其の拾一 すべてにおさらば
美濃に寒風が吹き始め、山々の葉を空へと舞わせ始めた頃、生まれ育った濃武の里との別れの日がきた。タチバナに別れの挨拶をし、離職の手続きを終えて労務局を出たエンの前に見知った顔が現れた。
「ヴぇぇぇ、ぜんぱいぃぃぃ」
涙で目を腫らしたシノが鼻水も拭かずに立っている。以前にも見たこのシノの状況にエンはデジャヴを感じる。
「またか…… 今度は何だ?」
エンがそう尋ねると、シノはひくつきながら返事をする。
「ヴぅ……アダシのぜいで……ック、ぜんぱいが出ていっで……ウェ」
エンは里を離れることについては遊好館と労務局の者にしか告げていなかった。ところが、流石というべきか、シノはそれを噂としてどこかで聞きつけたらしい。まさかシノは、情報源として労務局員にまでツテを持っているのではないだろうかと勘ぐってしまう。
「おいおい、勘違いするな。俺は自分の意思で里を出ていくんだ。お前のせいじゃないんだからな」
「でも……」
エンは懐から手拭いを取り出すと、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃなシノに渡した。シノは先に涙を拭き、続けてチーンと鼻をかむと、鼻に手拭いをあてたままエンの顔を見る。そんなシノの視線から、エンも前回の同じような場面でのやり取りを思い出した。
「返さなくていいからな。持って帰って勝手に処分してくれ」
「そうですか…… じゃあいただいておきます」
とりあえず伝えたい気持ちを言えたからか、シノは少しだけ落ち着いたように見える。
「先輩がこの里でお仕事を続けられるようにお手伝いするって約束してついて行ったのに、アタシ…… ぜんぜん役に立てなくって……」
シノは先の丹波攻めのお仕事にて、目立った活躍もなく終わってしまったことを気にしているようだ。しかし、移動と戦闘の連続だったあのお仕事の中でシノに奮闘しろというのは酷な話である。そもそも戦闘要員として連れて行ったわけでもないのだから。
「お前の得意なことを活かせるように役割を与えられなかったのは俺だ」
「アタシの得意なこと?」
「そうさ。俺が徳川の忍を殺った時も、バジクが掟破りの同士討ちを仕掛けた時も、お前は現場に居合わせて一部始終を目撃している。そんな悪運は身に付けたくて得られるもんじゃない。ふだんの噂話の聞きつけっぷりも普通じゃない」
「それって…… 貶してます?」
「いや、褒めてるんだよ。最初は軽い新人だと舐めてたんだけどな。でも、お前の行動を見ているうちに分かったよ、間違いなくお前には諜報の素質がある。その能力で身を立てれば、これからも忍としてやっていけると思うぜ」
エンに謝ることが目的だったので、ここで意外にも聞かされた先輩の忍からの前向きな評価にシノは感激した。
もう若手といわれる歳でもなくなってきている。実際、先のお仕事で活躍したカンなどは後輩にあたる。そんな後輩の的確な判断や深い考察を目の当たりにするたびに、能力の差を思い知って心が沈んだ。しかしこの先輩は、能力の差は得意の違いだと言った。その上で、シノに進むべき方向性をも示してくれたのだ。
シノは胸が熱くなった。
「センパァァァイ」
思わずシノはエンに向かって跳ねるように抱き付きにいったが、エンはそれをヒョイと避けた。勢い余ったシノが塀にぶつけた突き指をさすりながら、『信じられない』という目でエンを見る。そんなシノの視線を受けながら、エンは微笑みながら言った。
「お前はニコニコしていれば、愛嬌があって皆が助けてくれる。だから泣くな」
エンはかるくシノの頭をポンポンとたたき、小さく手を振って別れた。エンとシノの関係はまさに『くされ縁』である。ならばシノには泣かれて里を去るより、このように軽く別れるくらいが丁度いい。
エンは長らく引き籠もった寮を引き払った。引き払うといっても、貴重品だけを持って部屋を明け渡しただけである。大家には次の入居者が使える物があれば使ってほしい、不要な物は捨ててくれと伝えている。
これで見納めとばかりに里の様子を目に焼き付けると、エンはふり返ってけもの道へと入っていった。枝をかき分けて峠道の方へ抜けると里への玄関口となっている茶屋へと到る。客のいない茶屋にサヨがいた。
「もう、いくのね…… エン」
旅装で里から出てきたエンを見て、サヨが悲しそうな表情を見せた。サヨはエンが伊賀へと移籍することを知る一人である。
「おいで」と、エンを招き寄せたサヨは、エンの頭を撫でようとしたが、弟のようなエンの背がすっかり自分よりも高くなっていることに感慨深さが増したようで言葉を詰まらせた。
そんなサヨにエンから抱き付いた。サヨもエンの腰に腕を回して抱きしめる。
「ごめんね、サヨちゃん……」
「なにも謝ることはないわ。出世したんだと思って行っといで」
そういって励ますサヨの目からは涙が溢れている。二年半前に里から逃がして行方不明となったエンが半年前に帰ってきてくれた。また茶屋の軒先にエンが座っている日々が始まるのだと思った。
しかし、そうはならなかった。里内でエンに悪評が立っていたからだ。悪名を背負ったエンは店の評判に関わると、滅多に茶屋へ顔を出すことはなかった。
『あの日、徳川の忍に手を出す前に、アタシがエンを止めることができていれば……』
これまで何度も考えた後悔。やがてエンが里を去ると知ったときも、そんな自分の力不足のせいでエンを失うのだと自虐的な思いが湧いた。もちろんサヨに責任など無いのだが、それだけ弟のようなエンを可愛がっていたということだろう。
距離が離れてお互いの姿が小さく見えるようになると、二人とも大きく手を振って別れた。
道端に朽ちた柵の残骸あった。いつだったかタチバナに教わった憶えがある。これはかつての関所の跡で、この先は近江国だと。これまた見納めになるかもしれないと、エンは生まれ故郷の美濃の方をふり返った。
『・・・・・・』
相変わらず、うんざりするほどの数の木が見えるだけだった。どうもエンは、土地に思い入れを持つタイプではないらしい。
これにてエンは、これまで知り合ってきた全ての人との繋がりを失った。この先、エンが伊賀で細々と忍のお仕事を続けようとも、このまま野垂れ死のうとも、誰もエンの消息に触れることは無い、まさに天涯孤独。そんな他者との繋がりが皆無である寂しさを感じた。以前は美しく見えた琵琶湖の水面の輝きも、味気なく映る。
しかし、エンという人間は、これで心が壊れるほど繊細でもない。抱えていたもの全てを手離した今、もう失うものは無い。そして、エンの両の手は空いているのだ。これから沢山のものを抱えることができる。このさき確実に巡ってくる人との出会い。それが良い出会いであることを願うばかりだった。
まもなく、伊賀忍者エンが誕生する。
美濃から伊賀へ舞台を変えて、これからもエンの忍のお仕事は続いてゆく。
第九章 ── 完 ──