女の謀。
湯浴みをすませ、接収した宮殿の最奥でラクシャは大きく息をついた。
豪奢な天蓋のついた寝台に腰掛け、老婆のように背を丸めて落ちかかる黒髪ごと額を押さえて呻く。疲れた。もう、その一言に尽きる。
故国を遠く西へ。果たしてここまで支配を拡げる事にどんな意味があるのかと内心思いもするが、父である皇帝の言葉は絶対。遠征の末、ラクシャの軍はこの砂と金銀の国を制圧した。
捕らえられた王族は宮殿地下に幽閉されている。ついに最後まで戦地に立つことの無かった国王を含めた男子は処刑、という事になろうが、女たちや国民には寛大な処置を請わねば。それから無理をしてくれた自軍の兵たちへの報奨と報償も。それが戦姫と呼ばれながらも、戦場ではろくに役に立たないラクシャに出来る唯一の事。
身体はくたくたに疲れているのに、眠気はまったく襲ってこない。ラクシャは再び溜息をつくと、華美に過ぎる小卓に置かれた酒瓶と杯に手を伸ばした。
女の身で戦場に立つようになってからこちら、ラクシャは慢性的な不眠に悩まされるようになっていた。酒をあおって寝台に潜り込めば多少は眠れるものの、口にする酒精は強くなる一方。これでは戦場で死ぬより先に、酒で人格を殺されそうだ。
緊張の解けた身体は別のもののように重い。ラクシャが硝子と金の杯に白く濁った酒を注ごうとした直前、部屋の扉が叩かれた。
応じると、この国の夜着に身を包んだ、しかし一見して武人とわかる長身の男が姿を現した。
「ユエリャン」
名を呼べば、男は一礼した。強い光を宿した黒い双眸はラクシャの手に収まった杯を捉え、痛ましげに細まる。
ラクシャは気まずく苦笑する。名ばかりの指揮官である自分に忠を示し、公私ともに献身的に仕えてくれる当代屈指のこの武将は、ラクシャの不眠と比例して飲酒が深くなっている事を心から案じてくれているのだ。
ラクシャが杯を置くと、ユエリャンは部屋の扉を閉めた。
「…お眠りになられませんか」
ラクシャは気弱な笑みを浮かべるしかない。答えるかわりに、杯をユエリャンに差し出す。
「良いものだそうだよ。貴方も酒は嗜むんだろう」
ユエリャンは無骨な指で繊細な杯を受け取ると、無言のまま一息に飲み干した。濃い眉の間に、きつく皺が寄る。
「このような強いものを…」
「軽く飲み干しておいて言う台詞ではないね。なにはともあれ、…この度も、大儀でした。貴方がいてくれなかったら、わたしは何度死んでいるかわからないよ」
「不吉な事をおっしゃるな」
「事実だよ」
小卓に手をついて平然とラクシャが答えれば、ユエリャンの表情がますます険しくなる。理解しているからこその、この顔だ。ラクシャは小さく笑う。
ラクシャは皇帝の娘―――つまり姫のひとりだ。父である皇帝は武力での周辺諸国の統一を悲願としており、その手段のひとつとして、名高い将軍の娘であったラクシャの母を妻の一人として迎えた。
娘を娶れば、皇帝の武力統一に異を唱える将軍と、彼の麾下の者たちを取り込めるという思惑のもと。
しかし、思惑は早々に外れた。件の将軍の頓死である。
彼が亡くなり、跡継ぎの息子―――ラクシャの叔父にあたる―――は父の意志を己のものとした。姉が嫁いでいようとも関係無い。皇帝の所業は無謀だと、はっきりと弾劾したのだ。
それまでの武勲、そして影響力を鑑みて、処刑台に追いやられることは無かったが、代わりに見事なまでの辺境へと左遷。一族揃って、一種の流刑だ。
果たして後ろ盾を失った母は産後の肥立ちが悪く儚くなり、ラクシャは腫れものを触るようにして養育された。あの皇帝の事、事故や病気を装ってラクシャは暗殺されるのではないかと宮廷人は囁き合っていたものだが、そのようなこともなく。
ある日突然、皇帝に呼ばれ参内すると、軍を率いて蛮族―――皇帝の主観による―――を討伐して来いと命じられた。
ラクシャに戦術も戦略の知識も無い。いや、そもそも女が戦場に立つなど―――、まれに傭兵として従軍する者はいるらしいが、女性の指揮官など有史以来存在しない。
呆然とするラクシャは、これが血統上の父の母方の一族への意趣返しなのだと気付いた。無邪気な子供時代はとうに遠く、大人たちの優越を含んだ憐れみと蔑視のなかで育ったラクシャは、そういった悪意に敏感な性質を培っていた。
ラクシャが大勢の兵と共に戦死したとして、その後自身に向けられる誹謗など頭に無い。皇帝はこの時の為にラクシャを殺さず飼っていたのだ。
悲しむより、怒るより、ラクシャはあきれた。なるほど、祖父も叔父も正しかった。この男は心底どうしようもない。
この日までろくに顔も合わさなかった男に情を請うてもまず無駄だ。くつがえせない現実というのはそこここにごろごろしているもの。まだ幼い娘であったにも関わらず、不遇の幼少時代を過ごしたラクシャにはその事が身に沁みていた。
適当に返事をしたラクシャに今度は皇帝が呆然とし、ついで怒りを見せた。
泣きわめいて助けを求める事を期待していたらしいが、労力の無駄だ。さてどうしたものか。
逃亡などまず無理だ。味方も宮中にはいない。かといって戦場で玉砕してみせるのも癪だし、なにより怖ろしい。
袋小路に迷い込んだラクシャの前に現れたのがユエリャンと麾下の兵士たちだった。彼らは話を聞きつけた叔父の命で参じたという。
辺境に追いやられても、軍での叔父一族の影響力は衰えていない。皇帝の息のかかっていない場所に繋ぎを取り、自分たちがラクシャの手足となるから、と膝をついたユエリャンにラクシャは言葉を失った。
驚きのあまり動けないラクシャの丸い頬に、ユエリャンのごわついた掌が触れる。その時初めてラクシャは自分が泣いている事に気付いた。
「…貴女はこんなに幼いのに。…おそろしかったですね、寂しかった。でも、もう大丈夫ですからね」
―――ああ、そうか。わたしは怖かったのだ、寂しかったのだ。
孤独に生きる事を余儀なくされていた為、そんな感情には蓋をするしかなかった。そうせねば、心を保つ事ができなかったのだ。
自分の首にかじりついて声をあげて泣くラクシャが落ち着くまで、ユエリャンは辛抱強く、ずっと背中を撫でていてくれた。
その日から、ユエリャンは影に日向にラクシャに仕えてくれた。
戦場の無残を目の当たりにして嘔吐した時。初めて人を殺し、精神的な衝撃で声が出せなくなった時。毒によって生死の境をさまよった時。
目を開ければいつだってユエリャンが側にいてくれて、絶望に染まった世界を塗り替えてくれた。
だというのに、彼はラクシャの麾下にいるせいで皇帝とその腰巾着に疎まれ、正しい評価を得られずにいる。皇帝の「武力による周辺国家の統一」とやらに、ユエリャンほど貢献している武将はいない。本来なら、彼はすでにもう将軍位についてもいいだろうに。
「…貴方にどうにか報いたいんだけどね」
空になった杯の淵を荒れた指先でなぞりながら、ラクシャはつぶやいた。自分に自由になる権力が無い事が本当に悔やまれる。
いっそユエリャンを自分の側から遠ざければ、彼に相応しい椅子が準備できるのではないか。
鈍痛を訴える頭でぼんやりと思いを巡らせるラクシャに向かって、一歩、ユエリャンが踏み出す。
「私に報いたいと、思っておいでですか」
「当然だよ」
ここまで良くしてもらって報恩を考えぬほど、ラクシャは傲慢でも強靭でもないつもりだ。苦笑を閃かせて顔を上げると、思いの外近くにユエリャンが立っていた。
驚きに強張るラクシャの薄い肩をユエリャンの大きな手が掴む。骨と筋の浮いた武骨な手は、ラクシャを丁重に扱ってくれた。その手が、記憶にあるなかでいちばん強く、熱を帯びてラクシャに触れてくる。
思わず見上げた鋭い双眸も同じ。真摯に見つめてくれていた瞳には、こんなにも熱がこもっていただろうか。
反射的に笑おうとして失敗した、中途半端に右の口角だけを吊り上げたラクシャの視界にかかる髪を、ユエリャンが空いた手で払う。
「…私に報いたいと、真実そう思っておいでですか」
ひく、とラクシャの頬が引き攣れた。ユエリャンがなにを言わんとしているのか、察しているからうなずけない。
後退ったラクシャは寝台にぶつかり、平衡を崩して柔らかな敷布に座り込んでしまった。心臓がひときわ大きく跳ね、どっと汗が噴き出す。
「…簡単な事ですよ」
顔をあげられないラクシャの耳元でユエリャンが囁く。毒のように甘い低音に、ラクシャは身体を震わせた。
「これまでのように、私を受け入れればいいだけです。そうすれば、貴女は忠実な犬を手に入れられる。…これまでのように、貴女だけを見て、貴女だけに尽くして、決して裏切ることの無い犬だ」
―――欲しいでしょう?
鼓膜から入り込んだ毒はじんわりと全身に滲み、ラクシャの骨ごと融かしていく。
どろどろに融けた脳が、恥を忘れた心と一緒に歓喜した。―――重畳、と。
ずっとずっと欲しかったのではないか、この男が。
ユエリャンが戦勝を重ね、衆目を浴びるにつれ、彼の周りには多くの女たちが群がるようになっていた。ユエリャンを自陣に取り込みたい将軍が送り込んだ老獪な美女から、初恋に頬を染める初々しい乙女まで。
ユエリャンは歯牙にもかけていないようだったけれど、彼女たちが自分のいない場所で馴れ馴れしく彼に話しかけ、触れているのだと思うだけで、嫉妬がラクシャを灼いた。
あの目は、あの手は、―――ユエリャンはわたしの為に皇帝を向こうに回してまで戦ってくれているのだ。おまえたちの出る幕は無いのだと、ユエリャンに好意を示す女たちに怒りすら覚えた。
かと言って、ユエリャンに想いを告げられない。彼は叔父の命でラクシャに仕えてくれているだけ。もし口にして、大好きな黒い瞳に嫌悪や嘲笑が宿りでもしたら、ラクシャの心はその瞬間に砕けて散ってしまう。
ラクシャは自分に女としての色も、旨みも無いのも自覚している。
だから最初は見ない振り、気付かぬ振りで通していた。けれどすぐに限界は訪れた。
―――将としても、異性としても無能なラクシャが出来る事は、女たちを愛しい男から遠ざける事だけ。
役立たずのくせに、陰湿な謀だけは一人前。自分はたしかにあの皇帝の娘なのだとラクシャは自嘲する。
たくらみが成功するたび、ラクシャのなかには重く淀んだものが蓄積されていく。それでも止める事など出来はしない。
ユエリャンを失うほうが、ずっと痛くて苦しいのだ。
―――いっそユエリャンを自分の側から遠ざけたほうが、彼の為?
…冗談ではない。
ユエリャンがどうしてラクシャにこんな取引を持ち掛けたのかはわからない。ユエリャンのまわりの女たちはラクシャによって眼前から消えている。だから、ただ女に飢えていただけなのかもしれない。それとも高貴な血筋の女に気まぐれに食指を動かしただけか。
どちらでもいい。…どうでもいい。
ラクシャはユエリャンの背中に両腕をまわした。くすり、とユエリャンの忍び笑いが剥き出しの首をかすめ、背筋にぞくぞくとしたものが走る。
ユエリャンは今、ラクシャの手の中にいる。
ならばこれからは、愛しい男を逃がさぬよう、謀をめぐらせるだけ。