らないだろう。現場には下請けの忍だけでなく、目をかけている作兵衛がいるのだから。
一刻ほどが経ち明智殿が帰館した。皆の待つ部屋へと入る明智殿を家臣たちが緊張した目で迎える。
「ただ今戻ったぞ……… おぉ、お主はもしや、忍の関係者かな? ちょうど良い、そのままお主も聞いてくれ」
見慣れないタチバナの顔を見てそう言いながら、明智殿はすたすたと上座へと座った。歳はそれなりにとっているが、きびきびと素軽く動く御方である。
「皆に大殿の言葉を伝える。本願寺の一揆について大殿が仰せになった御言葉は、「むしろ都合が良い」である」
半数の者が「は?」となる中、タチバナは胸をなで下ろしていた。
本願寺というのは、もう各地で何年も岐阜の御殿様と戦いを続けている宿敵である。それが近江で暴れているとなれば、比叡山延暦寺に警戒されることもなく近江に大軍を送り込むことができるだろう。「むしろ都合が良い」とはそういう意味だ。
明智殿が岐阜の御殿様をどう説いたのかは分からないが、そのように現状を前向きに受けとめられたのであれば、明智家にお咎めは無いだろう。
しかし、明智殿の話はそこで終わらなかった。
「ただし!」
── !?
「我は此度の比叡山討伐までの作戦参謀を仰せつかった」
「おぉ」どよめきのような声が出る。作戦を取り仕切るとは大役であり、成功させたなら出世なり大きな褒美なりが与えられるだろう。本来なら良い話なのだ。
本来なら……
しかし、今回は事情が違う。進んでこの作戦に参加したい者がいないのだ。理由は、最終的な相手が比叡山延暦寺、仏教の総本山ともいえる権威に弓を引いて仏敵となることに気が進まないのだ。同じ理由で兵たちの士気も上がらないかもしれない。
「だが、此度の我らはやるしか無い。そして失敗すれば明智に後はないであろう」
場に漂う悲壮感を感じたタチバナは、里の信用回復のためにも、ここからの作戦での全力での支援を決めた。そして、この状況も知らずに何処かで飄々と過ごしているであろうエンにも、後でキツく叱ってやろうと決めていた。
一方その頃、近江のエンは、のけぞっていた。
足で立っているにもかかわらず、エンの頭が逆さを向くほどの柔軟さに気味悪がるサクの前で、エンは鼻に詰めた豆を噴射。弧を描いて落下してくる豆を見事に口で受けとめた。
「おお!? 何それ、凄い」
焚き火を囲む二人は楽しそうだった。




