02-01 ロシアから愛をこめて
世界を動かす力。
それは巨大な権力や経済力、もしくは斬新なアイデアや全てを魅了するカリスマ。いずれにせよ組織であれ個人であれ、「不可能」は弱者のものであり、強者には無い。だから大抵の人の辞書には「不可能」の文字が書き込まれている。
けれども、もし、ただの女の子の辞書に「不可能」が無かったとしたら。
エリスの持つ力に最初に気がついたのは、彼女の周囲の人々ではなくロシア正教の司祭だった。エリスが通う高校に交換留学生として訪れたロシア人が、司祭である自分の叔父にユニークな日本人としてエリスを手紙で紹介した。
「
親愛なる叔父様へ。
想像力が豊かでお話好きの陽気な友人エリスは、叔父がロシアの司祭だと教えると、ラスプーチンが殺されたのは実は正教会が関係していて、ラスプーチンとニコライ皇帝は、xxxの関係で、でも皇帝はラスプーチンより国を選んだと言います。(もちろん想像の話ですよ。)
そして、すごい悪い顔をしながら、「陛下、終わりましたな」「安定と平安が余の望みだ」「正教会は常に陛下とともに」と皇帝と主教の演技までしてました。
叔父様、日本人は控えめと聞きましたがエリスは違います。もちろん、正教会がそのような事をするはずもなくエリスの作り話です。でもあまりの真に迫った演技に驚いてしまいました。
」
普通ならたわいも無い(少しアレな)話で済む内容だが、手紙を読んだその司祭は衝撃を受ける。五日前に、同じ内容の文書を読んだばかりだったからだ。
サンクトぺテルブルクのある教会で五十年前に亡くなった先々代の主教の手記が、最近になって発見された。手記の大部分は日々の感謝の言葉だったが、ある一節が問題となりロシア正教会中枢が大騒ぎになっていた。
「
正教会はラスプーチンなる詐欺師のこれ以上の行為を無視することはできず、彼の終焉を支持した。その時に陛下から「余の望みは安定と平安だ。」との言葉を確認した。我らの回答は「正教会は今度とも陛下と共にあります。」であった。
」
司祭はこの歴史を揺るがす大問題に関わる一人として姪の手紙と手記の一説が一致したことを偶然と考えなかった。
それからまもなく、ロシア正教会の総主教を首座とする秘密会議が開かれる。二日間に及ぶ会議は日本に一人の司祭を派遣することを決めて終了した。正教会としては穏便に事を進める方針での派遣であったのだが、この行為が結果として騒動を巻き起こすことになる。
エリスはお嬢様学校として知られている綾金学園に通っていた。この学園にロシア正教の司祭ミハイル・ドニチェが外国語の教師として赴任したのはエリスが二年生の頃だ。ロシア語とフランス語と英語と日本語が堪能な金髪美男子の彼は、すぐに生徒たちと仲良くなり親交を深める。
そのミハイルが生徒達から聞いた来栖エリスという学生の評判は、不可思議なものだった。学業も運動もほどほどだが、一部のカルチャーに異常に詳しく、特にゾンビは博識とのこと。
ゾンビについて博識?日本ではそのような研究が?まさか禁忌に触れる異教の術?
ミハイルが混乱するのも無理はない。ソ連連邦崩壊後の混乱期に生まれ、十代を修道院で育った彼に「ゾンビ映画好き」というマイナー趣味を把握することは困難だった。
もちろんミハイルは興味本位でエリスのことを聞いたわけではない。ミハイルは露日友好のため派遣された教師であると同時に、正教会の密命をうけた司祭でもある。
正教会はエリスの家族構成、友人関係、学力、身体能力、治療歴等はすでに調査済みであった。その綿密な身辺調査からでもまったく見えてこない「偶然の一致」について、正教会は特別な力の可能性を推測していた。その特別な力を調査するために奇跡認定者であるミハイルが派遣されたのである。
教壇に立って一週間、ミハイルは彼の授業に出席したエリスと授業の後で会話する機会を得る。
「来栖エリスさんですね。」
「はい、ドニチェ先生。」
学園という集団の中で名が知られるにはそれなりの理由がある。ミハイルから見てもエリスは目立つ存在であった。
「ミハイルでいいですよ、来栖さん。」
ミハイルは他の生徒にも呼びにくいドニチェではなく、ファーストネームで呼びかけるように話している。しかし生徒から「私もエリスでいいです。ミハイル先生。」という返しが来るのは珍しかった。だが折角なのでミハイルもエリスをファーストネームで呼ぶ事にした。
「エリス、ロシア語を学びませんか。」
「え、それは。」
エリスは英語や第二外国語の成績があまりよくない。ミハイルの英語の授業もなんとかついてきている状況だ。だが目的はエリスの学力向上ではないのでミハイルは押してみる。
「学業としてではなく、友人と交流するためと考えてください。放課後の空いた時間でみんなでお茶を飲みながら会話をしましょう。」
「あ、放課後ですか。」
「何か。」
「いえ、毎日は無理ですけど。」
エリスは少し考える。
「一週間に二回ぐらいなら。」
その回答にミハイルは頷く。
「それで十分です。」
こうしてエリスと交流する機会を得たミハイルは本格的にエリスの監視を始めた。
次の日の夕方、ロシア語講座という形式の茶会に出席したエリスについて、ミハイルは以下の通り報告書に記した。
「
来栖エリスは文学に興味あり。好きな作品にロシア文学ではトルストイ「アンナ・カレーニナ」を挙げた。また、歴史については小説の題材としての興味のみで、芸能は年齢に似合わず年配やベテランの俳優を挙げる。
主な関心ごとが日本人の一般的な十代後半女性の興味から外れるため「変わり者」として周りから認識されているようである。なお、自己が関心の高いことについて早口で話す傾向がみられた。
」
報告書の送信を終えてミハイルは考える。
ミハイルは事前の調査結果からエリスの力を「過去を見る力」と想定している。神は時として未来だけでなく、過去の秘密も見せることがある。ただその力の誘惑に耐え切れぬ者がいることも事実であり、もしエリスが不適格者と判明すれば力を封じることもミハイルに課せられた使命である。
どのような方法を取ろうとも。
正教会が特使を派遣したという事実はロシアの公的機関から軍部に伝わり、そこから漏れた情報は微妙に姿を変えて様々な組織が知ることとなった。
すでに日本に窓口を持つ一部の組織は、ミハイルと赴任先の学校の監視を始めている。外見から想像できないが、ミハイルは紛争地への派遣も一度や二度ではなく、何度も修羅場をくぐりぬけている。そんなミハイルであれば、監視の気配を感じことも出来た。
監視はミハイルに対してだが、時間をかけると他の組織が来栖エリスに気が付く可能性がある。それだけは避けたいと考えるミハイルは、次のお茶会でエリスの力を見極める事にした。
エリスは朝起きると自分の長い髪にブラシを通すことを日課とする。身だしなみに気を使うよりも、こうしないと髪がまとまらないからだ。
エリスの腰まである髪は一部の生徒に人気で、エリスが教室でぼんやりしていると彼女たちが勝手に髪を編んだり結ったりして遊んでいる。ぼんやりしているエリスは空想か妄想にふけっている時なので、正気に戻ると髪型が変わっていることに本気で驚いたりする。そんな仕草がかわいいと一部の生徒にうけるのだが。
いつもの通り、気が付くと六限目が終っていたエリスが放課後の予定について悩んでいると、交換留学生のロシア娘がお茶会(兼課外授業)へと誘ってきた。
今日は新刊の発売日で帰り道に本屋による予定。でもお茶会も捨て難い。
お茶菓子の誘惑と新刊の渇望は、ロシア娘の笑顔が加わってお茶菓子、ではなくお茶会(兼課外授業)の勝利となる。エリスはロシア娘に連れられて茶事室に移動する。
その頃、ミハイルは課外授業(兼お茶会)の準備をしながら、今日の段取りを頭の中で確認する。
課外授業の開始後十五分でエリスがめまいをおこすので、ミハイルがそばのソファーに横になるように誘導する。出席者はエリス含め三名、他の二人には片付け依頼して教室から離す。その間にエリスに帰宅を即し、裏門から送り出す。タイミングよくタクシーが通過するので、エリスをそのタクシーに乗せる。無論タクシーは正教会の手配で準備されたもので、帰宅の途中で薬を使って尋問を行い、エリスの記憶や心理を調査する。
誘拐や監禁等はミハイルの望むところではない。だからこの方法がぎりぎりの選択であった。今回の方法でエリスの力を見極めて、他者に利用されぬような対策を施す。ミハイルはそれがエリスの為でもあると考えている。
身に余る力は人を滅ぼす。神の試練とはいえ、できることなら悲劇を無くしたい。
幾度かの苦い経験を持つミハイルの偽りのない気持ちだった。そんな思いのミハイルが皮肉にもこの騒動を加速させてしまうのだが。
課外授業が始まってから四十分後には、エリスは学校の外で車に揺られていた。朦朧とした意識がどこからともなく聞こえる声を捕らえる。
「あなたの名前は。」「来栖エリス。」
「年齢は。」「十七歳。」
「好きな食べ物は。」「手打ちそば。」
「趣味は。」「本を読むこと。」
「最近読んだ本は。」「怪僧ラスプーチン。」
これらの質問を経て、タクシードライバーに化けた宮城司祭はいよいよ本題に入る。
日本正教会の司祭であり精神科医でもある宮城は、ロシア正教会からの依頼に対して疑問を持ちつつもミハイルの調査を支援していた。
宮城は正教会に対して妨害活動をする人物への心理操作も受け持っている。しかし「特殊能力者である少女の記憶と内面を調査する」点は理解も納得もできていない。それでも使命として作業を続ける。
「ラスプーチンに興味がありますか。」
「いえ、ニコライに興味があります。」
「ニコライとは。」
「ロシア皇帝のニコライ二世です。」
「なぜニコライ二世に興味を持ったのですか。」
「ロシアとドイツが戦争したため、ニコライ二世はいとこのヴェルヘルム二世と敵同士になります。でも二人は表では敵対しながら実は相思相愛でいたのです。」
宮城は自己の歴史知識からそのような事実は無いことを知っているが、一方でエリスが嘘を言っているとは考えにくい。無意識下で嘘をつける人間はいないからだ。
「二人とも男ですね。」
「そう、皇帝という重責を真に分かり合える同士。だからこそ惹かれたの。そして、ロシア革命が起こる。ドイツはロシアの弱体を喜ぶが、ヴェルヴェルはニコのことを思うと気が気ではないの。」
この少女は何を言っているのだ。
宮城は自分がうろたえていることに気がついた。
「革命軍に追われたニコ。ヴェルヴェルは彼を密かに呼び寄せ、ドイツとロシアの国境で落ち合うの。革命軍の追手が二人に迫る。ドイツはフランスやイギリスとの戦いを残しているのでロシア革命政府との講和が必要。それでヴェルヴェルは革命軍とは戦えない。」
「ニコはヴェルヴェルに最後の言葉を残し、革命軍につかまるの。」
宮城はすでに自分がエリスを誘導していないことに気がついた。
「ヴェルヴェルも革命で皇帝を退いてロシアに向かう。ニコを助けるために。」
「ニコの処刑寸前でヴェルヴェルがニコを救出してそのまま二人は。」
一瞬、エリスの体が揺らいだと思うとそのまま体が硬直し、そしてシートに崩れ落ちる。
宮城はエリスの眼球や呼吸から眠りに落ちたと確認したのち、ハンドルを握ると車を発進させた。その時、宮城はようやく気が付いた。
自分が汗だらけであると。
※この物語はフィクションです。登場する人物、団体及び名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。