ノスタルジック
『キョエエエエエエエ???』
俺は、完璧な思い違いをしていたのか。いや、勝手な思い込みだった。これまでの深く心が突き動かされている表情は、実は激しく沸き上がる怒りだったとは。
人の心の内は絶対に一様じゃない。それが長年連れ添ってきた妻であってもである。他人の常識は自らの定理とは全く異なると常に肝に命じておかなければならない。例えば、いつも笑顔で挨拶してくる他の部署の女子がいたとして、コイツはひょっとして俺に気があるのかも、なんて考えることこそ大きな勘違いなのである。それは、モテない奴が陥る錯覚病である。この部分を読んで自分は大丈夫、イケてるからと思った奴は要注意である。
とにかく海斗よ、暫くヲタ芸は封印した方が良いのであろう。お前が絶好調であるほど、ママとの心の溝が深くなるばかりだ。
その後カミさんを連れて、学生の頃よく通った喫茶店で子供達についてお互いの考えを色々と喋っていた。この店のあるKの街は、通り沿いには昔から古本屋が建ち並んでいる。訪れると街のここかしこに昭和の光景が今だに残っているので、ノスタルジーを引き起こすのである。何故この町がこのような古本屋街になったのかは定かではないが、昔は多くの有名大学がこの付近に校舎を並べており、沢山の学生の往来があったからとか。
パソコンが普及した今では考えられないかも知れないが、昔は専門的な情報や知識は本から得ることが基本である。しかし、当時そのような書籍は高価なものであり、貧乏学生に定価本を買うことはありえなかった。友達が回してくれるか、図書館で借りるか、後は古本である。特に、いかがわしいその手のものも含め特殊な書籍は、到底借用の手段であるはずもなく、古本屋街までやってきては物色し、休憩や暇つぶしのため、この喫茶店で何時間も読書をしながら入り浸る日々を送っていた。
「どうせエッチな本でも買いあさっていたんでしょう?」
「ば、バカ言うな、ほら、俺の趣味、オーディオ関係機材で色んな輸入品を調べていたんだよ。Mランツのアンプなんか渋い音質で良いもんな。買えないから、写真や解説書をよく読んで、日本製で似たようなものがないか研究してたんだよ。」
「ふ~ん、海外ものね、そうなんだ。」
「なんだ?そのチョー棘のある引っかかる言い方、信用してないな。」
「ふふふ、まあね、それに今日は海斗のことで、最悪の日だったし。」
「アイツはアイツなりに、頑張ってんだよ。あのヲタ芸というのは、確かに独自の世界観があって、一般的に受け入れられ難いだろうけどね。でも、一生懸命だという熱意は伝わって来たよ。」
「どうしてあの気持ち悪い踊りを清浄化して言ってるの。あんなことやってても何の役にもたたないし、世間様から白い目で見られるだけよ。あ~あ、何がギャリソンマスターに抜擢よ。息子がヲタ芸の名手だって学校に知れたら、生徒指導の先生から呼び出されかねないわ。クラスメートの父母から、”お宅のお子さんは、ヲタ芸術学院大学を目指してらっしゃるの、大変ね~”、なんてからかわれ馬鹿にされるのがおちよ。早く、あのキモ集団から足を洗わせないと。」
「ん~、俺は、チョット今までと違って、海斗への見方が変わったような気になっているんだがな。」
すると、座っている席の真上に掛けてある古びた振り子時計がボーンボーンと時報を鳴らした。
店内は、他に2人の客がいるだけである。1人は、相当年老いた女性で、寒くもないのに毛糸のソフト帽をかぶり、鼠色の手編みのカーディガンはかなり着古している。彼女は、来客用の単行本を開いている。本棚に並べられている本は、滅多に手をつけられていないためか、背表紙だけがすっかり黄ばんでいる。よく見ると、ププ、表題が逆さである、ということは開いているだけなのだ。まあ、老眼で単行本の活字は見えていないのではないか。そしてもう1人は、テーブルにうっぷしている貞夫、というのもスゲエ長髪、よれよれのジャージ姿でオッサンと思われる。90年代流行ったのロン毛の若造がそのまま歳食った感じなのである。また、カウンターに居る店のおばさんは、ひょっとして当時エプロン姿で給仕をしていた娘の成れの果てであろうか。彼女はこの店に全く似つかわしくない清純系女子であった。
過ぎ去りしあの時。




