シン・ニホン・プロレス
人生に偶然がつきものであるように、プロレスもまた偶然の積み重ねである。 人は八百長と口では言いながらも何故か、プロレスにチャンネルを合わせる。蔑みの言葉を掛けながらも、実は楽しみと熱狂を見出だしているのだ。プロレスは紆余曲折を経ながらも、お茶の間から消滅することはなく連綿と続いてきた。この小説は、そのプロレスの偶然が別の偶然であったらと考えたものに過ぎない。
1963年12月15日、力道山は反社会勢力の一員によるナイフの一撃を浴びた。しかし、力道山は手を振るほどの元気を見せて病院に向かったと言う。
ところが、その後に自らの体力を過信したかの様に飲酒さえして、それが致命傷となったとも伝わる。
それはともかく、アントニオ猪木である。力道山に見い出され、移民先のブラジルから日本プロレスへと逆入国。同期に読売ジャイアンツを諦めたジャイアント馬場がある。
力道山は馬場の2m9cmという日本人離れした体格を買っていた。特権的肉体。悪く言えば、ただの見た目である。日本人がアメリカ人より大きいという事が当時の日本人には、スターとして見えたのであろう。
一方のアントニオ猪木である。強さから言ったら、俊敏な肉体とカール・ゴッチ直伝の関節技の猪木が強い。しかし特別な肉体、それが見る者にとってプロレスだった時代である。
事実、遠征したアメリカでも,ジャイアント馬場は,その異風貌からアメリカの敵としてプロレス的大評価を受ける。鉄人ルー・テーズ。人間発電所ブルーノ・サンマルチノ。銀髪鬼フレッド・ブラッシーの好敵手となるほどの出世を遂げた。
猪木は力道山の下、過酷なトレーニングに明け暮れる。気紛れな力道山の憂さ晴らしにも近い、地獄の練習である。けれども、それが後年の猪木の闘魂を形付くったというのも巡り合わせの不思議かも知れない。
そして、暴君の力道山はナイフ禍に倒れる。
ここまでが事実である。
さて、その力道山が無謀な事をせず、養生に専念したとしたらである。恐らく、力道山は死ななかったであろう。
しかしながら、さすがにリング復帰は無理かと思い定めて、馬場を後継者としてアメリカから呼び戻し日本のリングに定着させたことであろう。
そうなると、収まらないのはアントニオ猪木である。力道山の下働きの様なことを務めてきて、今度は馬場の引き立て役では、さすがに我慢がならなかったであろう。
燃える闘魂。決死の思いで力道山に直訴する。
「馬場さんと、勝負させて下さい」
力道山も馬鹿ではない。自分がかつて木村政彦に仕掛けたように喧嘩試合となったら馬場より猪木が強いことは分かっている。
一計を案ずる。
「分かった。勝負させよう」
「しかし、その前に、お前も、アメリカに渡って馬場と同じぐらいの実績を積んで来い」
「そうすれば、勝負させてやる」
道理と言えば、道理である。
猪木は渋々ながらも日本を離れ、アメリカのリングへと渡るしかない。
猪木はカール・ゴッチあたりとは、名勝負的な笑いのない試合は出来ても、余りにシビア過ぎてアメリカの観客には受けない。必要なのは大袈裟な痛みや怒りの仕草であリ、かつ、東洋人は強くてはならない。
アメリカのリングでの東洋人の役割は悪役なのである。 ふてぶてしい風貌、奇妙な動作、何を考えているか分からない薄笑いなのである。
猪木の肉体、風貌は均整が取れ過ぎ、悪い意味で善玉レスラー。アメリカのリングで、東洋人は常に劣っていなくてはならないのである。
猪木はメキシコに活路を見出だそうとするが、ここは空中殺法の殿堂。ストロング・スタイルとは、かけ離れた跳んだり跳ねたりだ猪木が迎合するはずがない。行き着く先は第二の故郷ではあるが、地の果てに近いブラジルでしかなかった。
ところが、そこにエスペランサ(希望)は残っていたのだ。なに、あろう、グレイシー柔術である。そもそもは日本から伝わった、この武術は、柔道の如くスポーツ化されることもなかった。この異国の地に根付いて、更に必殺技化していたのは後年知られる如くである。
猪木は、ついに好敵手と巡りあったのである。グレイシーとの激闘が繰り返される。
これ等の試合は評判となり、テレビ中継も行われ、ブラジル中が熱狂するに至ったのである。そして更に、アメリカのプロモーターも動いて、プロレスの試合に猪木対グレイシーの試合を混ぜ込んだ。
アメリカのリング。
ここでは、白人以外は野蛮と信じられている。その異国人同士が血みどろに闘う試合は、古代ローマのスパルタカスの様に娯楽になる。
悪役猪木の誕生であった。猪木は、蹴りや関節技というアメリカでは野蛮に見える技を繰り出して、ルー・テーズの様なヒーローを苦しめ、最後にはバックドロップの様な技で破れて大喜びされた。
猪木は力道山との約束を果たした。勇躍、帰国する。ジャイアント馬場との対決のためである。
しかし、既に力道山は不動産業に忙しく、プロレスからは離れていた。
ジャイアント馬場も相手にしない。それはそうだ。格下を相手にして、負けたらリスクが大きすぎる。
猪木は途方にくれる。しかし、再びエスペランサは現れた。
ウィレム・ルスカ。オリンピックの柔道王。
「柔道対、柔術の勝負だ」
金メダリストは言った。
柔道対、柔術のジャケット・マッチ。フォールなし、ノックアウトのみのルール。日本武道館。白熱の攻防となった。やはりアメリカでなく、日本のファンである。この格闘技戦を真剣に楽しむ。
そして、リング・サイドには坂口征二。その付け人の藤波辰巳。坂口は日本プロレスの馬場に次ぐナンバー2のはずであった。
試合は、一進一退の攻防。そしてついに、ルスカの襟締めが決まる。しかし、猪木は超人的な能力でギブアップしようとない。ついには、もつれ合うようにしてリング下に転落。それでもルスカは襟締めを解こうとしない。とうとうレフェリーの山本小鉄がノーコンテストつまり無効試合を宣告したのであった。
しかし、収まらないのはウィレム・ルスカ。
「私の勝ちではないか」
リングに舞い戻って、レフェリーに詰め寄る。
アントニオ猪木もまた、リングに戻る。
「よし、よし、よし。では、今度はプロレスで勝負しようではないか」
と叫んだのである。
いつの間にか、その両隣には、坂口征二と藤波辰巳の姿も。つまりシン・二ホン・プロレスの誕生である。全ては、アントニオ猪木の仕掛けすなわちプロレスの隠語ではアングルと呼ばれるものであったのである。
勿論、これは架空。力道山が生きていたらの話である。その死で呪縛を離れ、寧ろ猪木は自由に活動出来るようになり、新日本プロレスを旗揚げした。
つまり、力道山の非業の死は、アントニオ猪木にとって最大の喜びであったと言うことも出来る。