前日
広く広がった草原。上を見上げれば青く澄みわたった空。その中心に寝転がった俺がいる。常に心地よい風が吹き、それが俺の体、そして髪の間を通り抜けていく。その場所に覚えもないのに、俺はその場所を知っている気がした。視界に入る青空に白い雲が通りすぎていく。
「つ……み…ん?」
誰かが何かを囁いたような気がした。女の人の声だ。しかし、それはとても小さな声で、よく聞き取れなかった。辺りを見渡しても誰もいない。
「だれ……?」
俺はその誰かに聞いたが、その声はもう聞こえなくなっていた。もう一度辺りを見渡したが、やはり誰もいない。何故か寂しさが体を駆け巡った。泣きそうになるような感じではない。脱力感が体を襲い、立っているのがやっとな感じだった。しかし、体を支える脚はガタガタと震えていた。
「お…ぃ……ん」
突然、声が聞こえた。しかし、今度はさっきとは違って幼さがあり、絶対に知っている声だった。俺はそこで、そんな不思議な夢から覚めた。と言うより、強制的に起こされたのだ。
―――――――
目を開けると、そこは紛れもなく俺の部屋だった。
ベッドの向かい側に本棚があり、その隣にクローゼット。その間に窓があり、ベランダへと続いている。 そんな何もない部屋に、まだ1週間しか経過してないが、段々と慣れてきていた。春の朝日がカーテンをすり抜けて、俺の部屋を明るく照らしている。
ふと違和感を感じた。起きたばかりというのに、異様に体が軽いのだ。それに息苦しい。寝ぼけているのだろうか? 体に力を入れていないのに背中がベッドから浮いている。
「「わっしょい。わっしょい」」
窓の向かい側に部屋のドアがある。その前から声が聞こえる。寝ぼけている俺の耳でも、夢のなかで聞くよりは鮮明に聞こえた。回らない首を無理矢理に回し、そちらの方向に向けた。
すると、二人の少女がロープを引っ張っていた。
うるさいなぁ。俺はそんな事を言おうとすると、不思議と五月蝿い環境なのに、強烈な眠気が襲ってきた。
……まぁ、いいか。
俺は薄れゆく意識の中、頑張っている二人にエールを送った。
あれ? ……って!?
「二人とも!? 止めなさい!!」
「あ、起きましたね」
少女の片方である、恵魅が俺の目覚めを確認してロープを離したが、もう片方は一生懸命で聞こえていなかった。
「わっしょい。わっしょい」
彼女の持つロープは、天井を蔦って、俺の首に繋がっていた。持ち上げられた体はさっきより低くなったが、未だにベッドに到達はしていない。
「止めんかい!!」
俺は引かれていたロープを、逆に引っ張った。少女の体は軽く、すぐに持ち上がった。
「あ、お兄ちゃん。おはよう」
宙吊りにされたまま、君枝が言った。
「何がしたかったんだよ!? 殺人か!?」
「お兄様、そこは欧〇か!? だよ」
はい、無視!!
「じゃあ、死んだらどうする!?」
「パクリネタはダメ!」
これだけはツッコんどかないとな。
「お兄ちゃんが起きないから」
いやいや。むしろまた寝ちゃうからね。永眠だよ。
「ったく、もう少しで死んでたぞ」
「その時はその時です」
ガッツポーズを決めて、何かほざいてやがる恵魅は無視。
それにしても、他に何か良い起こし方はなかったのだろうか? 危なく意識が飛ぶところだったぞ。ってか、そのまま帰れなくなってたぞ?
俺は寝癖交じりの頭を軽く掻いた。
俺の名前は月森拓海。何処にでも生息している。……じゃなかった。(何処にもいたら気持ちわりぃよ。)何処にでもいるような普通の中学3年だ。つまり、来年の春からピカピカの1年生だ。(友達100人できるかな?)しかし、まだ4月。そうなるには、まだ先の話だ。それに今年、俺は転校をするためにこっちに越してきた。まだ1週間しか経っていない。新しく入る学校は、どうやら初等部から大学まであるらしい。つまり、中学を卒業しても、まだその学校にいる事が出来るらしい。
しかし、ここで疑問が生じるだろう。何故、卒業を間近に控えて転校したのか?
まあ、軽い諸事情と思って戴きたい。
そんなこんなで、俺は明日から新しい学校に入るのだ。まあ、あそこには古くからの友人や、二人の妹達もいるから不安はない。……心配はあるが。
「お兄様。明日から新しい生活が始まるのですから、気を引き締めてくださいね」
この敬語を使いつつ、性格がひねくれているのは、妹第1号の月森恵魅。多分、さっきの起こし方を考えたのは、こいつだ。
基本はしっかりしているのだが、よく悪戯をするのだ。つまり、かなり質の悪いヤツだ。
「お兄ちゃんも私達と同じ学校なんだね。何だか楽しみ」
これは妹第2号の月森君枝。さっきは俺を苦しめていたが、根は真面目である。いつも恵魅の悪戯に付き合わされている。ちょっとマイペースが偶に傷。
ちなみに二人は年子で、恵魅が小学六年生。君枝が中学1年生だ。校舎は初等部、中等部、高等部、大学で違うが、二人と俺は全く違う校舎になるだろう。
恵魅と違う理由は分かると思われるが、君枝と違う理由が分からないと思われる。その理由は後ほど話すとしよう。
「あのさ、今日は春休み最後の日なんだから、もう少し寝ててもバチは当たらんと思うぞ?」
「仕方ないですよ。明日が待ち遠しくて早く起きてしまったのですから」
「そうだよ。私達だけ起きててもつまらないもんねぇ?」
……こいつら。身勝手過ぎだろう?
覚めきってしまった頭をもう一度寝かす事を諦め、俺は下に降りた。
階段の最後の段が見えてきた所で、俺は気付いた。
「お先どうぞ」
俺は先頭を恵魅に譲った。
「どうしたの?」
「いいから、いいから」
恵魅は不思議そうな顔をして俺の先を歩いた。俺は恵魅の二段手前を歩いた。
恵魅が最後の段を越えて、下の階の床を踏んだ瞬間。
「おはよう!」
陽気な声と共に、何かが恵魅を捕まえた。
「わっ!?」
恵魅は驚き倒れそうになったようだが、その何かが恵魅を支えて倒れずに済んだ。
俺はこれを予想して恵魅を先頭にしたのだ。思えばここに越してきて1週間。俺は何度も餌食になったものだ。いや、越してくる前もあった。しかし、それは1週間に一回程度でまだマシな方だった。相手が男なら殴っても良かったが、最近は殴れない。だって……。
「今日は恵魅ちゃんね。おはよう!」
「お母さん!?」
そう、俺達兄妹の母、月森今日子である。お分かりの通り、息子並びに娘の溺愛歴が14年である。性格は明るく、大抵の事はこなせる優秀な母なのだが、時々面倒くさがりな所が偶に傷。そして、あくまで俺の予想なのだが、ショタ、ロリコン疑惑説が浮上している。
「違うもん。小さくて餅肌の子供が好きなだけだもん。あの成長しきってない体がなんとも……エヘッ」
……それを言うんじゃないか?
こんな変わった人物が住む月森家。まあ、実家にはもっと変なのが勢揃いしている。1週間前には、そこに住んでいたのだから自信を持って宣言できる。
こんな個性的な連中に囲まれての生活。最初は不安だったが、今では徐々に慣れてきていた。毒気に当たらないよう気を付けなくては。
俺はまだ知らなかった。こんな朝が、まだ平和であった事を。そして翌日に控えた転入の日に、まさかあんな事が起こるということを……。