其の拾 待ち人来たらず
エンたち遊好館が滝田道場を相手に激闘を演じて観衆を沸かせていた頃、同じ広場に設定されたもう一つの試合場にて、明練館が真影道場を破っていた。明練館の選手にはもう何年も土が付いておらず、観衆もこの全勝に驚く者はいなかった。
遊好館の正面に陣取っていた滝田道場は敗北によって座から去り、替わって早々に勝利を決めて勝ち上がっていた明練館の面々がやってきてその座についた。明練館は門下生全員が黒い道衣を身に付けている。
座の中央の床机に座った明練館の館長とその隣のフクウラという塾頭、彼らは先日の顔合わせで見知っている。その他は誰が選手で誰が補欠なのかも判らないが、全員が揃った濃い衣装で威圧されると、全員が強者に見えてくる。
「奴らあんな格好をしてるもんだから全員が強そうに見えるけども、あいつらは本当に全員強いからな。もぉビビっても手遅れだぞぉ。覚悟を決めろよぉ」
実力差があることは分かっているのだから、いまさら威圧して優位に見せたり、気圧されて卑屈になることに意味は無い。自分にできることをやって、あとは相手の一流の剣を楽しもう。そんな意味を込めてエンなりの言葉で皆を励ますとこういう表現になったのだが、どうにも周囲の者の胸には染みなかったようで、女子たちに「キッ!」と睨まれただけだった。
「双方、準備ができたなら始めようかの。一人目は出てきとくれ」
宮司にそう促されると、明練館からはモロズミという者、そして遊好館のユナの両先鋒が試合場の中央へと進み出た。
無の表情で静かに構えるモロズミ。一方のユナは相変わらずニコニコとしており、強き者と戦えることが嬉しそうだ。
宮司の手が下ろされた。ここに美濃一の強豪の明練館と今は無名の遊好館の戦いの幕が降りた。観衆の誰もが明練館の勝利を確信している。
ユナとモロズミ、お互いの振り下ろした剣がぶつかった。つばぜり合いとなって押し合う。見た目に寄らず力が強いのか、それとも体幹がしっかりしているのか、男相手の力勝負でもユナは押し負けていない。
やがてどちらも焦れたのか、二人が同時に腕をつき出すと弾かれるように後ろに跳んで距離とった……… はずだったが、モロズミが着地するときには既にユナが目前まで踏み込んできていた。
「なんっ!?」
身は低く腰を曲げ、風が吹き抜けるような勢いで踏み込んだユナがモロズミの懐に潜り込むと同時に抜き打ちで刀を切り上げた。摸擬刀ながらも一撃を入れられた脇腹には肋が折れたような痛みが走った。思わず「うぐっ」というモロズミの苦しげな呻き声がもれた。
「それまで!」と、宮司の手が上がる。
「おおっ!?」
会場全体が大いにザワついた。ここ数年間、誰も一度も負けていなかった明練館の先鋒が敗れた。それも女子が力で斬り伏せたのだ。
恐らくこの金星は噂に乗る。そしてこの金星をさらに大きなものにできれば、遊好館の勇名は美濃中を駆け回るだろう。遊好館の売名に燃えるエンは、ここが今日の勝負所だと確信し、手を挙げて直訴する。
「次、俺に行かせてください! シカさん、順番替わってよ」
「え、ええ…… そりゃあ構わないけど」
遊好館で順番にこだわりを持つのはアゲハとユナだけである。シカにはエンの申し出を断る理由も無かった。
じつは試合会場への出発前、エンは館長のユデと二人で話す機会を設けていた。そこでエンは、こう切り出した。
「先生、今回の奉納試合にウチが参加することにはですね、二つの狙いがあります」
「ほう、それは?」
「まずは遊好館の名を美濃の人間に知らしめることです。名も知らぬでは、門下生は集まりませんからね」
「うむ、まぁそうじゃのう」
「ですが、これについては、今日の奉納試合に参加するだけで、我らの知名度は各段に上がります」
なにせ多数の観衆が集まる由緒ある大会にて、美濃国の四大道場と呼ばれる中に遊好館が割って入って戦うのだ。それだけでも多大な宣伝効果が見込める。せいぜい派手に暴れて、人々の記憶に遊好館を焼き付けてやればいい。
「そして、もう一つは」
「もう一つは?」
「男の俺が試合に出て、勝利を収めることです」
「ふむ。さすれば、どうなる?」
「決して遊好館は女子の手習いのための道場ではない。少数精鋭、男子の門下生もちゃんと居て、四大道場に匹敵する実力を持っていると世に知らしめるのです」
エンが遊好館に入門したとき、ついに男が入門したと、ユデはずいぶんと喜んでくれた。しかし、あれから六年、新たな男子は一人も入門していない。しかも今、唯一の男子ことエンが遊好館を抜けようとしているのだ。男女共学の遊好館をアピールして男子門下生を獲得し、これまでユデから受けた恩を返すにはここしかないのだ。
「おぬしの想いはよく分かった。正直なところ、とんでもない舞台に引っ張り上げられたと身がすくむ思いだったのだが、そこまで考えて動いてくれていたと知った今では、嬉しさが緊張を凌駕したよ。それで…… おぬしはそのような強敵に勝算があるのか?」
「ありません!」
きっぱりと言い切った。
「ありませんが、頑張るという……決意表明です」
「お、おぉ…… そうか……」
そんな経緯もあり、エンはなんとしても勝利を欲していた。
次鋒となったエンが颯爽と進み出る。先鋒のユナが機先を制し、明練館の鉄壁に風穴をあけた。盤石の布陣の出鼻をくじかれ、敵方はさぞかし驚いていることだろう。
『ならば、俺がたたみかけてやる』
蒸れる防具の暑さを冷ますように涼やかな風が吹き抜ける。明練館の次鋒ホリが静かに摸擬刀を構えた。それに合わせるように、エンも戦闘姿勢をとった。その顔は野心に満ちている。
試合の開始を告げる宮司の右手が下りる瞬間、エンはこれまで発揮したことのないほどの瞬発力で、明練館のホリに突っ込んでいった。
──────
陽はまだ高いままだが、風はいつの間にか無くなっていた。名門明練館の手にかかり、まさに瞬殺といえる早さで葬られた遊好館の四人が、呆けて座り込んでいる。そんな四人を生物ではなく物と認識したのだろうか、飛来したトンボがエンの頭にとまった。
エンには自分が負けたときの記憶が無い。試合の開始早々に突っ込んで頭を打たれた時点で気を失ったからだ。気が付いたときにはマチコの膝枕の上で、手拭いでひらひらと顔を扇がれていた。その時にはもう、三番手のシカに四番手トセ、そしてラスボスのアゲハまでもがすでに粉砕された後だった。
「きいいいぃぃぃ!」
とつぜんアゲハが奇声を発した。もう何度か間を置いては、アゲハは思い出したかのように悔しさを奇声に変えて吐き出していた。塾頭でありながら全敗したことがよほど悲しいのだろうと周囲は察したが、真実は少々異なる。アゲハが敗北を喫したその場で、対戦相手だった敵方の塾頭フクウラがアゲハにこう言ったのだ。
「安心しろ、どことやってもこのようなものだ」
フクウラの善意から出た言葉かもしれないが、そう慰められたことがあまりにも悔しかったらしい。この日以降、アゲハは取り憑かれたように鉄扇ではなく木刀を振って、いつ巡ってくるアテも無い復讐の機会を狙うことになる。
それからふた月が経過した。四大道場の一角を倒した遊好館の名は広まり、入門希望者があとを絶たなくなる…… そう算段を立てていたエンの期待は虚しく、遊好館の門をたたく者は現れなかった。
「キミのアテは外れたみたいだね」
期待しては誰も来ず、それを繰り返す毎日に疲れたエンは、もはやマチコに返す言葉も気力も無い。
すると、
「入門希望のかたですよぉ」
道場の入口の方から門下生の声が聞こえた。とうとう現れたかと、エンとマチコも声のもとへ駆けつけた。しかし、そこに立っていたのはどう見ても女性、しかもエンはその女子に見覚えがある。最強道場である明練館塾頭の妹、サキだった。
あれほど明練館の兄を慕っていたサキだったが、さきの遊好館の女子たちの戦いの痛快さにすっかり魅了され、兄と袂を分かって遊好館の門をたたいたのだ。
「・・・・・」
心底がっかりしたエンは声にならない。剣を志す男子がこぞって遊好館の門を叩く、または入門する道場を探す男子に四大道場以外の選択肢を与える流れを作ろうと知恵を絞り、大きく立ち回った此度のエンだったが、入門を希望してやってきたのは、またしても女子だったのだ。
あれだけ頑張っても何も変わらなかったのがショックだったのだろう、エンは力無くサキの前に寄っていって尋ねた。
「なぁお前、そう見えて本当は男…… ってことはないか?」
「あんたね、ボコボコにして挽肉にするわよ」
なかなか思い描いた通りには事が運ばないのが世の常というものらしい。エンの奮闘で得たものは、エンを挽肉にする女子だけだった。
それから数日の後、エンが美濃を離れることをユデは門下生に伝えた。そしてエンが帰ることのできる場所として、遊好館はこれからもエンを除名にはしないと明言した。
門下生たちは皆、寂しくなるとは言ってはくれたが、つい先日まで二年も行方をくらましていたエンの旅立ちに特別な情は湧かない様子だった。
道場をあとにしたエンはマチコと共に家路につく。これは道場に通ううちにいつの間にか習慣となったもので、エンの復帰後も二年の時が空いたにもかかわらず、二人は示し合わせるでもなく一緒に道場を出ていた。といっても、マチコの住処は道場と同じ村の外れ。共に歩く時間は長くはない。
「キミは何かと幸薄いんだから、気をつけるんだよ」
そう言うマチコの目は涙で潤んでいるように見えた。門下生の中でもマチコは特にエンと過ごす時間が長かった。道場の隅で内職にいそしむマチコの傍がエンの特等席であったし、二人で宝探しなどといった道楽の旅にまで出掛けたこともある。それだけに他の門下生よりもエンに対する思いは強いのかもしれない。
「ふふ、やっぱマチさんだけは俺を心配してくれるね。この先もお互い行き遅れそうだし、老後は例のお宝で共同生活でもしますかね」
「もぅ!」
茶化したエンの胸をマチコがドンと突いて駆け去っていった。
「さようなら、マチさん……」
そう呟いてマチコの背を見送るエン。彼女の剛力で突かれた胸は咳き込まずに立てているのが不思議なほど、ズキズキと痛みを発していた。