其の四 領境付近
アツミ領内、むしろ田との領境付近。
林の中に忍たちがたむろしている。
忍たちがここに集結して、すでに三日目であった。忍たちは声がかかればすぐに集まれるよう、日中はこの辺りに待機して過ごす。そして何事もなく日が暮れたならば、夜間はみな何処かへと散ってゆき、寝食は各自の裁量で自由に行っていた。
エンはというと、同じ組の一員となったトウに声をかけ、ほとんどの時間を彼と一緒に過ごしていた。
トウは性格の穏やかな男で、よく通る声を持っていた。けっして地声が大きいわけではないのだが、発した言葉は不思議と遠くまで、はっきりと届くのだ。
そのトウが聞かせてくれた、これまで彼の経験してきたお仕事は、やはり通る声を活かしたものが多く、中には面白いものがいくつかあった。
例えば、反乱を起こした農民たちが立て籠もる砦の近くへと潜入したトウは、夜間に休息を取ろうとする農民たちに聞こえるように夜な夜な気味の悪い歌を歌っては、彼らの戦意を削いだというお仕事の話がエンのお気に入りだ。
その他にも、降伏勧告なんてお仕事も面白かった。
その名の通り、小城の前に立って城兵に降伏勧告を行ったというものだが、もちろんトウが叫ぶ勧告の内容は、傍にいる雇い主が言ったことを拡声しているだけだった。しかし、勧告相手の城兵たちからは、トウに向けて口々に罵声が飛んできたのだそうだ。城兵にしてみれば、トウが発する声しか聞こえてこないのだからそれも仕方ないのだが、城兵の罵声の中にはトウの見た目への罵りまで混ざっていて、閉口したそうだ。
門が開いたらぶん殴ってやろうと、特に腹立たしい悪口を飛ばしてくる者の顔を憶えたが、遂に門は開かれることはなくお仕事は終わったのだという。
「皆の衆」
「ん?」
とつぜんの慣れない呼ばれ方に固まるエン。そっと声の方を向くと、組長のスイコが立っていた。
「すぐにあの小屋に集まってもらいたい。全体会議を行うそうだ」
呼ばれて集まった小屋では、里の職員であるトトキとオノ、そして忍全員が木製の机を囲むように立った。その他、見慣れない侍が一人、壁ぎわに立っている。
忍たちが林で待機している間にも、このトトキとオノはアツミ氏の幹部と会合を行い、軍の主な作戦と忍への依頼内容を詰めていた。そしてこれは、決定内容を忍たちに伝えるための連絡会議というわけだ。ただし、両者の認識の齟齬から間違った連絡を行ってはいけないので、アツミ氏側から一人、お目付役の侍が参加しているというわけだ。
話が外に漏れないように窓は閉めきられ、いくつかの灯皿が置かれただけの決して明るくはない小屋の中。
ここに多くの人が入り、動物油の灯りは悪臭を放っている。不快な臭いの混ざり合うあまりの空気の悪さに、ユナなどはあからさまに嫌な顔をしている。
そんな即席で創造されたこの世の地獄で、オノが話を始めた。
「まずは此度の戦の説明をします。 目標は、むしろ田にてモトス勢を叩くこと!」
木製の台の上に地図が広げられた。むしろ田の地図なのだろう。
「こちらが軍を出せば、モトス家も反応してすぐに軍を出してきます。 むしろ田ではアツミ軍が戦略的優位に事を進めていくために、三カ所の地点をいち早く押さえてしまいたいと考えています」
オノは、地図の右端にあたる現在地から左へと指でなぞり、空白の場所で指を止めて言った。
「第一にこの東の平野。 まずはここを獲って軍を集結、本陣を築きます」
オノは地図の上に目印の木片を置いて説明を続ける。
「第二に中央付近の台地と、中央北寄りに在る丘。この二カ所の要衝を押さえ、一方を敵陣へ進攻するための橋頭堡とし、もう一方を囮と牽制に使います」
また地図上の二カ所に木片が置かれた。
「どちらが橋頭堡でどちらが囮なのかは、アツミ勢が本陣を構築して、そこから前軍が出陣するときまで機密事項として伏せられるそうです。 もちろん私も知りません」
そう言ってオノが、壁にもたれるように立つアツミの目付へと顔を向けると、目付は黙ってうなずいた。
この作戦を遂行するのは、基本的には侍たち兵士である。忍は戦闘以外の面で、サポートすることになる。
戦の説明が終わると、ついに濃武の里が組織した忍の各組へと指示が下された。伝令や索敵を命じられる組が多い中、エンたちスイコ組は中央北寄りの丘の拠点確保を命じられた。これは明らかに重要任務である。鷹級のスイコが居るための抜擢なのだろう。
『しかし鷹級というのは、初従軍の半分素人のような組員たちを引率しながら、そのような重要任務も果たせるほどの抜けた実力なのだろうか』
いまだ半信半疑なエンの心をよそに、話は進んでゆく。
軍隊というのは装備の重さや動きにくさ、隊列を組んだ移動や資材の搬送などのため、行軍速度は決して速くない。
エンたちの任務となる拠点確保とは、速度の遅い軍隊より先行して移動し、戦に有利となる地点を押さえる。その上で、できる限り敵方の足止めを行いながら、味方の軍の到着を待ってその地を引き渡すというお仕事である。
ただし近年の戦においては、軍が拠点確保の忍を派遣することは常識化しているため、敵味方の軍に先駆けて忍がぶつかる拠点確保は「忍の小競り合いの場」ともいわれている。
夜明けが近く、空が白みだした頃にアツミ軍はむしろ田との領境を越えた。スイコ組も侍たちの軍勢に混ざって移動した。
アツミ軍が第一目標である本陣を置くための平野へと到達したときは、まだ朝であった。ここはまだ、むしろ田でもアツミ領に近く、モトス勢に後れをとる事はなかった。
最初に到着したアツミ前軍が前面に柵を立てて築陣の準備をしつつ、ほどなく到着するはずの中軍を待つ。中軍が到着すれば、前軍はむしろ田中央部に橋頭堡を築くべく出陣し、中軍は左右に柵を立てつつ後軍を待つという段取りとなっている。
到着して休む間もなく、前軍の兵たちは丸太や木槌を抱えて慌ただしく動き回っている。 そんな喧騒の中でエンたちは濃武の里のトトキに呼ばれた。
「それでは、みなさんには予定通り出発してもらいます。トマリ組の目標は中央の台地、スイコ組の目標は北部の丘、残り二組はそれぞれ索敵と情報収集です。 味方の前軍が通るルートは憶えてますね、もしも各組の作戦が上手くいかずに退く場合は、このルート上を進んでいる前軍に必ず状況を知らせるようにしてください。それでは、よろしくお願いします」
そうして、拠点確保を担当するトマリとスイコの二組には、最低限の資材とそれを運ぶための馬一頭が支給された。
エンたちは柵作りに精を出す兵や物資を避けながら、本陣の外へと出て行く。そんな柵を作る兵士の中に、ここまでの道中、忍の集団を護衛するように傍を歩いてくれていた兵士がいた。彼は出立しようとしているエンたちに気付いて声をかけてくれた。
「おめぇら、気をつけて行ってきな」
「ありがとう。 その柵、さっさと作っちゃって、早く来てね」
「ははは、おう、それまで死ぬなよ」
気の良い兵士は、力仕事のために上半身をはだけたまま、手を振って見送ってくれた。
こうして雲一つない夏の空の下、スイコ組の五人は制圧する拠点を目指して出発した。