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煩悩の男

「ところでね、貴方に聞きたいこ。」

# ドン

「おっ、もうこんな時間だ。あれ、なんかメールが来てるな。」

 カミさんからの執拗なイジリの恐れではないかと感知した俺は、咄嗟に携帯電話を取り出して見た。

「あのね。」

「ごめん、至急会社に戻れと部下から連絡が来たよ。今日は、直帰するって言っといたのに、気が利かないよなあ、ほら。」

 画面を見せると納得するだろう。そこには、”係長の担当する顧客、T社からの問い合わせが来ております。至急お戻りください。吉田”と打ってある。

「多分、今請け負っている仕事の依頼内容が固まったので、契約額の概算を出してくれってことだろう。」

「真面目にやってるわね。」

「アハハハ、当たり前だろう、一応、我が家の稼ぎ頭だからな。」

 夕暮れ間近の古本屋街は、人通りは疎らで、実に哀愁的な淋しさを感じたりするのである。親密な男女がそれぞれ別々の方角へ向かおうとする場面、何と無くクサい昼メロドラマの様な気さえしてくるのだ。

”もうお別れなのね。”

”仕方ないだろう、僕等の関係は、世間では認めてくれないからな。”

”背徳の愛の定め・・・なのね。”

”ああ。”

 しかし相手がデブのカミさんとでは、そうはいかない。

「それじゃ、仕事頑張って、じゃんじゃん稼いで来るのよ。」

「ああ、直帰すれば、スポーツクラブの振り替えが出来たのに残念だ。」

「またまた、本当はもう辞めたいと思っているんじゃないの。」

「そんなことないよ、新居購入という目標に向かって、驀進している心構えでおります。だから、カロリーマネージャー、引き続き宜しくお願いいたします。」

「出来るだけやってみるわよ。じゃあね、バイバ~イ。」

 全くセンチメンタルなところは無い、この程度である。とにかく店の前で、愛するカミさんと切なき?言葉を交わして別れた。

 家族とは、俺にとって何なのだろうか?いきなり哲学してみたが、それから先に何も頭に出てこなかった。とにかく、我が家は新たな変革の道を辿りだしている。子供達が生まれて、これまでは子供達を中心にというテーマで何事も進められていた。しかし、真保は男に色気づき、海斗はヲタ芸に狂い、カミさんはダイエットサプリメントのアドバイザー気取り。”おめーら、いったい父ちゃんを置いて、どこさ行くだ”の心境である。半世紀ほど前までは、親父は恐い存在であった。その考えや言動は家族に絶対的な統率力を及ぼしていた。それが今では、金を持ってくる下僕、いや下ブタの状態である。そしてさらに、唯一楽しみにしている食の幸せまで奪われてしまったのである。ああ、俺は哀しきデブ親父。すると、携帯電話が鳴りだした。

「ハイハイ、吉積ですが。」

<あ、伊東ですう。

「伊東君、君は独身で自由人で良いねえ。」

<いきなり何すか、それより係長、今、大丈夫すか。

「ああ、大丈夫だよ。用件は何だい?」

<俺も今、得意先から直帰する予定です。係長は、職場に戻りますか?

「僕も、出張先から直帰するって行ってあるよ。」

<そのまま自宅に帰りますか?

「あっ、いや、適当に何処かで時間を潰して帰ろうかなあと思って。」

<歯切れの悪い返事ということは、直ぐに帰れないことやらかしたんすか?それで奥さんが怒っているとか。

「ひどいなあ、そんな後ろめたいことしてないよ。それで何?」

<じゃあ、O地町で飯でも食っていきませんか、ちょっと話したいことがあるんすよ。なかなかイケてるラーメン屋見つけたんで、そこで如何ですか。このところの厳しい食生活で、身体が油を欲してるんじゃないんですか?ついに昼飯まであのトマト弁当に定着しちゃったじゃないですか。このままだと死んじゃいますよ。一発、ガッツリ、コッテリ行きましょうよ。

 君は、本当に煩悩のままに行動出来る羨ましい奴である。

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