02-04 ロシアから愛をこめて
アリアが公園で暴れた三日後、エリスの家の周りは各組織の監視の目で溢れかえっていた。もう秘匿やら何やらの状態ではない。そんな中をミハイルは家庭訪問という名目をもって、来栖家に進入することに成功した。
呼び鈴を押すと、「はーい」という返事と共にエリスが現れる。
「こんにちはミハイル先生。」
クリーム色のカーディガンに紺色のスカートのいでたちのエリスが玄関の扉を開ける。
「こんにちはエリス。」
ミハイルの挨拶はわずかに硬い。
「予定より早いけど、大丈夫ですか。」
「はい、ただ母はまだ仕事から戻ってません。中でお待ちください。」
ミハイルにしては好都合、いや戻っていないのは知っていたが、ただそれが偶然か故意かは不明だった。
リビングに通されたミハイルはお茶をのみながらエリスと会話する。
「そういえば、エリス。」
ミハイルが話を振る。
「次の休みに私はロシアに帰省します。お茶会のメンバーでロシアに来てみませんか。」
エリスは少し驚き、そして聞き返した。
「急な話ですね。」
「少しでも日本人にロシアの文化を知って欲しい。それにロシアを好きになって欲しいのですよ。」
ミハイルの言葉に少し考えるエリスだが、答えは保留となった。
「お母さんに聞いてみないと。」
「それは当然ですね。」
ミハイルは結論を急いでないように振舞う。
「ロシアって昔はソ連ですよね。」
「はい、そしてソビエト連邦が成立する前はロシア帝国です。」
「ロシア帝国。いい響きです。」
「そうですか。」
もちろんとエリスは大きく首を縦に振る。
「でもその当時の民衆は大変でした。」
ミハイルの真面目な言葉にエリスのテンションが落ちる。
「あ、そうですよね。」
「特に大変だったのは税金です。」
微妙に話題を修正しながらミハイルは外の様子を伺う。
はじまりましたね。
ミハイルは薄暗くなる状況で周囲に動きがでたことを感じる。
実際にミハイルの登場により実力行使に出る組織が現れる。それをけん制する組織もあれば、監視を続ける組織もある。先行したのは西からゆっくりと人員を進めていた組織。
その組織の一人が来栖家の敷地に入った瞬間、もんどりをうって倒れる。アリアの裏拳が喉にヒットしたために。ミハイルがエリスの家に訪問したタイミングでアリアもまた裏から静かに進入していた。今のアリアの服装は全身迷彩の完全装備状態で、ただし手に小火器が無い。自信か過信かは別にして少なくともこの状態であって戦闘力が高いのは事実。
それを理解したためか、すぐに棒状のスタンガンを構える三人の工作員達。一人がアリアの正面で威嚇すると同時に残りの二人が左右に分かれる。右手の一人はアリアの左手から間合いをつめ、左手の一人はアリアの右手から回り込んで建屋に近づこうとする。 アリアは後方に走り出す、前を向いたまま。アリアは正面と右手が動揺する間に家屋に向かった工作員に追いつきそのまま蹴り飛ばす。
「ひとり。」
楽しそうに微笑むアリアに対して、残り二人の工作員は動揺を抑えつつ間合いを詰める。一人が正面からスタンガンを突き出し、もう一人が足元を払う。アリアは突き出されたスタンガンを右足の靴底で受け止めると、そのまま前方に飛んでスタンガンを受け止められ体勢を崩した工作員の顔面に左膝をめり込ませる。
アリアの跳躍により足払いが空振りしたもう一人の工作員は、起き上がると同時にアリアの右手に額をつかまれそのまま地面に叩きつけられた。
「すでに五人が戦闘不能になりました。」
「だめか。」
エリスの家から少し離れたマンションの中で指揮する組織のリーダーは天を仰ぐ。某大国の部隊が配置を済ます前に作戦を終えたかったが、この状況ではトラを突破できそうにない。
「なぜ火器の許可がでないのですか。」
部下の質問はもっともだ。だが今回の任務では火器厳禁。理由を知らないと言えないのがリーダーの辛いところ。
「撤退信号をだせ。」
リーダーは素早く決断した。
「よろしいのですか。」
あっさり失敗を認めるリーダーにサブリーダーらしき人物が確認をいれる。
「いいさ、給料分の仕事はした。ボーナスは残念だがね。」
諦め以外の表情のリーダーにサブリーダーは頷き、通信手に指示をだす。
「ではお手並み拝見。」
そうつぶやいたリーダーの声は負け惜しみと以上のものが含まれていた。
ミハイルがエリスに帝政ロシアの臨時授業を行っている間、アリアは次々と侵入者を仕留めていく。二ダース弱の暴力の専門家達がアリアの餌になり、一時間が経過したところで場の空気が変わる。アリアは呼吸を整えるとそれまでの微笑みを止めて、真顔、ではなく笑みを浮かべる。
肉食獣の笑み。
アリアが笑顔のトラと呼ばれる所以の獲物を狩るときだけ現れる笑み。これまでは単なる食前酒。これから来るのが本当の獲物。
アリアの全身が震え、瞬間の跳躍。それまでいた場所の足元が爆ぜる。着弾、二発目は無い。アリアが木の影に隠れたためもあるが、狙撃方向を悟れらないため無駄弾は撃たない。アリアの後退とともに手薄になった塀を乗り越えた影は、あきらかにただの犬ではなく訓練された狼。アリアは獲物の大きさに喜びを隠せないように笑みを強める。
CIAのグーリマンは正規部隊ではなく、アジア局お抱えの傭兵を投入する決断をした。それが今、アリアの目の前にいて静かに包囲体勢を敷いている。
さて外は固めた。では室内の司祭様はどう動くか。そもそも何のために目標と接触しているのか。まったく、イレギュラーだらけの案件だ。
グーリマンはそう考えながらモニターを注視する。
ミハイルはふと時計をみてエリスに告げる。
「お母さん遅いですね。」
エリスからの返事は無い。目の前のエリスはいつの間にか目をつぶりソファーにもたれかかっていた。
「大丈夫ですか。」
そう言いながらミハイルはエリスの様子を伺う。少しずつ噴射していた催眠ガスがようやく効いたのだ。
ロシア正教会が本気で動く日本人高校生、現在のエリスの価値はその点だけ。ただエリスの価値が暴騰している今、確保するだけでも利益になる。各組織は概ねそんな動機で動いており、そんな中で一部の組織は本腰を入れている。
何か掴んでいる様子にみえる。時間が無い。
席を立ちエリスの前にしゃがみこむミハイル。事前に摂取した中和剤が効いているとはいえ、少し頭が重いミハイルは意識を整えるとエリスをソファーに寝かせたまま、部屋に向かう。目的の鞄は勉強机の上にあり、その鞄の中からミハイルが取り出したものは一冊の本。タイトルには「ロシアから愛をこめて」と書かれている。
ミハイルはしおりが挟まれたページを開く。
「
ヨシフとレフの二人は互いのことを嫌っている。それは肉体派と知性派の永遠の闘争でもあった。そんな二人から好意を得る私は、困惑を覚えつつも喜びの中にいる。自分に少し嫌悪しながら。
」
ミハイルはため息をつく。三件目の記録が発見された後、ミハイルはエリスの行動を調べ、発見されたタイミングが読書中であった事に注目した。その結果、発見された記録物とエリスの持つ小説の内容に相似点が確認される。正教会は今回の事象はエリスの空想から生み出されたことを認め、エリスの持つ小説が彼女の空想の源であるとの結論づけた。
本を閉じるミハイル。
「この行為が解決への導きとなりますように。」
そう神に祈りをささげミハイルは本を鞄に入れた。
グーリマンの期待に違わず、CIAの傭兵部隊は狙撃と手練二名でアリアを庭に釘付けにした上で、他の組織をけん制しつつ進入路を確保する。
「いつでも屋内に突入できます。」
オペレータの報告をうけて突入のタイミングを図るグーリマンの携帯電話が突然鳴る。
「このタイミングでか。」
つぶやくグーリマンが一呼吸おいて出た電話の相手は欧州局のエヴァンス。
「やあ、グーリマン。」
開口一番の親しげな挨拶。しかしグーリマンは電話の向こうの相手の目に親しみなど無いのを知っている。
「どうしたエヴァンス。」
そっけなく答えるグーリマンにエヴァンスは軽く答える。
「手を引く時間だよ。」
夕飯の時間が来たのでゲームを止めるように、その程度の口調だ。
「あと十ヤードで止めろだと。」
グーリマンは強めに恫喝するもエヴァンスは怯まない。
「虎狩りの時間がかかり過ぎた。司祭が正式に大使館付きになった。」
つまり政治的解決というわけか。
グーリマンは目標の価値を把握しているわけではないので、上層部の判断に口を挟もうにもその材料もない。
「撤退の合図を出せ。」
オペレータにそう指示をだすとグーリマンは携帯電話にもう一度話しかける。
「種明かしはしてくれるのか。」
期待せずに言った言葉にエヴァンスが答えた。
「ロシア側の交換条件はEUへの譲歩。」
グーリマンは嘆息して彼自身もこの事態を受け入れた。
家庭訪問から一時間半、他の組織も撤退を開始する。ロシア正教会は事態の収拾にはエリスの精神の安定が必要と考え、ロシア政府を動かして各国の動きを譲歩や恐喝で封じ込めに成功した。
間に合った事で胸をなでおろすミハイルと獲物を狩り損ねたことに残念がるアリア。二人が別々に来栖家を去ったのち、三十分ほどでエリスは目が覚める。寝ぼけた頭で周囲を見回すと、机の上に残されたメモを見つけた。
ミハイル先生、帰ったんだ。
そうぼんやり思っていると玄関の鍵が開き、エリスを呼ぶ声がする。
あ、母だ。
エリスは玄関に母を迎えに出ていった。
食事や風呂を済ませ、部屋に戻るとエリスは鞄から本を取り出した。就寝前に最後の章を読むつもりだった。
二人の愛の行く末を期待するも、話は何故か千九百二十年代のロシアから急に現代へと移る。登場人物は大学教授と学生の二人。それまでの話は学生が発見した文献の内容で、そのことを報告した大学教授から全てはソビエト政府の陰謀で実はこの小説はロマノフ家を貶めるための工作だったと説明を受ける。
歴史文献には他者を貶めるためのプロパガンダの書物が少なくなく、偽書に踊らされないように大学教授から注意を受けて学生が本をしまったところで物語は終わる。
そんな落ちにエリスは腑に落ちずなんか気が乗らないまま眠りについた。
その後、ミハイルはエリスのロシア熱が冷めていく様子を確認すると、一年の任期を終えて帰国の途につく。この事件の後に各国の情報部が来栖家とエリスの定期監視を始めることとなる。
日本一安全な女子高生となった来栖エリスは、家の周りがそんな事になってるとは全く知らないまま楽しくも退屈な高校生活を送ったのであった。
※この物語はフィクションです。登場する人物、団体及び名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。