其の一 豆腐の決心
濃武の里。そこは山を切り拓いて造られた人里。隠れ里としてはそれなりに規模が大きく、人々が生活を送る上での一通りの施設は揃っている。
中小の忍里にしてはその歴史は古く、里の一部の者にのみ読み伝えられる里の史書によると、奈良に都の在った約九百年の昔にこの地は集落として急成長したのだと伝えられる。
当時、遠く世界の果てから景教と呼ばれる宗派の宣教師が都を訪れていた。もちろん教えを広めるべくはるばる日ノ本までやって来たのだが、不幸にも彼はその来日中に、景教が本国にて弾圧に遭い滅ぼされたとの情報を知ったのだった。
帰る地を失った宣教師はそのまま歴史から姿を消した。そんな彼が流れ着いた場所こそが、濃武の里であったのだという。
宣教師は、彼の本国にて古代より伝わる先進の文化を熟知しており、その技術の一部を体得していた。これが里の秘術としてエンの遠筒やタチバナの眼鏡といった形で今に伝わっている。景教弾圧の結果、本国では失われてしまったそれら技術が、皮肉にも遠く日ノ本の片隅で残ることとなった。
さて、そんな濃武の里のとある酒場、そこに今日もエンの姿があった。エンはここで、同じ寮に住む忍のタカシと一緒に酒をあおっていた。
「おまえ、道場に通うようになったんだろ?」
「ああ、そうだよ」
ん~~ とタカシは少し身を引いて、エンの全身をまじまじと観察する。
「見た目には何も変わったようには見えんがなぁ。強くなったのか?」
「う、あの…… いや……… まだ、なってはいないかな」
「それでも入門前よりは強くなったんだろ? 通って稽古してるんだからさ」
そう言われたエンは、これまでの道場における自分の行いを思い返した。しかし、そこに思い浮かぶ記憶の数々は、武器庫を物色したり、マチコの傍に座って工作をしたりといったものが大半を占めた。
稽古らしい稽古といえば、アゲハに三度ほど叩きのめされたこと。そして塾頭のアゲハでは壁が高いと考え、相手さえ換えれば勝負になるかと思ったのだが、町の屋敷に仕える女中のタエにも倒された。そんな記憶しか出て来ない。
「それが…… まったく強くならない……」
「……そうか……まぁ人には向き不向きがあるからな……」
タカシによりあっさりと『戦闘に不向き』という致命的な足枷を付けられてしまったエンが、どよんと暗く沈む。たしかにエンには猶予が無かったはずなのだ。今のまま次のお仕事が来れば、また命を懸ける羽目になる可能性が高い。
『そうだよ、お仕事で死なずに済むように道場へ入門したはずだったのに、何で俺はいつも座って工作ばかりしていたのだろう……』
まさに我に返ったエン、急に酔いが覚めたような意識の中に、貴重な時間を浪費してきた怠惰な自分への後悔が濁流のように注ぎ込まれていく。
『せめて次のお仕事が決まるまでには、心を入れ替えて真面目に道場で汗を流して少しでも強くなろう。そう、全ては自分が生き残っていくためなんだから』
タカシが初心を思い出させてくれた。初心を見失うのがあまりにも早すぎたエンだったが、今ならまだ間に合うと、自分に言い聞かせて気持ちを落ち着かせる。
こうしてエンが自らの修業への姿勢を悔い改めたそのとき
「おうエン、こんな所にいたのか。今日、お前の部屋に行ったんだぞ」
とつぜん声をかけてきたのは、とある労務局の職員だった。彼は忍たちに労務局からの伝言や呼び出しを伝えることを役目としている人物である。
「丁度いいからここで伝えておくぞ。明後日の正午から労務局で案件の説明があるから、お前も来い。 案件の暗号名は【ものぐさな物の怪】だ。 伝えたからな! あとで酔ってたから憶えてないとか言うのは無しな」
そう伝えると職員は、連れのいる別のテーブル席に座った。ほんとうに偶然、ここでエンを見つけたようだ。
「くそぉ…… 人が気分良く呑んでるときに、早口言葉みたいな暗号名を言いやがって……」
つい今しがた更生したエンに修業の期間は与えられぬまま、こうして新たな案件の紹介が組まれた。碗に残った酒を一気にあおったエンの口から思わず言葉が漏れる。
「俺、今度こそ死ぬかもしれない……」
「ま…… まぁ、頑張れよな」
エンの悲壮なつぶやきに憐れさが滲み出ていたのか、この晩の酒代はタカシが奢ってくれた。




