アリとキリギリス
人間には2つの種族があると思う。将来に備えて自制する者と現在を奔放に楽しむ者である。アリとキリギリスの話は、実は生き方の観念論が含まれているのではないかと思う。現代の日本人は、労働は美徳、備えあれば憂い無しの精神が戦中戦後に定着してしまったためか、人生を楽しむことが下手である。そして、何事も金をかけなければいけないと云うさもしい意識が身についてしまった。別に、アリの生き方をしないと、キリギリスの最後の様な惨めなことになるという教示を批判しているのではない。かと言って、健康なのに働きもしない族を容認するつもりもない。
キリギリスは言ったであろう。
”僕らは備えるために生れて来たんじゃないよ。今、楽しまなくていつ楽しむんだい?老いてしまったら、もうおしまいさ。限りある人生を粗末にしたくないんだよ。”
アリは確かに食うには困らなくなったと思うが、はたして労働ばかりの生き方が幸せであったと言えるのだろうか。キリギリスにとっては、あえて苦行の生き方を送っているとは不思議な奴等だ、にすぎないのだ。そこで、アリの生活をしている俺は、キリギリス伊東君につい羨みの言葉を発してしまったのだ。
「ラーメン屋かあ・・・。」
それでも、ここで食ったらという将来の備えに頭が働く、哀しいアリの習性。
<何、保険掛けようとしているんですか?美味いと思える身体の時に美味いと感じるですよ、一時的な気の迷いでその時を逃してしまったら、たぶん一生後悔するんじゃないすかねえ。>
さすが、キリギリスの言葉が瞬時に出てきたのである。
「アハハハ、やっぱり判るよなあ。どうしても新居購入で家族からの期待を裏切るんじゃないかって思っちゃうんだよな。」
<そりゃ大変でございますよね。まあ係長がよしとくなら勧めませんけど、三宝楼ってところでしてね、店に連絡したら、超人気で直ぐ打ち切れるチャーシューラスコ麺を今なら取り置きしてもらえるって言ってたんでね。>
「叉焼らすこめん?なになに、それ凄く美味いの?チャーシュー麺とは違うの?」
<アハハハ、ガッツリ食いついてきましたね、無類の叉焼好きの係長には、目に毒、いや耳に毒なネーミングですよね。>
キリギリスは、デブアリの心理を揺さぶるのは得意なようだ。確かに俺は、叉焼にはうるさい。付け合せでこれに勝るものは無いと断言する。しかしながら、現在はラーメン戦国時代と久しく言われているにも関わらず、麺とスープにマッチするどころか、まともな叉焼を作れるラーメン屋が減ってきているのではないかと思うのである。さらに、煮豚を叉焼と称してどうどうと出してくる嘆かわしい店まであるではないか。漬け込み用のタレの調味料の配合程度、焼きを計算してある肉の厚み具合、本来の肉の味を台無しにせず漬け揉まれてあるか、そして肉汁を閉じ込めるだけの焼があるか、かつそれがラーメンの具材として自己主張していなかどうかが肝要なのである。くどくどと薀蓄するどこかのグルメ評論家ではないが、叉焼にはどうしてもそこまで思い入れてしまう程、目が無いのある。
「伊東ちゃんには、ごまかしの言葉は通用しないなあ。お見込みの通り、もう肉喝センサーがビンビン上昇して、マキシマムだよ、どうしようかな~。」
<アハハハ、肉喝マ~ックスですか、そりゃまた心中お察ししますわ。・・・でどうします。>
「・・・・。」
<いや、まあ、すんません・・・、それじゃあ、今日の話は後日にでも、俺一人で行ってきますよ。>
「えっ、折角誘ってくれたのに。」
<だって、そんなに苦しめるつもりなかったんですし、ご家族を裏切れないワールドに嵌まって困っているんでしょう?”備えあれば憂い無しよ、あなた”、お父さん、頑張って”なんてね。俺には全く無縁な足かせですね。その日その日を思いのままに楽しく過ごす、これが俺にとって生きているって証ですからね。>
「そうかぁ、確かに我慢して一生懸命に働いたけど、冬には死んじゃったって結末もあるもんな。」




