第1章 追跡者 ―3―
ルカを発ち、北方の国・クルカティスを後にしたハシュレイとディレイは、その後、ナグ海沿岸にある港街・スパンツァニを目指し、南下していた。
途中に立ち寄った街で馬を買い、その馬蹄に旅路を任せると、当初見積もった行程を大幅に短縮し、明日には港街に到達するだろうという距離まで進むことができていた。
夜の帷が降り、ローナ川支流の小さな川の岸辺に、流木を組んで設営した天幕。その前方に作った簡素な竈の火を頼りに、ハシュレイは地図を広げ、ディレイにも分かるよう、丁寧に行程の説明をしていた。
「今日、抜けたのが、ここ、ラトリア高地。この南に広がるのがスーラ平原。今は、ラトリア高地からスーラ平原の中央を南東に流れる……この辺り、ローナ川の支流に居る。」
地図を辿る彼の指先を見詰めながらディレイは頷き、火で炙った干しパンを頬張った。ハシュレイは、もう片方の手で持っていた小さな酒瓶に口をつけて、更に説明を重ねた。
「ここから川沿いを進んで、平原を抜けると、スパンツァニだ。そこから、船に乗って、クィントロー島を目指す。」
「船?」
「そう、船を使って、ナグ海を渡るんだ。」
「海を渡るの?」
そうだ、と告げられ、ディレイの表情がパッと明るくなった。内陸育ちのディレイにとって、海とは縁が無く、祖母から聞いた話だけが全てであった。塩水で出来た、とても大きな湖のようなもの、と教えられてから、ディレイは一度でいいので見てみたいと、切望していたのだ。
「海は初めてか?」
枝に刺して焼いていた魚を手に取り、焼き具合を確かめてから、大きく頷いたディレイに手渡す。ハシュレイは微笑し、彼の頭を撫でで、言葉を重ねた。
「クィントロー島は、ここだ。」
そう言って、小さな島に指を突き立てた。
「ここに着けば、迎えが来るよう、手筈を整える。」
「……手筈を整える……って、どうやって?」
「それを、今からやるんだよ。」
ハシュレイは、にやりと笑い、傍らに置いていた荷物を探って、銀製の細長い筒を取り出した。それは、掌に乗る大きさで、細かな模様が施されていた。一目で高価だと推測できる代物だった。
ハシュレイは筒の蓋を外し、中から一枚の小さな紙を取り出した。筒の形に沿って丸まった紙を広げると、長方形の薄茶色の紙の中央に、紋様のような朱文字が描かれていた。
ディレイが眉根を寄せ、小首を傾げながら覗き込んだ。
「符呪術だよ。国主の得意技の一つでな……。」
そう言うと、懐からナイフを取り出し、酒瓶を置いた左手の小指の腹に小さく傷を付けた。紅い血が珠のように浮かび、溢れて細く筋を描く。
ハシュレイは呪符を地図の上に置き、短く何かを唱えると、朱文字の中心に小指を押し付け、軽く縦一線を引いた。
「これで良し。次は、お前の包帯を換えないとな。」
「これだけ? 何も起きないよ?」
魔法の一種と知って、フェロールの森で見た、あの奇跡を再び味わえると期待したディレイは、あまりに呆気なく、そして、些か地味な印象を与えられ、がっかりした。
荷物を漁っていたハシュレイは一瞥し、その分かりやすい反応に思わず噴き出した。
「まぁ、見てろよ。」
薬草と包帯を取り出し、目を離すなと付け加えつつ、酒瓶に手を伸ばした。
と、その時、ディレイが、あっと声を上げた。思わず指先の力が抜けて、パンと魚が落ちそうになる。咄嗟に気付いて、落とすまいとしたが、死守できたのは魚だけだった。足元に転がったパンを、一瞬だけ名残惜しそうに見て、すぐに呪符へと視線を移す。
呪符は、風もないのに、カサカサと音を立てていた。心なしか、淡く光っているようにも見える。そして、ふわりと浮きあがった次の瞬間、赤く輝いた紋様が呪符から離れ、まるで、蛇が巻きつくように纏わりつくや、まばゆい光を放った。
「蝶だ!!」
光の球体が弾け、現れたモノ。それは、ほんのりと輝く白い蝶だった。蝶は、ハシュレイの鼻先をちらちらと舞い、やがて、空へと舞いあがった。高度を増すにつれ、蝶は小鳥になり、小鳥から光輝く白い鷹に姿を変えた。
その一部始終を目で追っていたディレイは、感嘆の声を上げた。心を奪われ、じっと見つめ続ける。鷹は、薄い雲に覆われた夜空に大きく翼を広げ、優雅に旋回を繰り返した後、南東に向かって悠然と羽ばたいていった。
「おい、ディレイ、もういいだろう? そろそろ座って、手当てをさせてくれないか?」
ハシュレイの声が聞こえたかと思うと、右手を引かれ、ディレイは振り返った。気付けば、いつの間にか立ち上がってしまっていたのだ。持っていた筈の魚の串焼きも、何故かハシュレイが持っている。
何となく気恥ずかしくなって、ディレイは引き攣った笑みを浮かべた。照れ隠しに頭を掻きながら、すとんと腰を下ろす。そして、差し出された魚を受け取り、子鼠のように小さく噛り付く。
「早く食ってしまってくれ。お前に話しておかなければならない事があるんだ。」
ようやく食事を再開したディレイの肩を擦り、ハシュレイは地図を丁寧に折りたたんだ。その地図を荷袋に押し込んでから、腰掛けていた石を跨ぐようにして、身体の向きを変える。
「あれも魔法なんだ……。」
ポツリと呟いた彼の一言に、頭部の包帯を外していたハシュレイは手を止めた。
「……あれ、も?」
「うん。ハシュレイが森で使っていたのも魔法なんでしょ? すごく綺麗だった。何て云う魔法なの?」
「古代精霊魔法。あの時は意識があったのか。」
こくりと頷き、魚にかぶり付く。
「あれはウェルトーラという、風の最高位の精霊だ。余程、力のある術者でなければ見えやしない。」
再び手当てをし始めたハシュレイは、包帯を外し終え、ディレイの前髪をそっと掻き分けて、左瞼の具合を看た。どうやら、先日、街に立ち寄った際に看てもらった治癒術師の腕は確かなもののようで、傷痕は残れど、腫れも痣もなく、経過は良好だ。
「それが見えたって事は、すごい事なの?」
「お前は、この世界の要たる尊き者だからな。当然といえば当然と云える。」
頭部の傷を完治したと判断したハシュレイは、次に右腕の包帯を解き始めた。無数にあった傷の中で、最も深い裂傷を受けたところだ。
「……世界の要……って?」
「世界の均衡を保ち、万物を安寧に導く者……だそうだ。」
言って、ハシュレイは荷物の脇に置いていた邪黒の剣を、ディレイの足元に横たわらせた。
ディレイは急に不安になり、ハシュレイと剣とを見比べた。そんなディレイの感情を知ってか知らずか、ハシュレイは手当てをしながら話を続けた。
「これは邪黒の剣と云う。複数存在する竜の遺産の一つだ。竜の遺産は、その全てに意思があり、主を選ぶ。その者こそが、万物の頂に君臨する尊き者と、伝えられている。」
「それが、僕? ……そんな筈、ないよ。冗談…だよね?」
あまりに突拍子のない事を告げられ、ディレイは呆れて笑った。だが、何故だか声が震える。
新たに薬草を貼り付け、包帯を巻いたハシュレイは、汚れた包帯を火にくべて、治療前にとっていた姿勢にもどし、ディレイをちらりと一瞥した。彼の足元に食いかけの魚が落ちている。
ハシュレイは静かに息を吐き、土にまみれた魚を薪の中に投げ入れた。
「信じられんだろうが、邪黒はお前に反応した。柄の蒼玉が、俺をお前の元に導いた。」
邪黒の剣は薪の灯りを受けても尚黒く、蒼玉だけが青く輝く。
「……どうして、僕なの?」
暫くの沈黙の後、ディレイは項垂れ、震える声で言った。
「さぁな。宿命……としか言いようがないんじゃないか。」
「何かの間違いだよ。僕が、そんな人な訳ない。」
そして、再び 重い沈黙。
口火を切ったのは、ハシュレイだった。組んだ足に肘を付き、夜空を仰いでいたハシュレイは両目を閉じ、深く深呼吸をしてから、片腕を伸ばしてディレイを抱き寄せた。
ディレイは驚き、彼を見た。
「先の事を不安に思うのは仕方ないだろうが、そんな顔をするな。言っただろう? 俺が傍に居ると。」
にやりと彼が笑う。自信に満ちた、頼もしい笑みだ。
不安に押し潰されそうになっていたディレイは、一瞬 茫然としたが、やがて、彼につられるように薄く笑った。
「うん。」
不思議だ、とディレイは思った。出会ってから間もないというのに、彼はいとも容易く不安を感受し、払拭してしまう。ディレイは、それが嬉しくて、彼に抱きついた。
「それより、ディレイ。俺が伝えたかったのは、もっと別の事だ。」
「……別の事?」
ハシュレイの胸から離れ、ディレイはきょとんとした。
邪黒の剣を拾い上げ、元あった場所に収めてから、ハシュレイはディレイを見た。
「この邪黒の剣の事や、お前の正体は、誰にも悟られてはならない。特に、ファーンという名の男には近付くな。白金色の髪をした紫眼の男だ。」
長い前髪の隙間から、僅かに覗く彼の双眸に、ディレイは無意識に息を呑んだ。いつになく真剣な眼差しであった。
「その人、何なの?」
「いつの世も、偉業を阻害したがる奴は幾らでも居る。己の利権を守る為にな。大方、奴も、その手の類いだろう。」
「…でも、剣が主を選ぶって……。」
「そうだ。その事実を知る者は極めて少ない。奴が、その事に気付いていなければ、恐るるに足らん。狙われるのは、俺と邪黒だからな。だが、そうでなく、お前の存在にも気付いた時は危険だ。剣とお前、共に奪われた場合は打つ手が無くなる。そうなれば、恐らくお前は、無事ではいられないだろう。」
「……殺される…ってこと? 大丈夫、だよね? ハシュレイは強いんでしょ?」
再び、こみ上げた不安を押し殺すように、ディレイは無理やりに笑みを作った。
ハシュレイは一瞬 黙り込み、微かに震えるディレイの手を握りしめた。そして、心なしか蒼褪めて見える彼の頬に触れて、言った。
「守ってみせる。絶対に。」
力強い一言だった。まるで、何かに誓うかのような。
その一言に、ディレイは泣き笑いの表情を浮かべて、大きく頷いた。
「信じるよ。」
ハシュレイは微笑み、彼の頭を優しく撫でた。
「国に戻れば、お前の身の安全は保障される。それまで、俺は、お前と邪黒を何としても、守ってみせる。けれど、いくら俺でも、お前の協力が無ければ、成し遂げられる自信が持てないんだ。」
ディレイは、頭に置かれた彼の手を取り、真っ直ぐに彼を見詰めた。
「分かった。僕、ハシュレイの言う通りにするし、もし、変な奴が近付いて来たら、逃げればいいんだね?」
「そういう事だ。」
言って、二人はどちらがともなく、静かに笑んだ。それは、傍から見れば、仲睦まじい父子のように映る光景であった。
第3節をお届けいたしました。
いかがでしたでしたか? 楽しんでいただけましたでしょうか?
あと1節で第1章は終わり、2章へと移ってゆく予定です。
まだまだ続きますが、必ず 書き終えてみせますので、どうか最後まで お付き合いをお願い致します。
ここまで、お読みいただき、本当に本当に ありがとうございました。
陸王一式