プロローグ
『暗い、暗い、暗い─────。
今、僕はどんな顔をしているだろう。この暗愁に相応しい暗晦な表情だろうか。
わかるはずもない。何せここは暗闇なのだから。
僕は一人、幽暗な暗黒で、暗涙にむせぶ。』
これは僕、青山英次の小説の一説だ。ここを抜粋した理由は、それが彼の始まりだからである。彼の物語はここを基点として変わりだす。彼とは、もちろんこの独白をした主人公だ。そしてこの小説は、僕の始まりでもある。この処女作を出版したことで、自称小説家ではなくなったわけだ。
手には仮刷した僕の小説。文字が印刷されただけのコピー用紙の集まりが、適した紙に印字され、表紙がついて本になるだけで、この作品の質が上がったような気分になる。本質は変わらないが、出版するにあたって多く人がこの作品には関わっている。よく目にする、あとがきに書いてある感謝を、僕も感じたのであった。そして完成すると、この気持ちを言葉にすると、嬉しかった。もうどれだけこの喜びを噛み締めたことだろう。小説家ならばこの気持ちの描写を数多の言葉を使って表現するのだろう。しかし如何せん、簡単な言葉しか出てこない。僕が未熟だからだろうか、まだまだ小説家としては駆け出しだった。
ここで僕の小説の概要を少し。それは至って簡単で、ファンタジー小説の王道中の王道、落ちこぼれの主人公の成長活劇だ。彼らは迷い、そして間違える。読みやすい小説として体を成し、ハッピーエンドでないのが一つの売りである。幸いではない彼の物語を、読んでくれれば幸いです。僕の小説は好評発売中ですので、こう言うと少しいやらしいが、これは俗に言う営業である。
さて、僕はそう一息つく。宣伝も終わったことだし、もう一度入り込む勢いで読書しようではないか。僕は表紙を開き、ページをめくる。ああ、ここだ。この場面だ。暗い、暗い、暗い─────。その想像の暗闇に、僕は意識と共に身を落とすのであった。
目覚めるとそこは暗闇だった。いや、暗闇ではないか。自分の身体ははっきり見える。しかし上下、左右、前後、続くのは闇、闇、闇。まさに何も無い世界にただ独りで、ただ唯一存在しているようだった。夢現、まずは状況の確認。未知なる体験に僕の常識というものが通用するのか否かは別にして、把握して損はない。
周りには、先に述べたように何も無い。その空間に浮遊しているのか、この感覚をどう説明すればよいのか僕には分からない。次に僕の身体について。表立っての変化はなし。しかし手には僕の小説があった。これはまさにさっきまで僕が読んでいたものだ。
ふとどこからかむせび泣く声が聞こえる。隠しきれていないその嗚咽は、何度も誰かから漏れている。まるで僕の小説の一説みたいだ。
『暗い、暗い、暗い─────。
今、僕はどんな顔をしているだろう。この暗愁に相応しい暗晦な表情だろうか。
わかるはずもない。何せここは暗闇なのだから。
僕は一人、幽暗な暗黒で、暗涙にむせぶ。』
悪いことをした。そう思うことも一度や二度ではない。この暗黒で彼を探そうにも、それが意味を成さないことに思える。彼は変わる、ここを契機に。まだ光は見つけられなくても、きっとすぐそこにあるのだ。
すると突然光が闇の中に割り込んで来る。あれはこの暗黒の出口か。僕はもがいて出口を目指す。光の方へ進んでいるのか、光の方が近づいてきているのか、わからない。しかし着実に、僕と光の距離は縮んでいった。
僕の目は暗闇に慣れていた。その光の眩しさに思わず目をつぶる。そして、目を開けるとそこは街だった。
「僕のイメージ通りじゃないか・・・」
そんな言葉が口からこぼれた。その街並みは小説のものと瓜二つ。雑踏はいつものように。その人混みをわけ、僕は走る。
「ここも、ここも・・・。」
すべてが僕のイメージ通り。目に映る景色は、懐かしさすら覚える。妄想の中で何度も旅をした、何度もそこで生きた。我が愛しい故郷、この街は僕のそれに値する。
一人で満足して頷く。改心の出来、素晴らしい。僕は悦楽に浸る。鼻息は荒く、走りはしない程度に落ち着いたが、まだその歩みは速い。
しかし、不意に立ち止まった。次に目に入ったのが路地裏へ続く道だったからだ。
「もしすべて同じだとすると次は・・・」
手にある小説を急いでめくり、そして該当のページを見つける。楽しみは尽きないようで、そこに書かれているのは路地裏で行われる暴行。必然、好奇心が抑えられるわけがない。自分の創ったキャラが動いている姿が見られるのだから。
僕は路地裏へ続く道の影へ姿をくらました。
壁からこっそりと路地裏を覗く、見つからないように細心の注意を払って。息を殺して、僕は期待通りか確認した。
そこには学生が三人。まさに小説通りだった。構図としては二対一。尻餅をつく男子学生を囲むように立っている男子学生二人。
「おい、落ちこぼれ。何で学校に来ているんだよ。来るなって言っただろう」
「どうした、落ちこぼれ。なんか言えよ」
彼らは尻餅をついている落ちこぼれと呼ばれる男の子を見下ろして下品に笑う。
これは下世話ないじめというやつだ。僕はそれを楽しみにして見ているのか、その問いに肯定することは人間として出来ない。僕が助けないのには理由がある。この場面は最初の顔合わせも兼ねている。僕が介入することで、それをぶち壊すのは無粋極まりない。加えて、さっきは路地裏で行われる暴行が描かれていると述べたが、殴られる前に人が通り掛かり、二人は去るのだ。これがあらすじで、彼は辛うじて手は出されないのだった。
もうお気づきかもしれないが、彼が主人公で、名前はアンガス・シーカー。その弱々しい態度は、この物語と共に殉じるとは思えない凡人以下っぷりであった。アンガスはここで運命に足を踏み入れる。彼の道標となる者との遭遇は、プロローグにふさわしい始まりの出来事だ。さて、ゆっくり見させていただきますよ。僕はアンガスに向かい、心の中でそう呼びかけた。
立てよ、そうアンガスに言葉が浴びせられる。彼はよろよろと立ち上がる。そして一人が拳を振り上げた。そして有り得ないことが起こった。
アンガスは殴られたのだ。なんの障害なく、なんの邪魔なく。地面に転がったアンガスにもう一度同じ言葉を浴びせれば、彼は操り人形のようにまた弱々しく立つのであった。
再度アンガスが頬を殴られると、立たせるのも面倒になったのか、もう一人も参加し、蹴られ続ける。三発、四発と嬲られる度にアンガスの傷が増える。きっと服で隠れた身体には、多くの痛々しい内出血が出来ているであろう。もしかすると内臓にまでその衝撃は届いているかもしれない。
頭を巡るのは疑問。冷静になろうと考える頭とは裏腹に、鈍い音が聞こえるたびに心には怒りがふつふつとこみ上げてきていた。
もう少しで人が来る、そう何度も自身に言い聞かせた僕だったが、もう耐えることができなかった。
「なにをしているんだ!」
僕は止めに入る。そうはいっても直接的に何かできる訳がない。自慢じゃないが、僕の力は弱いことは友人のお墨付きで、彼らとまともに殴り合ったら完全に負けるのであった。
こんな心配をするのは本来とは違う台本だからである。台本には、目撃されただけで彼らは去っていく。しかしもう何が起きるか分からない、アドリブの劇だった。
「ちっ、続きはまた今度だな」
彼らの対応は変わらなかった。捨て台詞は同じ、行動も同じ。では人が来なかったのは何故。頭の中はついに疑問で埋め尽くされた。
考えることはさておき、アンガスに目をやる。声を出すべき傷なのに出さない。それでは僕は余計に心配になってしまうのだった。
「大丈夫か?アンガス」
その問いかけにアンガスは答えない。その代わりといってはなんだが、無表情で質問を返される。
「何で僕の名前を知っているの?」
しまった、思わず口を手で塞ぐ。僕は失言を誤魔化すために、その問いを流す。
「だ、大丈夫そうだな。強くなれよ、少年」
これを捨て台詞として、僕は早急に路地裏から立ち去った。
人混みは相変わらず鬱陶しく、異物を易々と飲み込み、すぐさま日常へと戻っていく。そう見える、そう見えたのだ。そのちっぽけな異物など磨り潰し、さもそのことが無かったかのように振る舞う。ああ、素晴らしき世界よ。その怨嗟も聞こえぬか。いや、聞こえるはずも無い。軋みが、摩擦が、音をなす。この和音はいつもと変わらぬものか、それとも―――。
───さあ、歯車は掛け違えた。これは契機だ。見果てた結末はどう改変するのか。