其の六 這々の体で逃げ帰る
敵の足は完全に止まった。敵勢は草原に陣を敷いたまま、森道に踏み入ろうとはしなくなった。緒戦において森道で先鋒を叩かれた上に将までが討たれてしまい、敵陣内にはこの援軍は割に合わないという空気が漂ってしまっていた。ダイが射殺した将は領主の親族だったという噂もあった。
そうしているうちに明智方の砦が完成してしまい、もはや敵勢は形式だけの援軍と化していた。戦線は膠着し、明智軍が城を囲んだまま新年を迎えた。
森の中。森道の入口から少し北東側に位置する場所は地面が隆起していて、草原の監視にうってつけのポイントが存在する。ここに今、エンが座っていた。
今日も敵陣に動きは無い。遠筒を通して見える兵たちの動きには緊張感が失われており、攻めるという戦の目的すら忘れているようである。そんなものを毎日見せられていれば、監視者の側からも緊張感は抜けてゆくもので、エンも先ほどから敵とではなく手に持つ硬い餅との格闘を続けていた。この餅、上下の奥歯で挟んでグッと力をこめたが、ヒビの一つも入らない。もはや餅の前に歯が割れる恐怖しか湧かない。
『くそっ…… 硬てぇなこの餅…… 石なんじゃないのか? これ』
そう考えると、色も形も石にしかみえなくなってきた。多少なりとも新年らしさをと、兵たちに餅が支給されたのは昨日のこと。それを今日の監視のお仕事中に食べようと残しておいたものだが、その硬度から餅はすでに人の食べ物ではなくなっているらしい。エンは諦めて餅を懐にしまい、ゴロンと仰向けに寝転んだ。
『この世の石って、全て元は餅だったんじゃないのか?』
そんなことを思いながら木の葉に半分覆われた空を見つめたとき、その視界に人の顔が入ってきた。
「うぉっ!? ……ユナか」
ユナは特に用があるわけでもないが、退屈なので気晴らしにエンのところへとやって来たらしい。二人はしばらく、草原で春を待つ越冬集団のような敵陣を並んで眺めた。そしてエンが先に口を開いた。
「お前、二年見ていなかった間に、さらに強くなっていたな」
「え、ホント? えへへ…… 嬉しいな」
強さを褒められるのを最も喜ぶところは相変わらずなようだ。
「ダイなんてさ、お前が目の前で敵を斬り伏せて以来、お前を見る目が明らかに変わったぞ。あの好意的な目に気付いているか?」
ユナは驚いて目を丸くしている。武士が忍に好意を寄せるなど、ユナはにわかに信じられない。またエンのホラ話が始まったのだと思ったユナは軽く流すように話を切り換える。
「でも…… エンくんも何だか雰囲気が変わったよ」
「え? そうかな。自分じゃあ分からないな。うんん…… 里で目の敵にされて、やさぐれちまったかな」
「そうなのかな…… いや、もっとこう、何だか落ち着いたというか、小者感が無くなったというか……」
今の自分を褒められているというよりも、かつての自分を貶されているように聞こえるから不思議だ。
しかしその時、そんな二人の和やかな会話を打ち破るように、ダイが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「エン、 一大事だぁぁ!」
傍まで駆けてきたダイはハァハァと切れた息を整えながら、エンの横にいるのがユナだと気付いた。
「ユナ殿もいましたか。いや、ちょうどよい」
ほっこりとした表情でユナに見とれてしばらく固まったダイだったが、ハッと我に返って再び慌てだす。要領を得ないエンとユナは黙ってダイの次の言葉を待っている。
「退却だ。すぐに発って京まで逃げるぞ」
「逃げる? どういう事だ?」
「波多野が裏切った。挟み打ちの憂き目に遭っている本隊は血路を開いて京へ帰還するらしい。我らも急いで発たねば、取り残されて孤立してしまうだろう。エンは里の忍を集めて、取り急ぎ作兵衛さまの所へ!」
波多野は丹波国内の領主の一人で、これまで岐阜の大殿へと恭順してきた。つまり、此度の丹波攻めでは明智軍にとっては現地の強力な味方だったのだ。それが寝返ったのだから、もう明智勢は丹波攻めどころではない。一転して絶体絶命の危機となった。
サクは陣頭に立って撤退準備の指揮を執っていた。そこにエンがやってきた。
「来たか、エン」
「そりゃあお招きにあずかれば、参上するさ」
「状況は聞いただろ? すぐに逃げ出さねばならぬ」
現在の明智本隊の状況が判らないが、もしもその本隊の撤退が順調であればあるほど、サク隊は丹波の奥深くに置いていかれることになり、孤立を深めてしまう。
「我らは軍を強行し、敵と抗戦しつつ退いているであろう本隊に合流する」
「分かった。俺たちもなんとかして付いてゆくよ」
「いや、それについては忍全員に儂から伝えたいことがある。仲間は連れてきているか?」
「え? うん、外で待たせてるけど……」
サクは撤退準備で忙しい中、濃武の里の忍たちと顔をつきあわせて話した。
「おめぇ達は軍についてくる必要はない。独自に行動して京を目指せ」
「どういうことです?」
「軍の中におめぇ達がいると、どうしても忍として働いてもらうことになるだろう。だが、仮に偵察の結果が危険であろうが危険でなかろうが、恐らく我らには強行突破という選択肢しかない。ましてや、おめぇ達を四方に派遣中という状況であっても、前進すべきと判断すれば、部隊はおめぇ達を捨て置いて前進せねばならん」
ほぼ役に立てぬ上に、命の危険は高い。撤退戦における忍の存在はそのようにとうてい割の合わぬものであり、サクはそんなものにエンたちを巻き込まぬよう、事前にエンたちを部隊から離脱させようとしているのだ。そんなサクの気遣いはバジクにも感じとることはできたようで、「お心遣い、感謝いたします」と、我の強いこの男も素直に謝辞を述べた。
「まぁ、単独で動いたところでここが敵地であることに変わりはない。どちらが安全かなど判らぬのだから、せいぜい油断をせぬ事だ」
軍から離れて目立たぬように丹波を脱出する方が安全であることは、ここの誰もが判っていることだ。このような緊急事態に際してなお他者に気を回せるサクは、将として武に一辺倒なだけではなく、懐の深さを持ち合わせるようになってきていた。
「死ぬなよ。さらばだ」
最後にそう言って持ち場へと戻っていったサクの言葉は、忍たち全員に向けられたものなのか、それともエンに向けられたものだったのか。ともかく、濃武の忍たちはここでサク隊を離れ、独自に京を目指すことになった。
「どうする? 共に行くか?」
「はぁ? 寝ぼけるな! 誰がオマエなんかと行動するか!」
そのような反応が返ってくると分かっていつつも、念のためにエンはバジクに確認してみたのだったが、やはり敵地であろうと協力する気はないらしい。バジクは背を向けてさっさと歩き出した。バジクの腰巾着であるテツもエンを睨みながら足もとへ唾を吐き、バジクの後を追ってゆく。タクが慌てて付いてゆき、シンも不敵にきびすを返しその場を去っていった。
「後ろから刺してやればよかったんですよ。ほんと嫌な奴らだ」
カンが物騒なことをそそのかす。今回のお仕事において、エンが嫌がらせを受けた際に決まって怒るのはカンだった。組員の中で最も理性の利きそうなカンが最も感情を露わにするのは意外だが、エンには嬉しくもある。
「お前はいい奴だな。さぁ、俺たちも行こうか」
エンはカンの肩にポンと手を置き、組員たちを促した。忍装束を解いてさっさと旅装に着替えたエン組の四名は、今日まで守ってきた砦を出た。もう二度とこの地に戻ることは無いかもしれない。そう思いながら砦を振り返ってみたが、さほど感慨を覚えることもなく、忍たちは森の中へと消えていった。
ここ丹波国から見て京は東の方角にあたる。恐らくサク隊は草原に展開する敵を強行突破して東へ向かい、明智の本隊への合流を目指すだろう。もちろん敵の追撃も東へ向く。それではエン組どう動くべきか。危険なのは東である。話し合いの結果、黒井城の西を回り込むようにして南へと下った。そして一旦、南の国境から丹波の国外へと出て京を目指すこととなった。
景色が変わった。背後に見える、先ほどまで歩いてきた山々の緑が嘘のようなゴツゴツとした地形。硬い地面からは木はおろか草もほとんど生えていない。
「おもしろい所だね」
こんな殺風景な場所でもユナには珍しく、心躍るらしい。
「もう国境は越えたと思うんですけど」
地理や方向感覚ついてはエンも女性陣も頼りないエン組では、先導は全面的にカンに任せっきりである。そのカンがそう言うのなら、そうなのだろう。
「センパイ、あたし疲れましたぁ」
シノが休憩しようとせがむ。しかし、どう見てもここは森のような遮蔽物が少ないため、身を隠すには不向きな場所だ。
「いやいや、こんな目立つ所で言うなよ。もうちょっと我慢しろ」
そう諭してはみたが、見るからに不毛な地であるだけに現地の者でもわざわざ寄り付く者はいないのかもしれない。もっとも、この真冬に暖をとるための木も無いのではここでは野営もできない。このような場所は、さっさと通り過ぎるにかぎる。そんなことを考えて歩を速めたエンだったが、そのエンを狙ってクナイを投げた者がいた。突然飛んできたクナイはエンの頭をかすめて、傍を歩くカンの右腕に刺さった。
「痛ぇ!」
不意な激痛に、思わず声を上げてしまうカン。エン組に緊張が走る。付近に敵がいることは間違いない。だが、カンの腕に突き立ったのは矢や石ではなくクナイだ。おそらく敵は忍。すると、
「運が良い奴だな。いや、カンの運が悪いのかな?」
敵の正体を連想する必要も無くなる聞き知った声と共に、バジク組が岩陰から姿を見せた。血で赤く染まる右腕を押さえたカンが痛みをこらえながら、腹立ちをぶつける。
「バジク…… 何してくれてんだ!」
「ふん、そこのクズは、手を出すなら自分を狙えと言っていた。だから京に戻る前にここで狙うことにしたまでだ。クナイがオマエに当たったのは不幸な事故だよ。だが、それもクナイを避けたエンが悪い」
これまでバジクは、お仕事中の事故に見せかけてエンを消してやろうと目論んでいたが、その企みは成功していなかった。そんな中で巡ってきた、明智軍を離れて忍だけで行動する京への道中。これこそがその最後の機会であると意を決し、エン組をつけ狙ったのだ。さらにバジクは、ここでエン組の分断を図る。
「オマエらも本音じゃ嫌だろう? 労務局に無理やりエンの下に付けられたんだからな。今こっちへ来れば里の仇を討つ側に入れてやるぞ!」
エンがバジクたちのことを知らないように、バジクもエンの交友関係など知らないのだろう。その上、バジクは常にエンと離れて行動していたことによる情報不足。どうやらバジクは、エン組の面々のことも、不本意ながら労務局によってエンの下へと組み入れられた被害者であると考えているらしい。これがバジクの狭量さだ。想像の幅が狭いため、自分の意見に疑いが無く、その意見が周囲の総意だと思い込む。組員も止めなかった。腰巾着のテツはもちろん、何を考えているのか解らぬシン、そしてエンに個人的なわだかまりを持つタクは苦言の一つも呈さぬまま、ここまで来た。
一方のエンとて、ただ黙ってバジクの口上を聞いているわけではない。その間にもバジク組を観察し隙を探ってはいる。バジク組にはどうにも読めない男がいた。シンと名乗る男がそうだ。この男からは主張が聞こえない。エンへの恨みで動いているバジクと行動を共にしているが、本当にシンもエンを殺したいほどに恨んでいるのか。彼からは殺気は感じても怨嗟のような感情的なものは感じられないのだ。そんなシンがバジクに付き合って、禁じ手である同士討ちにまで手を染めるだろうか。
「なぁシン、お前は本当にバジクの賛同者なのか? 里の法度を破ってまで同胞を襲うのに付き合うほど、バジクとの縁は深くはないんじゃないのか?」
シンはこうしてエンに語りかけられたのは初めてのことだった。たしかに自分はエンへの恨みなど抱いてはいない。なるほどエンも、そのような者に殺されることに納得はいかないだろう。人は死に意味を求めたがるものだから。シンはニヤリと笑うと、自分の持つシンプルな意思をエンに伝える。
「オレは人を斬れるといわれたから付き合っている。ただそれだけだ」
コイツが最もあぶない奴だった。ただでさえ敵が多い中で、こんな奴にまで目を付けられたことはエンにとって不幸でしかない。すると、そんなシンの方へとユナが歩き出した。
「お、おい……」
止めてよいものか、思わずエンが声を上げる。
「なんだ、こっちに来るのはそいつだけか」
バジクはユナが鞍替えのために進み出たと思っているようだが、ユナが寝返ることはないと知っているエンにはユナの意図が判る。ユナはシンの発言に腹を立てているのだ。おおかた人を殺めることに快楽を覚えるシンが、そんな狂った心を満たすためにエンの殺害に加わっていたことが、彼女のかんに障ったのだ。戦いを好む習性でいえばユナも同じようなものだとエンは思うのだが、人は自分のことには無頓着なようで、他人のそのような態度は気に入らないらしい。
至近距離。ユナは剣を抜くと、シンに向かって斬り下ろした。しかし、シンはそんなユナの動きを読み切っていたかのように、ユナの剣を軽くかわした。
「あっ!? オマエ、何してんだ!」
慌てたのがバジクだ。自分たちがエンを襲っていたはずなのに、自分たちがユナに斬り込まれている。そんなバジクの声も虚しく、ユナは休まずシンに刀を振るうが、どれもシンには当たらない。しかしこの時、エンにだけは、ユナの剣をひょいひょいとかわしてみせるシンの体にまとわり付くような煙のようなものが見えたのだ。
── あれは気煙か!?
なぜ敵味方を合わせてシンの気煙だけが見えるのかは解らない。これまでにもエンはかつて一度だけ、気煙らしきものが見えたことがあった。相手は上忍、気煙を見ることができる者だった。その上忍がエンに向けての必殺の一撃を放つとき、エンにも気煙が、自分の胸を貫く白い線となって見えたのだった。そしていま、再びシンにだけ、渦巻くような白い気がみえているのだ。
シンの気炎が膨らまないのは、攻撃の意思が無い証しだろう。しかしシンは、まるでユナの攻撃の軌道を全て知っているかのように動き、ユナの剣は空を切るのだ。
『あいつも気煙が見えているのか…… だとすると、ユナが危ない』
シンの動きから、エンがそう悟ったときだった。
「オマエのようなクズはオレが殺してやる!」
そう吠えたバジクとテツがエンに向かってきた。
「カンは守りに徹してろ! シノも適当に逃げてな」
エンは急いで仲間にそう指示を与えると、向かってくるテツの方へ駆け出した。二方向から同時に攻撃してくる敵に対して、待ち受けるのが一番の愚策である。逃げるもしくはいち早く一方の敵に接触して各個撃破するのが戦術としては望ましい。
自分の方に向かってきたエンに焦ったテツが大振りに刀を振る。その大きな軌道は、落ち着いてあたればかわせるものである。エンはトンッと振り下ろされる刀を避けてそのままテツを素通りすると、シンと対しているユナのもとへ駆け寄った。
「ユナ、そいつの相手は俺だ!」
「嫌よ、いまアタシがやってるんだから」
ユナは攻撃の当たらないストレスからムキになっている。だが、そんなユナを誘導する方法をエンは心得ている。
「こっちは二人を相手にしていて俺には荷が重い。頼む、代わってくれ」
「……もう、仕方ないなぁ」
口ではそういっても、戦闘で頼られたのが嬉しいのだ。ユナはエンと入れ代わってバジクたちの方へ向かってくれた。ユナがいかに強くても、気煙の見える者が相手では敵わない。だがバジクとテツであれば、ユナは二人を相手にしても後れはとらないだろう。
ユナの攻撃を全て平然とかわし続け、彼女に十分な屈辱を与えた上でゆっくりとなぶり殺しにしてやろうと考えていたシンが、そのユナをみすみす手放すわけはないのだが、代わりに飛び込んできたのが標的のエンとなれば話は違う。シンは喜々としてエンと対峙した。
『気煙を見る』とは、人体から発せられる殺気を肉眼で捉えることができる能力である。人の気は普段は白い煙のようなもので、人体を薄く包むように取り巻いている。そんな人が殺気や害意を抱くと、頭を中心に取り巻く白煙が大きく立ち上って見えるようになる。さらに人が具体的な攻撃手段を思い描くと、攻撃を行う部位の白煙に変化が現れる。例えば、右手の剣で斬り掛かろうと意を決すれば右腕が、左脚で蹴ろうとすれば左脚が燃えているかのように多量の白煙を発するのだ。
気煙の見え方は人によって個人差があるらしいが、少なくともエンの目に映る気煙は、そのように真冬の露天風呂から上がった時の人体から立ち上る白い湯気のように見えていた。
また、気煙を見る能力の最大の効能が、自分へ向けられる攻撃の軌道が線となって見えることである。相手が攻撃の動作を起こすとき、その攻撃の軌道が実際の攻撃よりも一瞬早く、気煙が白い線となって目に見えるのだ。
シンの気煙に攻撃の気配は無い。ユナを相手にしていたときと同じように、相手に打たせるつもりなのだろう。エンは右手の刀で斬り掛かった。縦、横、次々と踏み込みながら斬撃を繰り出したが、シンはその全てを余裕をもってかわしてゆく。エンは右手の斬撃の中に左手からクナイを投げつける不意打ちも織りまぜてみたが、これもやはり当たらなかった。クナイを投げる前には、シンは既に回避のために射線を外しているように感じた。
『やはり、見えているんだな』
そう確信したエンは正攻法を諦めた。ここはシンの心を攻めて、彼にも動いてもらわねばならない。
「お前がすばしっこいのは分かったが、かといってお前…… 大して強くもないな」
「はぁ? 何だとキサマ」
「普通にやり合っても勝てないものだから、そうやって逃げに徹して相手を疲れさせてから襲おうってんだろ?」
シンにとっては、攻撃が一切当たらない絶望感と無力感を相手に与えてから殺してやろうという悪趣味な趣向で採っていた戦法なのだが、それが弱いから逃げに徹していると勘違いされたのでは優越どころか屈辱に転じてしまう。陳腐なエンの挑発だったが、シンには効果的だった。
「キサマ、殺してやるよ!」
シンの頭に気煙が膨らんだ。エンも右手に刀、左手にクナイを握りなおして構えると、シンの腕から白い線が伸びてエンの腕を貫いた。
── 突きがくる!?
エンが少し身をよじるとシンの繰り出す突きが右腕をかすめた。
「てっ!?」
服だけを切らせるつもりだったが、エンはそれほど器用ではない。少し腕に傷が付いた。続いて左腕へ白線が伸びてきた。「わっ」と、腕を引くことで、これも紙一重で突きを避けた。
腕を狙っているうちは、シンはまだエンを殺しにきてはいない。シンが大きく踏み込んでくるまで、エンはシンの牽制をかわし続けるしかない。それも、エンにも気煙が見えていることをシンに覚られぬように。
「ふふっ…… 避けるだけなら俺でもできる」
そんな軽口を叩いて、エンはシンを鼻で笑ってみせた。シンの殺気が明らかに増した。
「殺す!」
草木の多い森や狭い屋内など、忍というのは動きの制限される場での戦闘を強いられがちである。ゆえに忍は、突きによる攻撃を得意とする者が多い。シンにもそんな忍の習性が染みついているようで、連続で飛んでくる攻撃は突きであった。そしてついに、シンの右腕の気煙が膨れ上がった。白い線が一直線にエンの胸へと伸びてくる。
── 来た
エンを刺し殺すための踏み込んだ突きが間もなく繰り出される。
『落ち着け。きっとやれる』
エンがそう自分を勇気づけた瞬間、白線をなぞるようにシンの刀が伸びてきた。エンは白線に触れるか触れないかの紙一重で腰をひねりつつ、シンと同じように大きく踏み出して突きを放った。エンが攻撃を行おうとすれば、当然シンの側にも白線が現れる。しかし、そのときにはシンは既に攻撃姿勢に入っており、止まることはできなかった。エンは後の先を取ってのカウンターの一撃に賭けたのだ。
横からエンの戦いを目撃していたカンにはエンとシン両者の体をお互いの刀が貫いたように見えた。
「エンさん!」
だが、エンの体は無事である。一方シンは、首に受けた傷から血がスッと垂れた。……だが、浅い。シンもすんでのところで首を捻り、なんとか刀に急所を捉えられることを回避し、致命傷を避けていたのだ。
勝負がつかず、二人は飛びすさって一旦距離をとった。
「あんたにも…… 見えてるんじゃないのか?」
「何のことだ?」
とぼけてみせたが、もう警戒されている。
平凡な忍だったシンは、ある日から他人の発する気が優しく光って見えるようになった。それは体得者の多くのように、歴戦の戦いの経験と武への精進の末に体得したものではなかった。シンには単に素養があっただけなのだろうが、それがなぜかまだ未熟なシンに発現した。
『一人や二人が相手ならば負けない』
やがてそう確信すると、彼の狂暴性が芽を出した。忍ばず殺す。お仕事のスタイルもそう変化していった。そして、殺せることに快感を覚えるようになっていった。
しかし、この力がこの世で自分だけに与えられた能力であると思えるほど、シンは楽観的な人間ではない。いつか、同じ能力を持つ者と当たるのではないか。それがシンの不安となっていた。
『控えねばいけない……』そう思っていながらも、殺す快感が忘れられず控えることができない。そんな葛藤の中で生きてきたのがシンという忍である。
『マズいな…… 仕留められなかった』
エンに気煙が見えていることを相手が知らない点がエンのアドバンテージであり付け入る隙であったのだが、その隙をついた勝負の一手でしくじってしまった。エンには気煙が見える者同士での戦闘の経験が無い。自分がそのような能力を持つ自覚すら無かったのだから、当然その持たざる能力についてシミュレーションなどしたことも無い。
『まずは接近戦で押すしかないか』
そう考えたのはシンの方も同じだった。シンにとっても見える者と戦うのは初めてのことなのだ。エンより先にシンの方が突っ込んできた。
一方、バジク組の最後の一人タクは、シノを追い回していた。強い者に媚び、弱いと判定した者には強気に迫る性質のこの男は、はなから自分の相手はシノであると見定めていた。
「もぉ、しつこいなぁ。もっと強そうな人にかかって行きなよ!」
そんな悪態をつきながら逃げているシノが無傷なのは、タクの持っているシンとはまた違った意味での悪趣味な趣向による。女を追い込み、ねじ伏せるとに喜びを感じる性質を持つこの男は、シノを疲れさせて押し倒す機会を狙っているのだ。
そんなタクの脚にクナイが突き立った。
「ぎゃあああぁぁ、痛い!?」
カンが投げたクナイだ。悲鳴をあげてタクの動きが止まった。すると、それを見たシノが、仕返しとばかりに勢いよくタクを突き飛ばした。バランスを崩されたタクが突き飛ばされた先には、エンに向かって斬り掛かってゆくシンの姿があった。
いち早くエンに斬り掛かったシンの気煙が現れた。その白い軌道は、突きではなく斬撃のものだった。初めて見たその軌道にエンの反応が一瞬遅れた。
── マズい
身を引くのはもう間に合わない。こうなれば、クナイでシンの斬撃を受けることはできないか。そう考えたエンがクナイの位置を気煙の白線に合わせようとしたその時だった。シンの側方から、シノに突き飛ばされたタクがぶつかってきたのだ。
「くそおおぉぉぉ、テメェ!」
側面から激しく当たられて体勢を崩したシンが苦々しく吐き捨てたその言葉はエンにではなく、突然現れて全てをぶち壊したタクへと向けられていた。そしてそれが、シンの最後の言葉となった。エンの刃によって貫かれたシンは、そのまま一言も発することなくその場に突っ伏して事切れた。
『助かった』
エンの方の決着が付いたのを見届けて、シノが寄ってきた。シノがタクを突き飛ばしたおかげで命拾いしたことはエンにも分かっている。
「ありがとう、助かったよ」
「ふふ、アタシを連れてきておいて良かったですね」
「ははっ…… そうだな。おかげでまた命拾いしたよ」
ご満悦なシノに、エンは素直に礼を言った。そこにユナも戻ってきた。返り血で赤く染まったその姿を見れば、バジクとテツの始末に成功したことが分かる。
「相変わらず返り血まみれだな、お前」
「でも、ちゃんとやっつけてきたよ」
「ああ、ほんと頼りになるよ、ユナは」
生き残ったバジク組はあと一人、そのタクは今、エンたちの目の前で腰を抜かしたようにへたり込んでいる。カンも来たことで、エン組は完全にタクを囲む形となった。
「さて。こいつはどうするかな」
「こ、殺さないでくれ、頼む」
殺そうとして襲った者たちから返り討ちにあい、ぬけぬけと命乞いをする面の皮の厚い奴だ。
「逆の立場ならオマエは命乞いを受け入れたってのかよ」
カンが厳しく問い詰めると、タクはそれに即答する。
「もちろんです。そもそも私は、同じ里の忍が殺し合うなんてあってはならないことだと思っていたのです。ましてや命乞いする者を殺すことに賛同なんてするわけがないじゃないですか」
この男は助かるためになら躊躇なく平気で嘘がつける。ただし、それが嘘であることも相手に伝わってしまっている。おもむろにユナが刀を抜いた。そして、無表情に刃を突き出そうとするその腕をエンが掴んだ。
「おい、めちゃくちゃムカついたのは解るけど、サラッと殺そうとするのはやめろ」
「えっ、もう殺していいでしょう」
「いや、怖いって…… 頼むからお前はニコニコと突っ立っててくれ」
クズが相手とはいえ、殺すことに躊躇のないユナに閉口したエンは思わずそんなお願いをしていた。
「ひっ!? そ、そいつを近づけないでくれ」
タクにとってもユナは恐怖の対象となったようだ。エンとしてはタクを殺したくはない。バジク組が全滅してエン組は全員生還したのでは、またどんなあらぬ噂が立つとも限らない。この男は殺さずに連れ帰って、バジク組の不正の生き証人としたい。
「お前には労務局へ説明をしてもらう。嘘をつく必要はない。労務局には本当のことを言え。バジク組が俺を襲った経緯をな。その上で、お前が身を守るために何を言おうが俺の知ったことではない。バジクに無理矢理に従わされたとでも勝手に言えばいいさ」
これはエンがタクを殺さないと命の保証をしたようなものであった。カンには納得がいかない。
「またそんな…… エンさんは甘すぎますよ」
「まぁ、おかしな動きをみせたら、ユナをけしかけてやろう」
ユナをけしかけると聞いて、タクの肩がビクリと動いた。
「もう、人を犬みたいに言わないでよ」
ユナが不満そうに頬を膨らませた。
岩場を離れた一行は川を見つけて血に濡れた衣服を洗った。真冬である。洗った衣服が乾くまでは、忍装束に着替えて焚き火を囲んで過ごした。
その後は念のため町へは近づかぬようにし、野宿を重ねて京へと入った。町の者から明智勢の主立った者はすでに京へと帰還しているとの情報を得たエンたちは、すぐにサクの屋敷を訪ねた。
「エンにカン、それにおめぇ達も、無事に戻ってくれて嬉しいぞ」
バジクたちが欠けていることには気付いているはずだが、サクはそれには触れなかった。明智勢も大方は無事に帰還できたらしい。裏切った波多野は退却する明智勢に噛みつく姿勢を見せたが、明智勢が翻って鉄砲を並べ決戦の構えを漂わせると、波多野は勢いを失ったのだという。サク達はその間に悠々と京へ入った。今後の反転攻勢に向けては、改めて戦略を練り直す必要があり、今暫くの時が必要であるそうだ。そういった事情により、今回の侵攻は一旦ここで終了となった。これにより兵たちは解散となり、エンたち濃武の里の忍たちのお仕事もこれにて終了した。
翌日、事後処理で忙しいサクに別れを告げ、濃武の忍たちは美濃へと帰っていった。