指示代名詞
「何か僕に言いましたっけ?聞こえていなかったんですが、それはそれは失礼な態度になって申し訳ありませんでした。それで聞きたいことはですね、あの出入口のドアのこと何ですが、開けられないんですけど。部長達はどうやって入っていたか、見たことありますか?」
「それで言い訳すれば済むと思ってるのかい・・・まあ、いいや、ハゲチビ達があのドアから入るところかい?見たこと無いねえ。」
「ええっ、さっき言ったばかりじゃないですか、ひょっとして忘れたんですか?」
「知っとるわい、私は未だボケちゃいないよ。」
最近、俺の親父の母、つまり祖母ちゃんがマル惚けする前の口癖である。自分は大丈夫だと言い始めたら、痴呆症状の兆候である。その時に大切なのは否定しないこと、だそうだ。
「当然そうですよ、それでどうやってドアから入っていたんですか?」
「お前さんは、あそこから入るつもりなのかい?」
「そうですよ。」
ババアは、この世とも思えないようなニタリ顔で、小馬鹿に言いやがった。
「ヒャヒャヒャ、馬鹿だねえ、良く見てないねえ。ぴーちゃんは、昔から鈍臭いからねえ。」
『愚っ!』
古傷へ新たに鞭打たれた様に、過去の醜悪な記憶が蘇って来る。
未だ若い社員だった頃、ある上司からあだ名されていた。ドンちゃんと。そいつは俺から言わせれば、細かいところばかりを気にする小心者。そのくせに、いつも偉そうにして、人には煩い人物だった。ようは巷によくいる、テレビドラマでも鼻つまみキャラで出て来る無責任なクソ野郎である。こういう奴は、癇に障る皮肉を言ったり、不用意に人を詰るような事を何故平気でするのだろうか。多分、別の何かで自分が受けているフラストレーションを解消しようとしているのではないか。或いは、幸福そうな人間に変な妬みを抱いているのか。それなら甚だ迷惑であり、そうでなければ、精神疾患者である。いずれにせよ、このババアも同じ人間である。
「じゃあ、違うんですか?僕にはサッパリですがね。鈍臭くてすみませんがね。」
つい強い口調で反応してしまったのが、功を奏したのか。
「すまなかったね、あんたを馬鹿にするつもりはないよ。つまりあそこは、入口じゃないんだよ。」
「ええっ、そうなんですか?でも、チビハゲとヘタレの話は。」
すっかりババアの言い草が移ってしまった。
「だからどんくさ、いやねえ、チビハゲ達が出てくるとしか言ってないよ、私は。」
「じゃあ、あの表示は嘘なんですか?」
「”こちら”だろ。ああいう紛らわしい文句は、全く相手に不親切なもんだよねえ。もしあのドアが入口なら、正しくは”此処から”だよねえ。”此方”とはね、近い所や方向を指しているんだよ。だから、もう少し周りを見てみるんだよ、ぴーちゃん。」
「はあ。」
まさか、ババアから国語教師ばりの用語論をぶちかまされるとは。確かに俺は勝手に入り口と思い込んで、ドアの開閉ばかりに固執し、もっと周りのことに気を配っていなかったのは事実である。デブからの脱却に専念するあまり、食わなければ痩せられると思い込み、自らの身体の健康状態を見損なってしまっているが如し。
『そうかあ。』
「ちょっと、ぴーちゃん、また、何も言わず行っちゃうのかい。」
自己を省みながら、再度青い表示のドアに向かっていた。
『コチラ、コチラが何処かにある、コチラは、アチラ、コチラ・・・』
あっちこっち、あれこれ、かのその、あんなこんな。ババアが言うように、指示代名詞とは、何て無責任な語句であろうか。我々は色々な会話の中で、何の気無しに使っているが、本当に相手に意図することが伝わっているのだろうか。例えば、美しい女性から、”あそこを見てみたいわ、見せてくれる?”と言われたら、どうするだろうか。そこで意気なり、ズボンを脱いだら、立派なド変態である。でも、本当に彼女の見たいのがそれだったら・・・。




