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第2話 パンを配る者

街道には、誰も俺を見ていない時間、というものがあった。


王都を出て半日、俺はそれを久しぶりに思い出した。


広場では、立っているだけで何百もの目が意味を読みにくる。祈り、すがり、値踏みし、合図を送ってくる。だがこの街道には、麦の穂とぬかるみと、遠くの牛しかいない。視線がない、というだけで、肺がひとまわり大きく動く気がした。


妙な話だ。剣を半ば失い、主を失い、追放されて、はじめて呼吸が楽になるとは。


「ずいぶん、歩くのが速いですね」


半歩後ろで、リアーネが言った。


「兵の歩調だ。直らん」


「記録しておきます。『対象、街道にて終始上機嫌』」


「どこが上機嫌だ」


「肩の力が、王宮のときより指三本分、下りています」


黒革の手帳から目も上げずに、彼女は少し小馬鹿にしながらそう言った。どうやらこの女は俺の機嫌まで物差しで測るらしい。


腹立たしくはない。むしろ、誰かが俺を「英雄」ではなく「肩の力が三本分下りた男」として見ていることが、奇妙に軽かった。


昼を過ぎて、二人で乾いたパンと干し肉をかじった。塩が利きすぎている。リアーネは一口食べて、ほんのわずか眉を寄せた。


「まずいか」


「兵站の支給品です。まずいのが正しいんです」


「正しいまずさ、か」


「ええ。おいしい兵站は、たいてい横領されています」


冗談なのか報告なのか分からない口調で、彼女はもう一口かじった。俺は少し笑いそうになって、やめた。笑い方を、しばらく使っていなかった。


街道が緩い坂を登りきったところで、彼女はふいに足を止めた。


「ひとつ、伺っても」


「断ってもいいなら」


「断っても書きます」


「なら聞け」


「布告には、慰霊巡礼、とありました」彼女は手帳を閉じた。「けれど、あなたが探しているのは、墓ではないでしょう」


風が、麦を一斉に倒して通り過ぎた。


嘘をつくこともできた。だが、この女には、嘘より沈黙の方が早く見抜かれる気がした。


「俺は騎士だ」と、俺は言った。「剣の振り方より先に、誰のために抜くかを教わる。だが、その『誰か』を失った」


「王ですか」


「王だ。だが――王冠を持つ者とは限らない」


リアーネは答えず、ただ俺を見ていた。


「玉座に座る者でも、命令する者でもない。人の心を預かる席から、逃げない者。そういう奴が、もし、もう一度この国のどこかにいるなら」腰の折れた剣に、手を置いた。「俺はこの半分の剣を、もう一度そいつに預けたい。それを探している」


しばらく、ペン先の音はしなかった。


やがて彼女は手帳を開き、何も書かずに、また閉じた。


「それは」と、彼女は言った。「帝国にとって、最も危険な巡礼です」


「だろうな」


「英雄が、仕える相手を探している。――民がそれを知れば、我も我もと、自分こそその王だと名乗り出ます」


「だから黙っている」


「ええ。私も、これは書きません」彼女は前を向いた。「『戦没者の墓を巡る、神妙な道行き』。報告には、そう」


優しさではない。手続きだ。


だが、その手続きひとつで、今日もまた、誰かが死なずに済むらしかった。


日が傾くころ、最初の宿場町が見えた。


リエンという名の、街道沿いの小さな町だ。記録では人口1000。だが今、城壁の内も外も、人で溢れていた。荷を背負った難民、片足を引きずる復員兵、泥にまみれた子供。畑を焼かれ、村を捨て、ここまで流れてきた者たちだ。


領主の館は、扉が開け放たれていた。中は空だった。領主は責任を問われて王都へ連行されたか、あるいは逃げたか。どちらでもいい。要は、この町には今、命令を出す者がいない。


それなのに、町は壊れていなかった。


崩れる寸前で、かろうじて立っている。誰かが、立たせている。


広場の中央に、湯気が上がっていた。


巨大な鉄鍋が三つ。その前に長い列。そして列の先で、一人の女が、木べらで指図を飛ばしていた。


年は四十手前か。髪を布で締め、袖をまくり、腕には古い火傷の痕。声は枯れているのに、よく通る。


「碗は一人一回! 二回並んだ顔は覚えてるよ! ――そこ、子供を先に! 後ろの大男、悪いが薪を割っとくれ、食わせる前に働きな!」


列の中で小競り合いが起きかけると、彼女は木べらで鍋の縁を二度叩いた。それだけで、列が静まった。剣も、紋章も、肩書もない。鍋の音ひとつで、二百人を黙らせた。


俺は、足を止めていた。


これだ、と思った。


人の心を預かる席から、逃げない者。爵位も軍も持たないのに、現にこの町を立たせている者。――もしかすると、俺が探しているのは。


「炊事のノラさん、ですね」


隣で、リアーネが小声で言った。「東の関門から来た難民を、無許可で受け入れている、と報告が上がっていました。元・補給隊の炊事方だそうです」


補給隊。


皮肉なものだ。俺たちが負けたのは、剣ではなく、補給と命令系統だった。その補給を担っていた者が、今、敗けた国の民を、現に食わせている。


俺は近づこうとした。一歩、踏み出した。


その瞬間、ノラがこちらを見た。


正確には、俺の腰の――折れた剣を見た。青銀の礼装を見た。そして、目を見開いた。


列の何人かが、つられて振り返る。ざわめきが、波のように広がりはじめる。「英雄さま」「グラディウスさまだ」――祈りの文句が、唇に上りかける。


ノラは木べらを置き、まっすぐ俺の前まで歩いてきた。


頭を下げる、と思った。


違った。


彼女は声を落として、ほとんど押し殺すように、こう言った。


「英雄さま。お願いがあります」


「……何だ」


「どうか、この町に、立たないでください」


一瞬、言葉の意味が掴めなかった。


「あなたが一晩でもここにいれば、明日には噂が三つの村へ届きます。噂が届けば、帝国の目が来る。目が来れば、駐屯が来る。駐屯が来れば――」彼女は、湯気の上がる鉄鍋を、顎で示した。「この二百人分の鍋は、兵の腹に消えます」


喉の奥が、塞がった。


「私はね、英雄さま。あなたの剣を借りたいんじゃないんです」彼女の目は、怒ってはいなかった。ただ、疲れていた。「私が欲しいのは、明日の薪と、塩と、子供が並べる列です。あなたが立つと、それが全部、燃える種になる」


英雄は、腹を満たさない。


彼女は、そうは言わなかった。だが、そう言われた気がした。


「炊き出しが終わるまで、裏の井戸で待っていてくれますか。日が暮れたら、そっと出ていってほしい。――誰にも、見送らせずに」


俺は、頷くしかなかった。


広場の祈りが、まだ消えないうちに、俺は背を向けた。背中に視線が刺さる。だが今度のそれは、すがる視線ではなかった。「行ってくれ」と願う視線だった。


井戸の縁に腰を下ろすと、脇腹の古傷が、昨日の馬の一件以来、まだ鈍く痛んでいた。


「いいんですか」


リアーネが、隣に立っていた。


「彼女は、まさにあなたの探しているものでは。人の心を預かる席から、逃げない者。――そう、見えましたが」


「ああ」と、俺は言った。「だから、立てない」


「分かりません」


「あの女は、王だ。少なくとも、今のこの町の」俺は、空の井戸を覗き込んだ。「だが、あの王は、俺の剣を要らないと言った。俺がいない方が、民が生きると言った。――そういう王こそ、本物かもしれん」


リアーネは、しばらく黙っていた。


それから、手帳を開いた。今度は、ためらわなかった。


「何を書く」


「『リエンの町、炊事のノラ。秩序は安定。英雄の介入、不要』」ペン先が走る。「これは、帝国への報告です。――この町に、兵は来ません」


それが、彼女にできる精一杯の嘘だった。あるいは、精一杯の手続きだった。


日が落ちて、俺たちは町を出た。


ノラは見送りに来なかった。約束どおりだ。ただ、井戸のそばに、布に包まれたパンが二つ、置いてあった。塩の効いた、まずい、正しいパンだ。


街道へ戻ると、夜風が冷たかった。


「ひとつ、分かった」と、俺は歩きながら言った。


「何がです」


「俺が探している王は、俺を必要としない王かもしれん。――探すのが、思っていた百倍、難しくなった」


リアーネが、ほんの少しだけ、息で笑った。記録官の笑いだ。すぐに消えた。


「でも」と、彼女は前を向いたまま言った。「見つける価値は、百倍になりました」


その通りだ、と思った。


腰で、折れた剣が鳴る。預ける相手は、まだ見つからない。だが、探すべき形だけは、今日、少しだけ輪郭を得た。


闇の中、街道の先に、次の町の灯がぽつりと滲んでいた。


そのとき、背後の――今出てきたばかりの町の方角で、低い口笛が聞こえた気がした。


三短、一長。


俺は、足を止めなかった。だが、リアーネの左手が、外套の内側に触れたのを、横目で見た。


旅は、まだ二日目だった。

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