厄落としの鳥
「夜の市場企画」参加作品
枝間からの月光を頼りに、寡婦が細道を急いでいる。手に持つ鳥籠はたいして重そうでもないのに、口から漏れる息は切れ切れだ。
「間に合うかな、こりゃ。早くから準備しておけばよかった」
独りごちて目を上げれば、暗い木々の先に色とりどりな灯りがちらちらと見えだした。
ようやく夜の市場へ着いたようだ。静かでも森とは違う濃厚な気配の中には、人にあらざるものも含まれている。まっとうな人間なら後込みする市場だが、寡婦の目的は最後に振る舞われる顔役の西瓜だ。怠惰のための手持ち不足で、甘味から遠ざかること久しい。熟れ熟れの果実を夢想して涎をすすったものの――
市場の屋台や出店は所狭しとならんでいて、めぼしいところはもちろん、どんな通路の端ですらこれから出し物を置く余地などまるでなかった。終わり頃ならば、それなり引き払うだろうと目論でいたが、顔役の西瓜の吸引力はよほど強いようだ。
「皆、食い意地がはっていよる」
自分のことは棚に上げながら路地のあちらこちらをさまよい、ようやく外壁の裏の裏、櫓へ上る人気のない階段に腰掛けるほどの場所を見つけた。市門を閉じる間際に、これから客がつくとも思われないが、とにかくこれで西瓜への義理が立つ。もとより怠け者なので、商売ものの鳥籠を脇に置くや、いつもの居眠りにとりかかった。
そこへ――
「あら」
階段を降りる足音がして背後を振り返れば、困惑気な若い男女を寡婦を見下ろしていた。髪に花飾りの娘は上等な晴れ着、連れ合いは絵に描いたような優男だ。寡婦が立ち上がって段を譲ると、うさんくさげな眼差しですれ違う。
「よかったら厄落としはいかがで」
ものはついでと寡婦は声をかけた。
「結構――」
「あら、していただきましょうよ」
言い捨てる男の言葉を遮って、娘が妙に瞳を輝かせた。
「相手にするなよ、こんなのインチキに決まっているだろ」
「だって、去年からなにかと都合が悪くて、あなたとの縁談がちっとも進まないじゃない」
何か変な物が憑いていたら落としたい、と娘が口をとがらすので、男はしぶしぶうなずいた。
「どうやって落とすんだ?」
「この籠の鳥が、厄を食らうんですわ」
寡婦が掲げてみせる鳥籠を、二人はのぞき込んだ。が。
「鳥なんかいないじゃないか」
「なんせ厄を食うくらいですから、並ではないんで」
鼻で笑う男を無視し、寡婦は懐から豆袋を取り出した。
「この豆を買っていただき、籠の鳥が食らえば厄が落とせますです。あ、お代を出した方の厄でして」
「食らわなければ?」
「お代はお返しを」
乗り気な客には額の上乗せは常識である。が、娘が刺繍入りの小さな財布から、躊躇せず金貨を取り出したのには、さすがの寡婦も目を丸くした。男が、金貨を差し出す娘の手首を握る。
「おい、少しは値切れよ」
「値切って落とせなかったら困るし、豆を食べなかったら返していただけるんでしょ?」
唸る男の目の前で、金貨と豆とが交換された。
「豆に息を吹きかけて、鳥籠の中へ放るんですわ」
娘は言われたとおりかわいい唇をすぼめた後、鳥籠の格子ごしに豆を投げ入れた。
「まあ」
「や」
二人が同時に声を上げる。格子の中へ入ったとたん、豆が瞬時に消えたのだ。
「鳥が食ろうて厄は落とせましたです」
「ちょっと見せろ!」
籠を乱暴にひったくった男が、壁に下がる松明へ寄せて、しげしげと中をのぞき込んだ。確かに豆は消えている。さんざんひっくり返して埒があかず、男は籠を返した。
「どうせ、何かの仕掛けがあるんだろうさ。本物なら、自分の厄を落としたらどうだい、婆さん」
「これを機に、ごひいきに」
男の負け惜しみにも動ぜず、寡婦はにこやかに二人を送り出した。
再び籠を脇に置いて階段へ腰を下ろす。ただ、懐が暖かくなった今は、どうしようかとの算段に心が浮き立って、居眠りどころではない。どうせこれ以上の上客は望めそうもないし、せっかく市場に来たのだから客の立場で楽しむのもいいかもしれない。
そうと決めて立ち上がった瞬間。
櫓に通じる階段の上から、風が吹き下ろしてきて、松明が激しく揺らいだ。
続いて彼方からあがる悲鳴。
穏やかなさざめきが騒ぎとなって、人々が路地を走っていく。その中に見知った顔を見て、寡婦は大声をあげた。
「顔役!」
目鼻をくり抜いた西瓜がこちらを向く。
「や、奥さん、きてたんか。いまそこで、人が空中に消えたって……」
言いかけ、顔役は首をかしげた。
「……もしかしたら、あんたの厄落とし?」
寡婦のうなずきにほっと息をつき、近くの若衆を呼びよせた。鳥だ鳥だと言づてすると相手も合点がいったようで、同じ言葉を繰り返しながら、騒ぐ人の群に飛び込んでいった。
「なにせ、金貨一枚ぶんだからね。きっちり厄も落ちて、もうあんなバカな男にだまされませんわな」
寡婦の亡き夫が残した鳥籠には、なにやら見えない鳥がついていて、豆をくれた者を飲み込んでしまう。結果、厄を落とす――と言うのは夫の言説だが、その真偽は定かでない。
「顔役も生活疲れてません? 厄を落としちゃいかが」
寡婦が忍び笑いをすると、西瓜頭に冷や汗が滑り落ちた。
「とんでもない! 鳥の糞まみれで畑に放り出されちゃ、確かに人生観は変わるだろうけどさ」
「それは残念。西瓜の種には、よい寝床なんですがねえ」
自分だったらやはり御免と思うものの、一瞬考えた顔役の反応は悪くはない。西瓜の甘みが増すのは、きっと夜の市場参加者の大きな望みであろう。
とりあえずは、これから出てくる西瓜を楽しみにしながら、寡婦は終わりの近づいた市場を巡り歩いた。
ちなみに、鳥に飲まれて出てきた者は、たいがい良運のついた人生を送っているようである。
ほら、鶯糞のパックとかあるくらいだから……