其の三 娘の父
町からそう遠くない小さな村の中に、その道場は在った。
美濃国は山国なのでどこも斜面が多いのだが、この村の中には広く平らな一画があり、そこに道場は在った。ユナの家族が暮らすのであろう母屋が併設されていて、さらにもう一棟の何か判らない建物も道場の隣に建てられている。それ以外は、貴重な平地が贅沢にも雑草の生えた空き地となっていた。
傍の井戸で足を洗い、いざ道場の前へと立ったエンだったが、中からは気合いの込もった叫びや武器のぶつかる音といったものは聞こえてはこなかった。
「じゃあ、紹介するからついてきて」
ユナに連れられて道場の中に入った。
もしかすると道場には誰もいないのではないかと思っていたが、入って見ると意外にも十人に近い人数がいた。エンにとって、初めて立ち入る道場は物珍しい場所なのたが、むしろ道場にいる人たちの方が、みんな手を止めて好奇の目でエンを見てくる。
「良かった、ちょうど道場にいたね」
ユナは、道場の奥に座って書物を読んでいる人物の方へ進んでいった。
「お父さん、紹介したい人がいるの」
お父さんと言うくらいなので、この人がユナの父親であり、道場主でもある人物なのだろう。ユナの声に彼は読書のためにうつむいていた顔を上げると、エンと目が合った。そのまま一瞬固まったように動かなかったが、目を見開くと大きな声で言った。
「ユナが男を連れてきたか!」
── !? これは勘違いされてないか?
道場主は立ち上がった。四角い顔にがっしりとした体格だが、背はそれほど高くない。そんな道場の主に、エンは何よりもまず挨拶をした。
「エンといいます。よろしくお願いします」
「ユナの父親のユデと申す。 いや、意外だったよ。姉妹の中でもユナがこんなにも早く、男を連れてくるなんてな」
── やはりこれは勘違いされていませんか?
もしも誤解されているのなら早く解いておかねばならないが、第一印象が大切だと思っているだけに、迂闊な話はできない。
『……いや、待てよ。可愛い娘が男を連れてきたら烈火の如く怒るのが、娘の男と父親のファーストコンタクトだと聞いたことがある。それにしては、今のこの人からは怒りを感じない。だとすると、俺の考えすぎなのか。
もしも娘の男だという勘違いなどされてもいないのに、「俺は娘さんの男ではありません」なんて言ってしまうと、俺は自意識過剰な奴だと思われて、第一印象が悪くなってしまう。あぶないところだった』
「親としても、道場主としても嬉しいぞ」
── どっちだ! 親としてなのか、道場主としてなのかは、ぜんぜん違うだろ。
「しかし何も言うまい。ユナの見初めた男であるならば、間違いはなかろう。どうだエン殿、家族となる縁だ、少し語らわ・・」
── やはり、勘違いされていた! しかも異例のとんとん拍子で話が進もうとしている。
「いや、あの…… 先生、俺は…… そうではなくて、道場の見学に来た者なんですけど……」
もはや男の入門希望者が来る可能性など、完全に想定から外していた道場主のユデは、またしても頭の中での事態の整理のために固まった。
「……なんと、まことか!? ……だが、お主は男にしか見えぬのだが、正気なのか?」
「お父さん!」
さすがに父の不適切な発言に、ユナが叱った。
「あ… いや、申し訳ない。なにぶん初めてのことなので、驚いてしまった。ユナ、この御仁をどこから連れてきたのだ」
「お仕事仲間だよ。このあいだのお仕事で一緒の組になって知り合ったの。ほら、はじめて鉄砲を使って、騎兵を倒した人の話をしたでしょ。その人だよ」
「なんと!? お主であったか! 娘の命を救ってくれたことは聞いておる。礼を言わせてくれ」
話が早いというか都合が良いというか、この状況はエンという人間を事前にユナが紹介してくれていたようなものだろう。しかも、ずいぶんと美化しての紹介であったため、道場の見学をお願いする立場のエンの方が逆に頭を下げられている。
「いやいや、助けられたのはこちらです。ユナさんがいなかったら、組は全滅していました」
「エンくんは入門する道場を探してるんだけど、わたしがそのお仕事の時に、「うちが道場をやってる」って言ったのを憶えててくれてね、訪ねてくれたのよ」
「……そ、そうか……」
── たぶんこの先生は今、ものすごく感動している。
笑顔とも泣き顔ともつかない、アジのある表情になっている。
前回のお仕事でのいきさつがユナから美談として吹き込まれていたこともあって、道場主からは歓迎ムードが漂っている。
そうしてエンは、好きなだけ道場を見ていってくれとのお墨付きを得たのだった。




