其の五 虎級
焦れて長く遅く感じていた時間の感覚は、心を落ち着けるにつれて、実際の時間の流れと合うようになってきた。そして、そのように感じられた頃には、領主の乗る駕籠との距離も詰まってきた。
前衛の侍がエンの前を通り過ぎていく。
チラリと駕籠の様子を確かめると、相変わらず駕籠の扉は開いたままだった。
妙に口の中が渇く。しかし、緊張を表情に出してはいけない。むしろ田で仲間と戦った時にはできたことなのに、一人だとこうも顔が引きつるものなのか……
それでももう、やるしかない。
「覚悟ぉぉぉ!」
「えっ?」
エンではない。
それはエンから二つ隣で、同じように膝をついていた男が発した声だった。男の正面に駕籠が差し掛かったとき、彼は気合いとともに刀を抜いたのだ。
一歩。 たったの一歩だった。
刀を抜いた男が、領主の乗る駕籠に向かって一歩踏み出したその時、刀を握ったままの男の両手が宙に舞ったのだ。
カラン…
エンの目の前に、手付きの刀が転がった。
「うがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
一瞬にして両手を失った男が、苦しそうに呻く。
血が噴き出す切り口を手で押さえたいのだろうが、その手が無いのだ。
「ひゃぁぁー」
男とエンの間で膝をついていた老爺が驚いてその場から逃げ出そうとしたが、足がもつれてエンにぶつかった。慌てふためく老爺はそれでも止まることはなく、よろよろとその場を走り去っていった。
膝を落としたままの格好で老爺にぶつかられたエンは、思わずその場に尻餅をついていた。腰が抜けたわけではなかったが、あまりにも想定の枠の外からの出来事に、呆然としていた。
しかしそんな呆けたエンの表情は、驚きによって目を見開くことで一変した。
「え?」
エンの傍に男が立っていたのだ。
── いつからそこにいた?
紺の衣服に灰の袖なし羽織、袴の裾は絞られている。それは無精ひげを生やした少し長身な男の小綺麗な衣装だが、侍の着ているものとは少し雰囲気が違った。
『こいつが斬ったのか?』
そんな紺の男の後ろ腰には、横向きに短めの鞘が装備されていた。紺の男は手にしていた刀身の短い刀を一振りして血を飛ばすと、後ろ腰の鞘に収めた。
『こいつも忍か。 ……しかし、駕籠を囲む護衛の中にこんな奴はいなかった。ましてや路上で苦しむこの狼藉者と領主との間には誰もいなかったはずだ。 それが一歩踏み出した時点で斬られた…… 至近距離に居たのか、それともそこに倒れている男が狼藉者で、襲撃することをあらかじめ知っていたのか。そうでもない限り不可能な対応だ。 それらのことからだけでも、こいつが凄腕の忍であることは判る』
紺の男はエンの方を向くと、上から見下すような視線を向けて言った。
「キサマもこやつの仲間か?」
「いや…… 違う……」
危険な相手であることは判る。
エンは手のひらで男を制止するように、否定した。
「キサマの頭や手からも気煙が見えたが…… ふん、まぁキサマのような臆病者が、刺客なわけはないか」
紺の男の視線は、エンの下半身へと向けられていた。
先ほどエンが尻もちをついたとき、腰に下げていた皮の水袋が尻の下敷きになってしまっていた。袋から漏れ出した水が、じんわりとエンの衣服を濡らしている。
それが今のこの状況と相まって、エンの姿は恐怖で失禁したようにしか見えなかった。
「うわぁー」「きゃぁー」
周囲の人々が異常に気づき、辺りはにわかに騒然としてきた。
エンに興味を無くした紺の男は振り返り、エンに背を向けて駕籠の方へと進んだ。
『………格好は悪いが、おかげで助かった。このどさくさに紛れて、俺もこの場を離れないと』
エンはそそくさと男から離れる。
ただし遠巻きに見まもる群衆に紛れ、紺の男と駕籠の動きを観察した。
「御館様はこのまま速やかに先へ進まれますよう。すぐに我も追いつきます」
紺の男の言葉は読唇術で容易く読めた。彼は領主の駕籠にそう促すと、駕籠者に出発を命じる。そしてさらに警護の侍の一人を呼び止めた。
「私は御館様からあまり離れることができない。貴殿は城に戻り、人を呼んでこの狼藉者を回収して貰えぬか。問うことがある故、なるべく死なさぬように」
そうして周囲の味方への指示を終えると、紺の男はとつぜん大声を発した。
「はやく手を打たねば、勇敢なこの男の命は尽きてしまうだろう! 我を撃ち倒すことができれば、こやつの身柄は引き渡して見逃してやろう! それとも残りの者は、勇敢な仲間を見捨てて逃げ出すクズばかりかー!」
紺の男のこの呼びかけに反応して、近い建物の陰から仲間とおぼしき狼藉者が一人、飛び出した。
狼藉者は右手に長刀、左手に短刀を握っている。
「ふふっ やはり他にもいたか」
迫り来る狼藉者を前にしても、紺の男は落ち着き払った様子で立っている。狼藉者は勢いで相手を征しようと、左右の手に持つ刀を連続で振るい続けて攻め立てていく。
この狼藉者がけっして弱くはないと思えたのは、左右の刀を常に交互に振るうわけではなく、不規則にしていること。そして太刀筋も一定ではなく変化を付けている。それでも、その刀が紺の男に触れることはなかった。紺の男も腰の刀を抜くと、狼藉者の斬撃をすべて刀で受け流していた。
エンには、狼藉者が繰り出す斬撃の軌道を全て知っているのではないかと感じられるほど、紺の男の身のこなしは危なげのないものであった。
「他には出てこぬか…」
紺の男は狼藉者が繰り出した刀を強く弾いて相手に隙を作ると、狼藉者の脚の腱を斬った。
狼藉者が動けなくなると紺の男は、見物人の中にいた中年の男に言った。
「城の連中が来るまで、此奴らを見張っておいてくれ」
そう言い残すと、彼は領主の駕籠の方へと走り去っていった。
エンもその場を離れた。もう駕籠を追う気にもならなかった。
今日の出来事は、エンにはつらい記憶となってしまった。しかし、思い出さない訳にもいかない。
あの紺の男………
権力者の身辺を護り、侍たちにも対等に指示を出していた。そして何よりあの身のこなし、明らかに格上だった。
「あれは虎級だ……」
里にも少数ながら存在する鷹級までならば、エンにもその強さの程は想像がつく。しかし、虎級ともなれば、そんな想像する鷹級を遙かに凌駕する実力を持つ者なのだろうと、エンは半ば架空の存在のように扱ってきた。 それが今日、エンは自身の想定する鷹級の強さを遙かに超える強さを実際に目撃したのだ。
エンはこれまで虎級の忍を見たことはない。それでも確信に近いものを感じていた。
「あれは虎級だ……」
エンは何度も同じことをつぶやいていた。




