自覚した想い
「……カー。スカー? ……聞いてるのですか? スカー!」
「っ!」
突然の大声に、スカーレットは我に返った。
椅子に座ったタデウスが、眉を顰めて怪訝な顔でスカーレットを見上げていた。
(そうだった、仕事の引継ぎをしているんだったわ)
昼下がりの執務室で、現在はタデウスから仕事を引き継ぐべく、資料の説明を受けているのだった。
「らしくありませんね。最近心ここにあらずと言った様子ですが、疲れているのですか?」
「え? いえ、そんなことは」
「では悩み事とか?」
タデウスに問われたスカーレットの脳裏に、先日夜会で踊っていたレインフォードとミラの姿がよぎった。
だが、何故二人の姿が浮かんだのかも自分でも分からない。もし分かったとしてもそんなことを言えるわけもない。
スカーレットは二人の残像を振り払うように小さく首を振ると、まっすぐに背筋を伸ばし、力強く答えた。
「大丈夫です! なんでもありません」
「そうですか? 婚約の件で忙しくなりそうですし、必要であれば早めに休暇を取ってもいいんですよ?」
「お気遣いありがとうございます。でも、平気です」
実は、先日レインフォードとミラとの婚約が内定した。
その準備にタデウスは忙殺されている。
そこでスカーレットがタデウスの業務を一部肩代わりして対応することになったのだ。
「そうですか? では、引継ぎ書類は後でまとめて渡します。何か不明点があったら言ってください」
「分かりました」
「それと、申し訳ないのですが殿下を呼んできてください。たぶん中庭にいるでしょうから」
「はい。承知しました。では行ってまいります」
時計を見ると確かにそろそろ午後の会議がある時間だ。
だがこの時間に中庭にいるということは、単なる気分転換ではないだろう。
恐らく誰かと共にいる筈だ。
(そう、例えば婚約者となるミラとか……)
ミラの妖精のような可憐な笑顔を思い出した途端、スカーレットの胸がズキンと痛くなった。
それを隠して答えると、タデウスは少し逡巡したあと、執務室を出ようとしたスカーレットに声を掛けた。
「スカー。今日はその後は帰っていいですよ」
「え? でも」
「先日、夜会で警護をしたでしょう。その代休だと思ってください」
どう考えてもスカーレットに対する気遣いだろう。
きっと先ほどの言葉通り、スカーレットが疲れていると思っているようだ。
「……ありがとうございます」
スカーレットは小さく頭を下げると執務室を出た。
廊下を出た途端、スカーレットは盛大なため息をついた。
あの夜会の後から、確かに集中力が切れがちなのは事実で、そのことでタデウスには多大な心配をかけていることが情けない。
本来ならば執務に身が入っていないスカーレットを怒りこそすれ、心配する必要はないのだ。
(前世でこんな仕事をしたら、上司からガミガミ説教されちゃうわね)
そう考えると、自分のふがいなさにがっくりと項垂れてしまった。
スカーレットは心が鉛のように重くなっている一方で、窓から差し込む日光は燦燦として、見上げた青空は憎らしいくらいに晴れ渡っている。
やがて、中庭への回廊を歩いていると、その先から鈴の鳴るような可愛らしい笑い声が聞こえてきた。
そのまま中庭まで足を進めると、そこには笑顔で何かを話しているミラと、それを愛おしげな眼差しで見つめながら耳を傾けているレインフォードの姿があった。
仲睦まじく寄り添った二人は、どこをどう見ても熱愛中の婚約者同士という感じだ。
声を掛けなくてはならない。
口を開き、息を吸った瞬間、心臓を鷲掴みされたような胸の痛みと、溺れるような息苦しさに襲われた。
体が強張り、声を発することができない。
「スカー殿、どうされましたか?」
「ラ、ランセル殿」
いつものように無表情な顔でスカーレットの名を呼んだのはランセルだった。
レインフォードとミラの護衛をしていたであろうランセルは、入口で立ち止まっているスカーレットを不思議に思って声をかけてきたのだろう。
「殿下にご用では?」
「あ、そうなんです。タデウス様が殿下をお呼びです。執務室に戻るように、伝言をお願いできますか?」
「いいですが……」
「では、すみませんがよろしくお願いいたします!」
いつもは伝言を承ったスカーレットが、レインフォードに直接伝えるのだが、それをせずに立ち去るスカーレットをランセルは不思議そうな表情をして何かを言いかけた。
それを遮るようにしてスカーレットは早口で頼むと、足早に庭園から出た。
回廊に戻ってしばらく歩き続けたスカーレットは、自分の荒くなった息に気づいて、ようやく歩を緩めた。
また逃げてしまった。
一度ならず二度までも二人の前から逃げ出した事実に、スカーレットはため息をついた。
「……私、何やってるんだろう」
スカーレットの口から、か細い声が漏れた。
(これでいいはずなのに……)
レインフォードルートになった今、推しが死ぬことはないのだ。
推しであるレインフォードが生きることを望み、そのために性別を偽って王都まで来た。
だから、ミラがレインフォードルートを選び、彼の死亡ルートが回避されることを、スカーレットはずっと望んでいたはずだ。
なのに、何でこんなに胸が痛いのだろうか?
正直、二人が並んでいるところも、笑い合っているのも見たくない。
だから逃げ出したのだ。二度も。
その時、以前アルベルトに言われた問いが、不意に思い浮かんだ。
『義姉さん……義姉さんは殿下のこと……好きなの?』
(好き……?)
自分の中でもう一度その問いを反芻して、ようやくスカーレットは気づいた。
その答えはきっと……
「私、馬鹿だ。レインフォード様の事が好きなんだ……推しじゃなくて、男性として好きになっていたんだ」
スカーレットはそう自覚すると、全ての感情がストンと自分の中で腑に落ちた。
レインフォードに腰を引かれながら隣に歩いた時には、胸が高鳴りドキドキとうるさかったのも。
一緒に過ごす時間が心地よくて、触れ合った肩が離れるのを惜しいと思ったのも。
全てレインフォードが好きだったからなのだ。
だが、今更自分の気持ちに気づいても、もう遅い。
それにこの思いは抱いてはいけない感情だ。
レインフォードとミラは婚約することが内定している。
なによりスカーレットは「悪役令嬢」なのだ。ヒロインであるミラと攻略対象であるレインフォードは結ばれるべきなのだ。
スカーレットは壁を背にして寄りかかり、空を見上げた。
こんな思いを抱いた今、スカーレットは二人の近くにいるべきではない。
それに悪役令嬢であるスカーレットが、二人の傍にいては、万が一ゲームの強制力が働いて自分が断罪される、なんていうことが起こるかもしれない。
どうでもいいデニスに婚約破棄されるのは何とも思わなかったが、レインフォードに断罪されるのなんて正直辛すぎる。
それに、同じ学園に通っていたミラには顔を知られている。
今は接点がないが、レインフォード付きの自分が婚約者であるミラと顔を合わせてしまう事態は避けられないだろう。
そうなれば、『近衛騎士スカー』が女であることも露見してしまう。
(さて、どうしようかしら?)
自分の恋心が叶わないのはもう決定事項だ。
このまま悪役令嬢として断罪される未来がわずかでもある以上、それを回避すべく行動する必要がある。
とは思うものの、すぐに気持ちを切り替えることもできず、やはり気持ちが塞いでしまう。
(こういう時は、素振りでもして気持ちを落ち着けよう!)
体を動かして、一つの事に集中すれば、ぐちゃぐちゃした思考も整理されるだろう。
スカーレットはそう思うと、訓練場に向かった。
※
「ハッ! ハッ!」
スカーレットが気合を入れて剣を振り下す度に、ビュンビュンという刀剣が空気を斬る音が訓練場に響く。
見えない敵を想定して、ひたすら剣を振るう。
回数は数えていないが、既に100回は超えているだろう。
その間に考えるのは、今後の事だった。
(やっぱり領地に戻ろうかしら)
そもそも父バスティアンとはレインフォードを王都に送り届けるまでの約束で護衛の旅に出ることを了承してもらったのだ。
先日もお小言の手紙をもらったが、父はスカーレットが近衛騎士兼政務補佐官として働くことに反対しており、一刻も早い帰郷を求められている。
これを機に領地に戻るのが得策だと言えるだろう。
だが、その後は将来の身の振り方も考えなければならない。
デニスから婚約破棄された時、父もアルベルトもスカーレットが領地に戻ったことを歓迎してくれたが、将来的にアルベルトがバルサー伯爵家を継いだ際には、いつまでも屋敷に居座るのも気が引ける。
(小姑にはなりたくないしなぁ)
アルベルトは許してくれるだろうが、未来のお嫁さんにとって義姉の存在は煙たく感じるだろう。
スカーレットとしても気を使うので同居は避けたい。
(かといって、どこか別の場所に行く当てもないし)
いつもアドバイスをくれるアルベルトに相談したいが、たぶん話の流れとして何故領地に戻るのか説明せざるを得ない。
そうなったらレインフォードへの恋心やマジプリの説明をしなくてはならないだろう。
内容が内容だけに、とてもじゃないが相談できない。
「困ったなぁ」
いつの間にか素振りの手を止めていたスカーレットは、八方塞がりの状況に思わず深いため息をついた。
「……なんだ、酷い顔だな」
「!」
突然、バリトンの声がスカーレットに向けられた。
訓練場には人気が無く、一人物思いに耽っていたスカーレットは驚いて声の方向を見た。
そこには長い黒髪を緩く編んだ切れ長の赤い目を持つ男性が、気だるげな足取りと向かってくる姿があった。
シャツを胸元まで大きく開けて、袖を通さずにジャケットを肩にかけている。
(サジニア!?)
意外な人物の登場に、スカーレットは驚き、瞠目したまま、こちらにやって来るサジニアを見つめた。
「今日は男姿なのだな」
サジニアはスカーレットの姿を上から下へと眺めるように見た後、口の端を小さく持ち上げて言った。
スカーレットを女だと確信した物言いだ。
いや、十中八九バレているのだが、ここは白を切り通そう。
「……ボクは男ですが」
「いい加減諦めろ。男装しているのはレインフォードの趣味か? どこまでも女嫌いだな。さすが男色家の噂が立つ男だけある」
「ち、違います! レインフォード様は、このことを知りません!」
レインフォードの不名誉な噂を否定すべく、スカーレットは慌ててそう言った。
だが、サジニアは本気で言ったわけではないようで、スカーレットの慌てぶりを見てニヤリと笑った。
(なんとなく、悔しいわ)
手玉に取られたようで、渋面を浮かべたスカーレットを見て、サジニアはクククと小さく喉を鳴らして笑ったかと思うと、突然手に持っていた木刀を放り投げてきた。
「わっ!」
「一試合付き合え」
「え!?」
「そうしたらレインフォードには、お前の性別の事は黙っていてやる」
「……分かりました」
投げられた木刀を反射的に受け止めたスカーレットだったが、サジニアにそう言われては否とは言えない。
それに、一人素振りをするのも飽きてきた。
たまには模擬試合もいいだろう。
(第一王子のお手並み拝見といきますかね)
スカーレットは呼吸を整えると、すっと木刀を構えた。
互いに睨み合う。
そして、サジニアの僅かな動きを認めた瞬間、スカーレットは地面を蹴った。
※
サジニアは王族だ。
だから王族の手習いとして剣術を学んでいたのだろうと、スカーレットは高を括っていた。
だが、打ち合いをして早々にそんな考えは浅慮だったと痛感した。
(っ! 強い!)
スピードについては以前戦った銀髪の暗殺者の方が数段上だ。
それにランセルの方が、一つ一つの攻撃が重かった。
それに比べればサジニアの腕は確かに劣る。
だが、二人を凌ぐほどの勘の良さがあった。
スカーレットがいくら攻撃をしても、安易に避けられ、躱される。
今までスカーレットはどちらかと言うと受け身で、相手の攻撃を凌いで奇襲にでるというスタイルだ。
それに対し、サジニアはスカーレットの戦闘スタイルに似ている。
こちらがいくら仕掛けても、躱され、決定打に結び付かない。
逆にスカーレットが気を抜けば、すぐに反撃に転じられてしまうのだ。一瞬でも気が抜けなかった。
それでも攻撃しなければ戦いに勝つことはできない。
「たあああ! はっ!」
とにかく乱打で攻める。相手に隙を与えずに打ち込んだ。
そしてそれは訪れた。
大きく振りかぶったスカーレットの攻撃をサジニアは一撃剣を交差させて、反動をつけて躱す。
(読み通り!)
スカーレットはサジニアが弾みをつけて躱した剣に力を込めて、更に一歩踏み込んだのだ。
もし本当の闘いならば、殺されるかもしれない捨て身の戦法である。
だからこそサジニアは怯んだ。
スカーレットはそのままサジニアを押し倒して、喉元に木刀を突きつけた。
「……参った」
呼吸を乱したスカーレットに下敷きにされたサジニアは、低く声を漏らした。
かと思った次の瞬間、愉快そうにクツクツと喉を鳴らして笑った。
「女に押し倒されたのは初めてだ。早くどけてくれ。そのまま口づけをご所望であれば、叶えるが?」
気づけば、間近に透き通ったルビーのような瞳が迫り、唇が触れそうなほどだった。
そこで初めて自分がサジニアに馬乗りになっていることに気づいた。
「あ、すみません!」
慌てて距離を取ると、サジニアはゆっくりと起き上がり、服についた砂埃をパンパンと払う。
「なかなかやるな」
「サジニア様こそ、お見事です」
「沈んだ顔をしていたが、少しは気分が晴れたか」
「え?」
スカーレットはサジニアの言葉に目を丸くした。
もしかして先ほどため息をついているシーンを見られていたのだろうか。
(もしかして、それで稽古に付き合ってくれたのかしら?)
だが、サジニアの言う通り、すっきりした気分なのは確かだ。
体を動かしたおかげで、ごちゃごちゃと考えていた悩みが吹き飛んだし、ここは感謝するところだろう。
「はい、付き合って下さってありがとうございました」
感謝の意を込めて、スカーレットは深く頭を下げた。
だが、サジニアはレインフォードとは政敵同士ではある。
別に規制されているわけではないが、レインフォード付き近衛騎士であるスカーレットと、政敵のサジニアが共にいるのはあまり好ましいことはない。
気晴らしに付き合ってくれたサジニアには悪いが、周囲にいらぬ誤解を受けたくはないスカーレットは、早々にこの場を立ち去ることにした。
「お陰様で気持ちも晴れました。では、ボクはここで失礼します」
と、踵を返そうとしたスカーレットだったが、そこで大きな音が鳴り響いた。
ぐううううう
(ぎゃああああ! 聞こえた!? 聞こえてないわよね!!?)
まさかこのタイミングでお腹が鳴ってしまうなど、ありえない事態だ。
男の格好をしているが、中身はれっきとした乙女(?)だ。
羞恥で顔が染まるのが分かる。
聞えてないこと祈ったスカーレットの願い虚しく、サジニアが楽しそうに声を上げて笑った。
「ふはははは。沈んだ顔をしていた割には食欲はありそうだな」
(ああああやっぱり聞こえてたああああ)
がっくりと項垂れるスカーレットを一瞥したサジニアは、スカーレットに背を向けると、そのまま訓練場の出口に歩き始めた。
そして数歩歩いたところで、こちらを振り返った。
「行くぞ」
「? どこへですか?」
「訓練に付き合ったんだ。感謝しているのなら俺に付き合え」
「……は?」
戸惑うスカーレットだったが、サジニアの言い分ももっともだった。
しかも彼の背中からは有無を言わさない圧を感じる。
スカーレットは戸惑いつつ、サジニアの後を追った。