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Elice in Wonderland  作者: 無風の旅人
不思議の喫茶店
19/28

08-02 スーツを着た悪魔

 ナポリのとあるカフェ。

 ロンドン出身の英国紳士である探偵はエスプレッソを飲みながら考える。

 やはり紅茶がいい。

 パリ出身のパリっ子である警部はエスプレッソを飲みながら考える。

 パリのエスプレッソが洗練されている。

 ミラノ出身の伊達男である判事はエスプレッソを飲みながら考える。

 カプチーノにすればよかった。


 彼らは仕事でナポリに来たのだが、噂に聞くナポリのエスプレッソを飲んでみる柔軟性があった。もっとも自らが好む嗜好に拘る頑固さも持ち合わせていた。

「ナポリスタイルのスーツは最高です。」

 カフェで少し騒がしい集団から聞こえたそのセリフに反応する三人。どうやら現地のナポリ人とアジア人の会話を橋渡ししている通訳からそんな言葉がでてきたようだと知った三人は同じ感想をいだく。

 まあ、アジア人にはスーツの本質などわかるまい。

 そう考える三人の耳に次のような言葉が飛び込む。

「ロンドンなんて古臭いだけ。」

「パリなんて気取っているだけ。」

「ミラノなんて派手なだけ。」

 ナポリ男はご満悦だが三人には許し難い発言だった。

 ラテン語から学ぶ英国紳士にとってイタリア語は容易な言葉だった。

 国際組織犯罪を追う警部にとってイタリア語の習得は必須だった。

 洗練された北イタリア人にとってナポリ語は野暮たかった。

「失礼するよ。お嬢さんたち。」

 同音同句の三人の発言に全員が驚きそして互いに顔を合わせた。


 エリスはナポリに来て良かったとしみじみ感じていた。目の前にスーツの見本市が開催されている。

 英国紳士の見本のようなイギリス人は髪を整えて髭もそり落として身だしなみは完璧。スーツはグレーでジャケットの下はベストにえんじ色のネクタイに白ワイシャツ。

 大柄なフランス人は曲線的なスーツのせいか威圧よりも上品さを感じる。スーツはネイビーでネクタイが動物の狐をあしらったマークが入ったブルー。

 愛嬌ある優しげなイタリア人は細身の長身でサングラスも洒落っ気がある。スーツはチャコールグレイのウエストを絞ったスタイルでパンツのラインが男なのに色気を感じる。

 最初に話していた少し派手なイタリア人はまるでマフィアのように貫禄がある。同じイタリアでもミラノスタイルとは少し違う、何と言うかスーツなのに体にフィットしている。

 そして何よりモデルがいい。スーツが仕事着でありながら愛用している感が滲みでている。

 もう目の毒。

 彼らが会話していると妄想が止まらない。

「英国紳士としてはその件は容認できない。」とイギリス人

「ジョンブルは直ぐに結論をだす。このカフェを味わう余裕も無いな。」とフランス人。

「蒙昧を曖昧さと言い換えるのはよろしくない。」とイギリス人。

「おいおい、御託を並べるのは食前までにしてくれ。」とミラノ人。

「ここはナポリだ。人生を楽しめないやつの来るところじゃない。」とナポリ人。

 勝手に翻訳をつけて楽しんでいるエリスとは違い他の男達は深刻だった。

 イギリス人探偵はナポリ人達が彼が常に追っている人間側であると感じた。

 フランス人警部はナポリ人達が現地のマフィアであることに気が付いた。

 イタリア人判事はナポリ人達がクロムファミリーの一人であることに気が付いた。

 ナポリ人マフィアは三人が司法関係者特有の口調であることに気が付いた。

「旅行者ならこの町の客として扱うがスーツの件は譲れないね。」

 カルロスはナポリスタイルが一番とは考えていないが、ナポリの職人が仕立てるスーツは一番だと考えている。目の前で座っている鳥頭の日本人はゆっくり教えてやってもいいが、後から現れた男達は態度によっては少し躾が必要かもしれないと考え、ゆっくりと立ち上がるカルロスに対して身構える三人。三人とも現時点では暴力においてはカルロスより落ちる。一触即発の危機にエリスが辛抱できずに頼む。

「あの、皆さん一緒に写真を撮りませんか。」

 エリスの言葉をためらいながら訳したジョルチの言葉に全員が呆れた。口元を押さえて肩で笑う、肩をすくめて笑う、額を押さえて苦笑する。三人がそれぞれ笑うことで場の緊張が和らいだ。カルロスもこの雰囲気で喧嘩するほど野暮ではない。

「兄貴、こいつらいいんですかい。」

 ベッティオがカルロスと三人の間に入り睨み付ける。

「まあ、そこのお嬢さんのお願いならな。」

「兄貴がそう言うなら。」

 そう言って引き下るベッティオが横顔を晒した時、三人は頭のどこかで引っ掛かっていたものにたどり着いた。国際指名手配犯の顔に。


 国際指名手配とは、ICPOが加盟国政府を通じて被疑者を捜索する制度。その手配書は昔ならファックスで、その前は紙を郵送で、今はデータで世界中に展開される。三人の男はつい最近見た手配書の写真の顔と目の前にいる男の顔が一致した。イギリスで事件を起こしフランスに潜伏しているはずの国際逮捕手配書に記載された男。

「エル・ルワーノ・サノディン!」

 三人の内の一人がそのまま名前を叫んでしまった。その瞬間、日本人女性の首にナイフが突きつけられる。

「こっちへこい。」

 ベッティオと名乗っていた本名サノディンは予想外の事に苛立ちはあっても迷いは無かった。日本人女性を盾にサノディンは移動する。元から目をつけていた車へと後退りしながら近づく。無論、その場にいた者は日本人女性が連れ去られるのをただ見ていたわけでない。

 既に探偵は日本製の小型ビデオで撮影を開始している。

 既に警部は手に忍ばせた携帯の短縮ダイヤルで本部に電話をかけている。

 既に判事はカウンターのウェイターに合図をして警察を呼ぶように指示している。

 カルロスは銃に手をしのばせるも周囲の目もあり最大限に控える。一番驚いていたレオンもさりげなくベッティオことサノディンの視界から消えようとする。サノディンも動きが怪しい者にたいして目で威嚇しながら注意深く距離をとる。

 まずは車。ナポリは、いや、イタリアはダメだ。

 サノディンは警察以外にマフィアからも追われる身になってはイタリアにはいられないと考え、アドリア海からバルカン半島へ渡るルートを記憶の淵から引っ張り出す。

 サノディンが行なった行為は間違いではない。この状況で逃げるには人質を取り、車を奪って逃走するしかない。ただ相手が悪かった。それは司法関係者を敵にしたことでもなく、マフィアを裏切ったことでもなく、ある日本人女性を人質に選んだことだった。


 人質となった女性の名は来栖エリス。国際指名手配よりもたちの悪いレッドブックの一人。

 ICPOの加盟国190カ国には劣るが世界の主要国が入っている協定にはレッドブックのリストに記載の人物が国を移動した場合、直ちに移動先の特殊治安機構に連絡する義務が記載されている。エリスが卒業旅行で立ち寄ったイタリアのナポリ。そこでは今、重包囲による監視体制がひかれていた。

「ミス・レッドブックの周りの人物の裏は取れたのか。」

「はい、一覧がここに。」

 イタリア内務省関係の建物の一室。憲兵隊のトスカリオ少佐は部下から一覧表を受け取るとすばやくチェックする。

「これだけの面子が偶然というには出来すぎてないか。」

「むしろ演出が過ぎてシナリオに無理がありすぎです。」

 誰が当事者で誰が無関係か。イギリス人探偵、フランス人警部、イタリア人判事、地元マフィア、地元通訳、内務省スパイ、国際指名手配犯、日本人大学生、日本人公安警察官、そしてミス・レッドブック。協定に基づく日本の公安からの通達とアメリカ大使館から直接連絡があってもなお、あの少女がレッドブックとは思えないトスカリオ少佐だが、慌てて頭を振って自分の固定観念を捨て去る。容姿や年齢や性別、そんなものはこのレッドブックのメンバーには通用しないということは知っている。

 レッドブックのリストには人間災害、S級スナイパー、ワンマンアーミー、そんな枕詞がつくような人間ばかり記載されている。トスカリオ少佐はミス・レッドブックの枕詞をもう一度思い出す。

 世界変革者。

 意味は判らない、だが恐怖を感じる。トスカリオ少佐はテレビカメラに映るエリスの顔を見ると部下に命令を下した。

「作戦開始。」


 二名の騎乗憲兵がトスカリオ少佐の指示を受けてカフェへと移動する。イタリアの国家憲兵は騎馬によるパトロールも行なっているので怪しまれる心配は無い。ゆっくりと近づく憲兵の一人エッチオ曹長は目標がいるテーブルに慌しい動きを確認する。カモッラの一人が日本人女性の首に手をまわして何か始めていた。

「本部、予定にはない動きありました。指示をお願いします。」

 二名の憲兵への命令はあくまでカフェに行き、三名の日本人女性をカフェから立ち去らせること。仲間割れか何かでカモッラの一人が日本人女性を人質に取り、その場から去ろうとしているのは想定外の事態でありトスカリオ少佐も別に設置されているカメラから状況は把握している。

「一時待機。」

 エッチオ曹長に指示すると、トスカリオ少佐は周囲の地図を見ながら待機している憲兵隊とヘリ部隊に命令をだす。


 日高ユナは自分の失態に怒りを覚えた。公安の潜入捜査員としてまだ駆け出しだが、この半年でマル対と友人となり卒業旅行をするまでの仲になった。癖のあるマル対に唯一接近できたとして課内では評価されている。何しろ世界中の組織が注目する存在で、隙あらば接触しようとするエージェントが後を絶たないマル対と普通に会話できるのだ。そのためユナ自身にも硬軟合法非合法で様々な組織からアプローチが繰り返し行なわれている。

 それすらも乗り切り、卒業後も友人として交流するポジションを掴みかけていた矢先だった。

「エリリン。」

 道坂まゆの声でユナは冷静さを取り戻す。発生した事態に対して冷静に対応する、それが求められている役割だと認識したユナはすばやくカフェの周囲をチェックする。イタリアの治安部隊がいるのはわかっている。手出しをしてくるかどうかは不明だがエリスに危害が加えられるのは避けたいので、介入される前にエリスと同じ人質になるしかないかもしれない。

 ユナはそのための理由付けを考え始めた。


 レオンはベッティオに怒りを覚えた。

 内務省のスパイであるレオンにとってカルロスがここで事件に巻き込まれ地元警察の世話になるのは得策でない。レオンは生粋のカラッモだが同時に内務省から条件を付けられてスパイをしている。要求はバルカン半島からイタリアを経由して行なわれる人身売買ルートの情報。カルロスの配下になって三ヶ月、まだカルロスが仲介役との証拠を掴んでいない。警察沙汰になり間違ってカルロスが逮捕されたら、人身売買組織はカルロスを仲介役から外すかも知れない。そうするとまた一からやり直しになる。

 ベッティオが指名手配犯なのは知らなかったレオンはこの場の乗り切るための口実を考え始めた。


 道坂まゆはひらすら動揺していた。

 いつものエリリンことエリスの無軌道さで怖いマフィアの人と同席することになったのも、スーツの魅力でなんとか気持ちはもっていたけど、今度はエリスがナイフを押し付けられてどこかに連れ去られようとしている。

 やっぱりイタリアはマフィアの国なんだ。

 道坂まゆはひたすら動揺するだけだった。


 エリスにとってナイフは怖いがこのシュチュエーションはなぜか心地よい刺激だった。

 妄想したことのある教室にテロリスト、空から女の子、パパがスパイ。そんな中の一つに自分が人質になって犯人と交渉するパターンがあった。

 頑なに会話しない犯人と、ふとしたきっかけで言葉を交わすようになる。出身地が一緒、趣味が一緒。家族構成が一緒。根拠の無い自信がエリスにはあった。会話できれば大丈夫だと。でも問題はエリスがイタリア語を話せないことだった。


「お前、大人しくしろ。」

 ありきたりのフレーズだが、いやそうだからこそエリスにも伝わる。

 ここは大人しく従う。

 エリスはそう自分に言い聞かせ、連れられるままになる。

「まって、その子はイタリア語を話せないわ。」

 日高ユナがイタリア語でサノディンを呼び止めたとき、複数の人間がそれぞれの反応した。

「あれ、ユナっちは英語得意だっけ。」

 エリスはそんなそぶりを見せない日高ユナが外国語で話しかけたのを聞き驚いたのだが、ユナは返事をしている場合ではなく、サノディンとの交渉に全神経を集中している。

「それがどうした。人質には関係ない。」

 サノディンは突き放す。

「車の運転もできるわ。」

 ユナが食い下がるとサノディンは顎で促す。

「それじゃあ、あの車に乗ってエンジンをかけろ。」

 幾人かが舌打ちする。ここで移動されたら大事になるから。

「待て。」

 警部はユナを止めるが、ユナはそのまま走って車に向かう。

「動くなよ。」

「それを俺が聞くとでも。」

 カルロスが立ち上がりサノディンを威嚇する。

「兄貴、待ってください。」

 警察沙汰を避けたいレオンは何としてもこの現場からカルロスを遠ざけようとする。

「待てねえな。」

 カルロスが銃を懐から出そうとした瞬間、探偵がカルロス腕の掴み、警部が銃を抜き、判事がカルロスの後ろから掴みかかる。そのタイミングでさらに騎馬憲兵がサノディンとカルロスの間に割って入る。

「動くな。」

 全員が発した言葉にカルロスも動きを止めざるを得なかった。その生まれた隙がサノディンに味方した。カルロスの動きに注意を払っていた騎馬憲兵はいきなりブーツを掴まれてバランスを崩す。サノディンは馬体が死角となり全員が自分から見えなくなったこのタイミングで騎馬憲兵から馬を奪い取る。

「こい。」

 騎乗となったサノディンはエリスを引き上げるとそのまま抱き寄せる。

「ハイッ。」

 掛け声とともにサノディンとエリスを乗せた馬が走り出す。探偵と警部と判事はお互い顔を見合わせると一斉に走り出した。

 車の中のユナは公式通り、運転席のパネルを外してケーブルを引き出してエンジンのスターターを回す。準備ができて合図を送ろうと窓を開けると、その横を一頭の馬が走り抜ける。驚くユナだがすぐにそれに乗っているのがサノディンとエリスだと気が付く。慌てて先ほどまで居たカフェを見ると三人の男が車に向かって走ってくる。

「あの馬を追え。」

 伊語で叫びながら判事が助手席に乗り込む。

「お嬢さんも一緒だ。」

 仏語で言いながら警部が後部座席に座る。

「急げ。車を出せ。」

 英語で命令する探偵は後部座席から身を乗り出す。

「判ったわ。」

 何が最優先か、流されている雰囲気はあってもエリスから離れるわけにはいかない。ユナはハンドルを握りアクセルを踏み込んで車を急発進させる。

「あの角を右に曲がった。」

 探偵と警部と判事と諜報員の多国籍追跡班がテロリストが乗った馬を追いかける。その後ろからイタリアの憲兵隊が軍用車両で、さらにはマフィアの乗る高級車が疾走する。

 こうしてチェイス・オブ・ナポリが開始された。

 ※この物語はフィクションです。登場する人物、団体及び名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

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