IWGP香港大会
「俺に、挑戦する東洋人はいないのか」
アリが、また軽口を叩いた。
1976年のこと。
モハメド・アリは対戦相手にブルース・リーを頭に描いていたようだ。しかし、リーは 73年には、もうこの世の人ではなくなっていた。
アリは案外に、いい人間だ。そこから来るリップ・サービスにまずは過ぎなかった。
そこに、アントニオ猪木が、つけ入った、いや失礼、挑戦を願い出た。ボクシング世界ヘビー級チャンピオンと、謎の東洋人プロレスラー。世紀の一戦は実現した。
それは凡戦とも言われたが、ともかく猪木はもう謎ではなく、世界に知れ渡るレスラーとなったのだった。
さて、IWGP構想である。
香港大会。
高田伸彦を、ブルース・リーの日本の弟子としてみた。体形、キックは出来る、確かに弟子っぽい。
「香港の弟子達よ。日本の弟子に挑戦して来ないか」
高田は、この頃、まだ伸彦で延彦ではない。若い頃には、上に伸びる、だが。ひとかどになった後は、延ばしていくのだろう。
プロレスラーの改名は多いが、最もまともな一つであろう。と言うか、まとも過ぎて、プロレス的なインパクトには欠ける。
常識的な人物なのだろう。人の為になることを、ちゃんと考え、縁の下の力持ちになることも厭わない。
ジャイアント馬場は、高田を気にいっていたらしい。高田を自分のところに何度も誘っている。高田の性格が、そうさせたのかも知れない。
後にUWF・リターンの時には、あれだけのスター顔なのに負け役を文句も言わずに務め。全面対抗戦では、武藤敬司を相手に、四の字固めで負けてあげた、という真実もある。
さて、香港のブルース・リーの弟子を名乗る者である。うようよ出てきた。
そこはやはりブルース・リーの故郷。なかなかの実力者ばかり。仕形がないから、事前にリングに集めておいて、藤原喜明と前田明が潰して回った。
二人ばかり目ぼしい者を、残しておいて、
それを試合当日、セミ・ファイナルのリングに上げた。高田に勝ったなら、アントニオ猪木に挑戦できるというアングル。
アングルはプロレスの用語の一つで、つまりは筋書きである。
高田はアングルに忠実、一人目に、それなりに苦労して見せて、ハイキックで仕留めた。
香港の観客からのブーイング、飛び交うなか、二人目には、ちゃんとハイキックをもらってノックアウトされて見せたのである。
観客の大歓声。
そして、アントニオ猪木。さらに歓声である。猪木は、危なげなく延髄切りで仕留めたが、
「猪木相手では、しかたないか」
と観客も納得して、香港大会は無事、終了するのである。
話は唐突であるが、ブルース・リーが、勝新太郎の「座頭市」に敵役で出演したいという話があったらしい。まあこちらもスターなんだから、互いになんとか引き分けぐらいで、という腹積もりだったらしい。
ところが、勝新太郎。中国人なんかを相手にしてられるかとばかりで。話はたち消えたらしい。
座頭市対ブルース・リー。実現すれば世界的超アクション・シーンが生まれたであろうに。
ましてや、「よし、それなら、まずは俺が負けてやろう」とでも、勝が言ったとしたら、次回作もあり得ただろうし、二人の手も合ってきたりして、ますます超絶のアクションが生まれただろうに。
例えば、座頭市は相手の刀の音に反応して居合の杖を抜く。リーがヌンチャクで勝負を挑むと、その耳ならぬ回転音に惑わされて、一度は敗れる。しかし、ヌンチャクの形状を知る事で、次の闘いには市が勝利する。すると、リーが別の武器を用いて座頭市に新たな闘いを挑むという様にアクションが続いていったかも知れない。
実に惜しいことだ。
まさに、負けて勝つ、だったのだが。
まあそれはともかく、次はモンゴル大会。なんと、そこには、白鵬の父、メキシコ五輪の銀メダリストでもあるジグジドゥ・ムンフバルトが、待ち受けているはずである。