其の拾五 侍の本能
エンとユナ、二人の刺客は廊下へ上がる。そして、そっと障子を開けると、素早く部屋へと入って閉めた。
広い畳の部屋だった。
一方は壁、三方は障子で囲まれている。
部屋奥の壁ぎわに二人の男が座っていた。
図々しくも明るい部屋に正面から入ってきた侵入者に一瞬唖然としながらも、二人はすぐに立ち上がって身構えた。
中年の男の方が領主の葉栗長倉だろう。
長倉は、床の間に置かれた大小の刀を拾い上げた。そして、エンと同じくらいの年頃に見えるもう一人の青年へ小刀を渡した。おそらくこの青年は領主の部屋を訪れるため、武器を携帯していなかったのだろう。
もしも部屋に居たのが領主の長倉一人であったならば、助けを呼ばれたところで、家人が駆けつけるまでにユナと二人で一気に仕留めてしまおうと考えていたのだが、家人がすでに居るとなると話が変わってくる。
ところが、長倉を庇うように構えるこの青年の顔にエンは見覚えがあった。それは先日、エンが命懸けで倒した虎級のキョウに付き従っていたあの弟子だった。
たしかあの時キョウは、この青年をヤスケと呼んでいた。
キョウに全幅の信頼を置いていた領主は、キョウの忘れ形見であるヤスケを引き取ったのかもしれない。
突然の招かれざる侵入者に対し、当然のように長倉と青年は他の家人を呼ぼうとするが、エンは彼らの声に被せるように言った。
「ヤスケか!」
構えを崩さない長倉とヤスケだったが、ヤスケの名を知る目の前の男が何者かを知ることに意識が移り、大声で家人を呼ぶのをやめた。
「キサマ、なぜオレを知っている」
「俺はね、あなた方が家人を呼ぼうとしたので、親切心で止めてあげたんだよ」
はぐらかすようなエンの答えにヤスケは苛立つ。
「なぜオレを知っているのかと聞いてるんだよ!」
熱くなるヤスケの怒りを意に介さないように、エンは落ち着き払った様子で言う。
「だから…… 人を呼ぶのは結構だが、キョウの仇討ちを他人に譲っていいのかい?」
「なっ!!?」
長倉とヤスケの目の色が変わった。
特にヤスケは、みるみる怒りが表情に表れてくる。
「キ… キサマが、師を殺ったのか?」
「うん、そうだよ」
「キサマがどれ程の手練かは知らぬが、師の仇ならばオレが!」
「手練どころか、俺はしがない猿級さ。武芸は苦手でなるべく闘いは避けるようにしてるんだけどね。でも君の師は逃がしてくれそうになかったんだよ。だから仕方がないので倒しておいたよ」
「ぐぐぐ…… 殺してやる」
怒りで歯を食いしばるヤスケの口から血が滴る。
「ヤスケよ、挑発だ。心を乱すでない!」
そんな長倉の声も、今のヤスケの耳には入ってこない。
今にも飛びかかりそうなヤスケであったが、先に仕掛けたのはエンの方だった。エンはヤスケの顔へ向けて、左手のクナイを投げた。
他の武器はからっきしながら、ここのところクナイの扱いには長けてきているエンは、左右の手でクナイを投げることができるようになっている。
しかし、戦闘開始直後のクナイ投げなど、そうそう当たるものではない。ヤスケは的確に顔に向かってくるエンのクナイを見切ったかのように、首を捻って交わした。
交わすと同時にエンへと踏み込んだ。
ヤスケを通り過ぎたクナイは、奥の壁に刺さった。
ギンッ
ヤスケの上段からの斬撃をエンは右手のクナイで受け止めた。挑発が効いたのか、それともヤスケの本来の素直さなのか、力はあれど真っ直ぐな攻撃であったのでエンは受けることができた。
ここでエンは器用にも右手で防御を行いつつ、左手を思いっきり引いた。
エンの左手と壁に刺さっているクナイは、紐でつながっている。位置としてはエンの目の前にヤスケ、刺さったクナイはエンの正面より左、紐はヤスケの首元を経由していた。
シュッ
エンが引き戻す紐の摩擦で、ヤスケは左首に痛みを感じた。
「何だ! …糸?」
気付いたときにはもう手遅れ。引き戻されるクナイがヤスケの後頭部に直撃した。突然、背後から強烈に撲られたような衝撃を受けたヤスケは、そのまま畳へと倒れ伏せた。
「ヤスケ!」
長倉が警戒の構えを解かないまま、ヤスケを気遣った。しかし、これまでの練習でも無かったほどの手応えできれいに紐の誘導を決めたエンは、すでにその長倉を次の狙いに定めていた。
ところが、エンの足下に転がっているヤスケの体が少し動いた。エンは咄嗟に後ろへ飛び退いた。
ヤスケは一時は意識が飛んだのだろう。ただ、倒れてすぐに意識を取り戻した。とどめを刺させまいと、ヤスケは倒れても放さず握っていた小刀を振った。 その一振りで、転がっていたクナイとエンをつなぐ紐が切られてしまった。
そしてさらに何度か刀を振りながら、ヤスケは立ち上がってきた。怒りや執念というのは人の精神に力を与えるのだろうか。
「大丈夫です。私がこのまま片を付けます」
── おいおい
ヤスケが猛然と打ち込んできた。
攻撃の動きが大きいおかげで、エンもクナイで受けて右へ流す。
だが、ヤスケはすぐに向き直って、また上段からの打ち込み。エンは何とかこれも受けて、はじき返した。
── こんなの、いつまでも続けられない
エンには二つの目論見があった。
頭にクナイを当てれば敵の一人を戦闘不能へと追い込め、その後は二対一の状況に持ち込める。
また、ユナには、「動かずに領主だけを見て、領主の意識が一瞬でもユナから逸れたら、踏み込んで斬れ」と指示していた。
だが、どちらもアテが外れた。クナイを当ててもヤスケは倒れなかったし、ヤスケが殺されそうになっても領主の意識は逸れなかった。
そして今、エンは策もなく、ヤスケの攻撃をかわすことに精一杯だった。
『これはマズい! いっそのこと作戦は諦めて、ユナに「助けて」って叫ぶか?』
ヤスケが横凪に刀を振るった。エンは後ろへ跳んで、これを紙一重でかわした。動きを見切っての紙一重ではない、ほんとうにギリギリなのだ。
しかしここで、エンは物を踏んでバランスを崩した。そしてそのまま、畳に尻餅をついてしまった。
── 俺のクナイか!?
紐を切られて転がっていた、自分のクナイを踏んで転ぶとは、なかなか締まらない話だ。
ヤスケは畳上のエンを目で威圧しながら、ゆっくりと刀を振り上げた。
ズシャッ
まだヤスケの刀は振り下ろされてはいなかった。
「ぐがぁ…」と苦悶の声が発せられたのは、ヤスケの背後。ユナが一瞬にして長倉の懐に踏み込むと同時に、彼の脇から首へと斬り上げていた。
頭に血が上っていたヤスケだったが、長倉の苦声を聞くと、我に返ったように冷静になった。いや、血の気が引いたという方が、表現としては正しいかもしれない。
ヤスケの注意が完全に背後へと移った。
御館様を護ることが最優先の使命であるにもかかわらず、挑発に乗って私怨で闘った挙げ句に、御館様が敵の手にかかるという取り返しのつかない事態に気付かされたのである。
敵であるエンを前にしていても、後ろを意識するなというのが無理な話だった。
次の瞬間、エンの突き上げたクナイがヤスケの喉元に突き刺さっていた。
今回もまた、死ぬかと思った。
このまま畳に座りこんで休憩したい気持ちを抑えてエンは立ち上がると、領主の長倉を斬った返り血で、またしても血まみれになっているユナの傍へと寄った。
「相変わらず凄い技だな、あの踏み込んで斬るやつ」
「ふふ、ありがと」
「道場で俺と立ち合うときは、あの技は禁止な」
「ええ!? なにその縛り……」
エンは、足下に倒れている葉栗郡領主の葉栗長倉の首に触れ、その死を確認した。
「この領主様、ほんと武士らしいというか……」
ヤスケが死にそうになったときでさえ、自身に向いている敵への警戒を切らすことはなかったのに、ヤスケが師の仇を討てそうになると、ヤスケの方へと意識が向いた。
こういうところだ。
闘いでの中で自分や味方が命を失うことには、冷たいくらいに心が揺れ動くことがないくせに、功名を立てることには異様に関心が高い。
エンには侍のこういう習性が、度し難いと思うところなのだ。
ともあれ、暗殺は成った。
いつ人が来るとも知れぬこの場に留まるほど、危険は高まる。
エンとユナは、そっと部屋を出て庭へ降りると、夜の闇に消えていった。




