②
「……ただいま」
小さく告げたその声は、暗闇の中に溶けていく。相変わらず「おかえり」という返事がないことに溜め息を吐き、私は玄関で靴を脱いで靴箱へ仕舞った。そして、足早に奥の自室へと向かう。
しかし、リビングの隣を通りかかったタイミングで、そのリビングのドアが開いた。
「……あ、」
「……」
いたんだ。そう思って小さくあげた声は言葉にならずに消えていく。
髪を金髪に染め上げ、まだ17歳だというのに煙草なんか吸っちゃってる私の2個上の兄。地元の不良の集まりだと言われる高校に入学したものの、ちゃんと行ってるのかさえよくわからない。
兄は私をちらりと一瞥したかと思うと、何も言わずに玄関の方へ歩いていき、出ていった。
兄と最後に話したのは、いつだっただろうか。幼い頃、小さなことで喧嘩をしていた日々が懐かしい。今では滅多に口も利かない。
ふぅ、とため息を吐いて、さっさと自室に入った。ぱちり、電気をつけると、殺風景な自分の部屋が広がっている。迷わずベッドに向かって、どさりと倒れ込んだ。
「はぁ……」
自分が思っていたよりかは疲れていたらしい。まぁ、自分の見慣れない世界を目の当たりにしてきたのだから当然だろう。
「……変な世界だったな」
ぽつり、呟いた独白は誰に聞かれることもなく部屋の中に消えていった。ベッドに仰向けに寝転がると、真っ白な天井が広がっている。なんだかその天井が酷く、いつもより味気ないように見えてしまった。
じっとしていると、うつらうつらと意識が夢の中に飛んでいきそうになる。
が、そのとき。
「やだぁ~、何言ってるのよ」
がちゃり、玄関のドアが開く音と同時に女の猫撫で声が聞こえてくる。どさどさ、荷物の置かれる音と、もう1人の足音。
「いやいや本気だって、美和ちゃん」
「相変わらず口が上手いんだから」
男と女の話し声。美和、は母の名だ。そして男の声は、最近連れ込んでいる母の彼氏のものだろう。
一気に気分が落ち込んでくる。いつもはもう少し帰りが遅いのに、なんで今日はこんなに早いんだろう。まだご飯も食べていない。けど、今部屋を出てキッチンに行ったら怒られる。
息をひそめてベッドの布団の中に潜り込む。
「あれ、今日あの子は? 夏休みにもう入ってるしいるんじゃないの?」
「さぁー? どこか行ってるんじゃない?」
ぎゅ、自分の身を抱きしめるようにしてまるくなった。いつもと同じ。こうすれば、少しは気持ちが落ち着くような気がする。
その時、ふと自分の首から何かがさがっている感覚を得る。見ると、ルカから貰った石のネックレスがあった。
『この石はね、僕達とアイちゃんを繋ぐ大切なものだよ』
『これが?』
『そう。次にアイちゃんを呼び出すとき、僕はその石に座標を合わせる。だから、絶対肌身離さず持っててね。もし他の人にあげちゃったら、その人がこの世界に来ちゃうから』
『……わかった』
ぎゅ、ルカの言葉を思い出しながら石を握り締める。そうすると、今日ルカやテオと一緒に食べたごはんの味や、森を抜けるときに握り締めた手の感触が蘇ってくるように思えた。
――こっちが現実。あっちが非現実。
そう自分に言い聞かせる。
自分の今置かれている状況が、異世界に行く前よりも今の方が辛く感じてしまったのを、誤魔化すように。




