其の拾六 空手三倍段
抱えていたお仕事も全て片が付き、穏やかな日常に戻っていた。今年は春から駆けまわり、道場で過ごす時間が減っていたが、ようやく修行に打ち込めるようになった。
今年に入ってから剣の稽古に勤しむようになったエンの太刀筋も、見ていられる程度には育ってきたのではないだろうか。
エンは稽古を通じて、アゲハ・ユナ・マチコ以外の門下生ともうち解けるようになった。女性ばかりの道場だが、特に争いの対象となるような地位も物も無いことから、ここでは門下生同士での派閥やいさかいといったものが無かった。
唯一の男子門下生であるエンを巡っての揉め事も一切起こらないことに、心の片隅で釈然としないエンがいることも、この遊好館道場にとってはどうでもよいことだった。
とはいえ、そんな穏やかな道場も人の集まり。やはり噂話や陰口の一つや二つは耳に入る。中でもそれがマチコに関する陰口であった場合には、自分と仲の良い人であるだけに、エンには心苦しいものがあった。
話せば気さくなマチコだが、あまり人と群れるようなことはしない。人目を気にしないので、誤解されても弁解をしない。道場にはまめに通うも、稽古の姿を見せていない。そりゃ陰口の一つも叩かれる。
それは仕方のないことながらも、マチコが内職をしているだけの弱虫だと決めつけるような誤解だけは、エンには我慢できないものがあった。それは最近の活動の中で、エンがマチコの強さを知ったからかもしれない。
「マチさん、俺と試合しよう」
「はあ? イヤよ」
「俺もそれなりに剣が振れてきたんだよね。稽古もしないマチさん程度なら、そろそろ超えてきたんじゃないかって思うんだよね」
「ふん、キミそれ挑発のつもり? でもね、ウチはいま作業中よ」
「だいたいね、暗器こそ使い手であることを隠すべき奥の手だよね。最近ずっと違和感があったんだ。マチさんは敵の真正面に出て戦えるあの力を隠して、暗器使いを公表するって…… 逆だろ!」
ど正論である。
「そもそも何で、みんなの前で暗器を作ってんの?」
「いや… だって、ここの人たちとは暗器で戦わないから…… それにこの道場では、武器の研究も活動のひとつだし」
「なら、せめて両立させるべきだよ! 道場での勝負ではお得意の暗器は使えないから、マチさんには有利な条件を付けてあげるよ。そうだな、暗器が使えないマチさんは代わりに好きな武器で闘っていいからさ。暗器を使わないマチさ……… 暗器…… 使わない…よね」
明らかに暗器を恐れているエン。
そんなエンをニヤリと見て立ち上がるマチコ。
「いいよ。キミの誘いに乗ってあげよう」
────
エンの武器は練習用の軽い素材の木刀で、殺傷力を減らすために布を巻いてある。
一方のマチコは手から肘までをカバーする手甲を両手に装備し、拳には布を巻いている。
「空手三倍段って言葉を知ってるかい? いくら何でも素手とは俺をナメすぎたね」
「キミ程度にまだ武器はいらないよ」
マチコの武装が珍しいため、次第に門下生たちの注目が集まりだす。こうしてマチコが道場の中央で構えるのは希少な光景なのである。
エンは小手調べとばかりに上段から打ち込んだ。
これをマチコは避けようともせず、強く一歩を踏み出すと同時に両手を突き出した。
「がはっ」
エンの剣はマチコが出した左手の手甲で受け止められ、同時に突き出した右手がエンのみぞおちに入った。
膝をつくも苦しそうに立ち上がったエンは、休まずマチコの右から水平に剣を振るう。しかしこれもマチコは右手の手甲で止めながら、同時に踏み出して左手の拳でエンの眉間あたりを突いた。
防御と攻撃の手を同時に出すため、マチコの攻撃は腰の乗らないショートレンジの正拳だったが、それでも怪力の持ち主である。迂闊に手を出すと、割の合わないカウンターが返ってくる。
自ら手を出せなくなったエンが、剣を構えて固まっている。そこへマチコは今度はスッと静かに踏み込むと、エンが構える剣をのれんでも分けるように横へ払う。するとやはりもう一方の手が平行するように動いてきて、エンの頬を捉えた。エンは剣こそ放さなかったが、踏ん張りがきかずに倒れた。
『こんなに強かったのか…… あの動き、対応の仕方が分かんねーな』
実戦なら間合いを取ってクナイで対応したいところだが、今は剣で闘うしかない。だが、現状のエンでは剣での動きのバリエーションが乏しすぎた。
「空手三倍段って知ってるかい? 残念ながら、ウチはキミの三倍は強いみたいだよ」
そう言うマチコの表情はとても楽しそうだ。エンへの言葉はまだ止まらない
「キミの剣は、傍で振り回したところで風も来ない。うちわ以下だね」
「く…くそっ」
ここまで言われると、さすがにエンも腹が立った。痛みをこらえて立ち上がると、剣先をマチコの胸へと向けて貫く勢いで飛び込んだ。 しかしその時、エンには見えた、マチコの口元が微笑んだのだ。
── しまった!? 挑発だ!
もはや手遅れな勢いで突っ込むエンは、いつかマチコが聞かせてくれた、彼女が力士に鍛えられてきた話を思い出していた。
マチコは剣をかわしながらエンの身体を捕まえると、豪快に投げた。
「あぁ嫌だなぁ、これ絶対に痛いやつだ……」
宙に浮いたエンがそう思った直後、強かに腰を打ちつけたことで、その予感が正しかったことが証明された。
マチコの強さを目の当たりにした場内の門下生たちが、唖然と試合を見つめている。ただ、道場主のユデと塾頭のアゲハだけは笑顔で見守っていた。
「はい、そこまでね」
アゲハが割って入って試合を終わらせた。
「マチコに挑むにはまだ早かったね」
そう言ってエンに手を差し伸べて立ち上がるのを助ける。それにしてもこのアゲハの落ち着きよう
「アゲハさん、あなたマチさんが強いのを知ってたな」
「何のことかしらね……」
実はアゲハもかつて、エンと同じようにマチコと試合を行っていた。それも何度も。
マチコの道場での姿勢に業を煮やしたアゲハは、ある日皆が道場から帰る頃、半ば強制的にマチコに試合を迫った。そして門下生たちの帰った後の道場で試合を行ったのだ。ただし、道場での私闘ははばかられるからと、道場主のユデの立ち合いの下で行った。ユデもマチコの技量を見たいと、止めることはなかった。
実力はほぼ互角、勝ったり負けたりだが、ややアゲハの勝ち星が先行した。
ただ、とある試合にてマチコが徹底して防御に努めたことがあった。性格的に待ちきれないアゲハはマチコに組み付いて、泥仕合に持ち込もうとした。次の瞬間、アゲハの身体は宙を舞った。力士に鍛え上げられたマチコを相手に組みにいくのは悪手なのである。
──── ── ── ─
道場の隅で、立てた膝に額を付けて落ち込むエンがいる。
「キミは良いヤツだね。ウチが道場で浮いてるから、ウチの力をみんなに見せるために試合を挑んだんでしょ?」
傍に座ったマチコからそう声をかけられると、エンは伏せていた顔を少し上げた。そして、虚ろな目でマチコを見ると、先ほどの自らの行動の主旨を語る。
「理想は、マチさんの実力を皆に示しながらも、最後には俺が勝つ。……これだったのに」
「そ…そう…… そんな高度なことを考えてたんだ…… 残念だったね……」
「それが…… 無様すぎた…… 一つも当てることができず、宙に浮いただけだ。マチさんの強さとセットで、俺の弱さが皆の心に残ってしまった」
「まぁそのうち、キミが強くなったところを見せてさ、その伸びしろをみんなの心に植え付けるしかないよ」
しばらく沈んでいたエンだったが、やがて気持ちが落ち着いてきたのか、暗器を加工するマチコをぼんやりと眺めている。
「それにしてもマチさんは、作った暗器はどこで試してるの?」
「お仕事で使ってみることもあるけどね、ほとんどは使ってもらって改良点なんかを聞いてるんだよ。 キミはまだ知らないんだね。実はこの道場にはね、暗器使いの申し子といってもいい天才がいるんだよ」
「え、ここに? だれ?」
「その子はユマ」
「ユマ?」
「そう、ユナの妹だよ」
たしかに以前、道場の娘たちは九姉妹で、ユナは七女だと聞いていた。まだ下に二人もいるということだ。
『あのユナよりも幼くして暗器使いの天才…… なぜだろう、ぜんぜん会いたくないな……』
あの台風が去ってひと月、エンとマチコの間で財宝の話題が持ち上がることはなかった。間近で手に取ったあの財宝も、埋めてしまえば再び他人事のように思えた。あの土砂の壁は物理的な壁にとどまらず、夢と現実を隔てる壁でもあるのだろう。
残ったものは、エンとマチコの間の友情とも愛情ともつかぬ強い仲間意識だけであった。
第五章 ── 完 ──




