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忍のお仕事  作者: やまもと蜜香
第四章 【暗殺】
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其の四 目の前の標的

「お館様の駕籠が通るぞー!」


 髭で顔の下半分が見えない男がそう叫ぶ声を聞いたのは、エンが再び城下町へと戻り、大通りを歩いていた時だった。


 往来の人々は、ぞろぞろと道を空けるように両脇へと移動すると、地に膝をついた。

 仮に殿様が馬上の人であったなら、人々は立っていても見上げることになるのだが、殿様が駕籠に乗っている場合は、立っていると見下ろす形になってしまう。そのため人々は、頭が高くならないように地に膝をついて迎えるわけだ。

 エンも周りに倣って、道端で膝をついた。


 ── みんな、面を上げている。


 膝をついた後も、エンは町の人たちの作法に合わせようと周囲を観察していた。すると、人々は膝をつくことで駕籠よりも頭を低くはするものの、誰も平伏はしていない。そして何よりも感じられるのは、殿様の近くにあっても皆に殺伐とした緊張感がなことだ。これは、この地では権力者と領民の距離が近く、平素より恐怖による統治は行われておらず、一定の信頼関係が築かれているということだろう。


 すぐにエンの座る場所からも駕籠が見えてきたが、まだまだ遠い。


 ── 里の忍の中でも、標的に最も近づいたのが俺になるな。


 ただ待っているだけのこの時間、ぼんやりそんなことを考えた。もちろん標的との距離を競うお仕事ではないので、目の前を素通りしてゆく駕籠を見送ったところで大した意味はない。


 ── 遅い……


 ゆっくりと歩く程度の速度でもそろそろエンの前へ通りかかっていい頃なのだが、駕籠の進みはずいぶんと遅い。身を乗り出して通りを覗いてみたが、エンとはまだかなりの距離があった。

 エンの位置からは、向かってくる駕籠のほぼ前面が見えているのだが、同時にその駕籠の側面から出ている手も見えた。すると、駕籠の横にいる老人が膝をついたまま一歩進み出て、首を縦に振っている様子が目に映った。


 ── まさか、領主は道端の領民と会話をしながら進んでいるのか。


 急いでエンは、駕籠の周りについて歩く城方の人数を数えた。駕籠の前後に駕籠者が一人づつ、さらに警護の侍が前方に二人と後方に一人付いているのが見えた。

 往来の人をどける露払い役の侍は、駕籠から離れてすでにエンの近くにいる。


 ── この数の護衛だけで駕籠から姿を晒すとは、無警戒が過ぎるのではないか?


 大名ともなれば、偽の駕籠を列べてその一つに姿を隠し、随行するお供も多数揃えるのだろうが、葉栗程度の小領主であれば、この数は身分相応といえる。 ただ、エンにはそういった領主が移動する場面をこれまで目にした経験がなく、予備知識も持っていなかったため、今回遭遇した領主の一行の警備が手薄であると感じたのだった。

 この感覚が、エンがこのあと葛藤の渦へと引き込まれていくきっかけとなる。


 駕籠がこのまま進んで来れば、エンの目の前に暗殺の標的である領主が身をさらすことになる。


 ── これって、俺ひとりでも殺れるんじゃないか?


 エンの心に誘惑が芽吹いた。

 抜け駆けや功名心といったものには疎いエンではあったが、千載一遇の機会が舞い込んだような希少感と、この期をみすみす見逃してよいのかという強迫観念が、同時にエンの心を揺さぶったのだ。


『いやいや…… まて、落ち着こう……』


 エンもさすがにこの誘惑に流されて、衝動的に動くのは危険すぎると気付いた。 まずははやる気持ちを抑えて、計画的に考えなくてはいけない。もし領主を殺害することができたとしても、それだけで事が終わるわけではない。そのあと無事に逃げのびることの方が難しいはずなのだから。


『いま通りを挟んで俺の正面には、商家と商家の間の路地が見えている。あの路地を抜けると畑が広がっていて、たしかその向こうには川があった』


 そう、エンはすでに周辺の地形を把握していた。

 川に橋は架かっておらず、船を出すための渡し小屋は下流に二十間ほどの場所であることも調べがついている。


『駕籠が目の前まで来れば、膝をついている状態からでも二歩で領主にとどく。 ただし、一撃でし損じた場合、改めてとどめを刺すような余裕はない。それどころか、標的の生死の確認すらできないので、なるべく致命傷となる箇所を狙わなきゃいけない』


 そして問題はその後だ。


『駕籠の前方の左右に一人づつ、後方は一人の侍が護衛している。事が起こった時に最初に気付くのは、左前の侍と、位置取りによっては後方の侍の二人。 駕籠の裏側の侍は死角になっているので、反応が遅れるはずだ。 領主を刺してすぐに、駕籠者の背後をすり抜けて駕籠の裏側に回り込み、あの路地へと飛び込む』


 エンが逃げのびるには、路地を抜けて畑をを越えて、追い付かれることなく川にたどり着くことが絶対の条件となる。

 路地は狭いので、エンを追う侍が一斉には通ることができない。最初に路地に踏み込み、先頭でエンを追ってくる侍との脚力勝負となる可能性が高い。

 エンの手持ちで使える物は、懐に忍ばせている光玉が一つ。


『追っ手の侍は弓を持ってはいない。だから十歩も差をつけることができれば、安全に川に入れる。 侍は重くて大切な刀を持ったまま川に入るのを嫌うから、渡し船を使おうとするのだろうが、渡し場は下流だ。俺が泳いで渡りきって、向こう岸の山林に入る方が早い』


 ── どうする……… やるか?


 できそうな気はする。

 しかし、決断には勇気が要る。

 そもそも暗殺とは困難なお仕事なはずなのだ。

 それがそんなに容易く成功するものなのか。

 功名心に流されて、何かを見逃しているのではないか。

 そもそもエンは人を斬ったこともないのに、単身で護衛のついた人を斬って逃げるという作戦自体が破綻していたりしないか。

 この潜入調査のお仕事に危険は無い。駕籠を見過ごしても、それは予定通りなのだ。それをわざわざ命を危険にさらす必要があるのか。


 葛藤が止まらない。先程からじっとしているはずなのに、息が苦しい。 いっそ、悩んでいる間に駕籠が通り過ぎていてくれればいいのにとすら思えてくる。

 しかし、もしもここで動かなかったらどうなるか。改めて機会を待った上で、待ち伏せでの襲撃を行ったり、暗殺のために城への潜入を試みたり、今よりも困難な状況に立たされることになるのではないか? だとすると、今の状況は絶好の機会に思えて仕方がない。


『このまま悩んでいてもきりがない。やれるだけ、やってみる』


 葛藤中の締め付けられるような胸の苦しさに嫌気がさしたエンは、そんな苦しみから解放されるためにも、開き直って思いを定めた。


 いずれにせよ、まずは心を鎮めることだ。

 挙動や雰囲気が不自然なのは相手にも伝わってしまうもので、事前に怪しまれてしまうのは最悪だ。

 景色に溶け込むように存在感をなくして、エンは駕籠の接近を待った。


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