突然の婚約話
うららかな午後のひと時。
スカーレットは王族のみ立ち入りの許されている庭園のガゼボにいた。
日差しは柔らかく、吹き抜ける風は爽やかだ。
目の前のテーブルにはいつぞやと同じように、美味しそうなケーキやサンドイッチが並べられている。
白磁に小花と金の模様が入ったティーカップに注がれているアールグレーの芳醇な香りが、スカーレットの鼻孔をくすぐった。
「あの、レインフォード様。一つ質問よろしいでしょうか?」
「ん? なんだ?」
「気のせいじゃなければ、この時間はシエイラ様とのお茶会だったのでは?」
「ああ、そうだったかな」
レインフォードは濁したが、スカーレットはスケジュール帳にシエイラとの茶会であることを確認済みである。
と言うことは、このティーセットはシエイラのために用意されたものである。
「そうだったのかなではなく、そうなんです」
「そんな怖い顔をしないでくれ。タデウスにも許可は取っている」
「え?」
予想外の言葉にスカーレットは驚いた。
先日までタデウスは『どうすれば殿下はシエイラ様とのお茶会に出てくださるのでしょうか』と頭を抱えていたというのに。
「しばらくは婚約者の件は保留になったんだ。だからシエイラとのティータイムの予定は無くなったんだが、急に変更するのも用意する料理人にも悪いだろう。せっかくだから休憩の時間にすることにした。ということで、スカーも付き合ってくれ」
なるほど。
先日〝例の噂〟のせいで「婚約者についてせっつかれることは当面なくなった」とレインフォードは言っていたが、そのことが影響しているのだろう。
タデウスが許可しているのであれば問題ない。ありがたく、お茶をいただくことにしよう。
「分かりました。それならば、いただきますね」
「じゃあ、何から食べたいか?」
「そうですね。じゃあ、マカロンからいただきます」
スカーレットはそう答えてマカロンに手を伸ばした。
だが、その手を遮ってレインフォードがマカロンを手に取ると、何を思ったかスカーレットの口元に運んだ。
「え?」
「ほら、口を開けてくれ」
「え? えええ!?」
(それってあーんってやつ!?)
動揺しつつスカーレットは抗議の声を上げた。
「な、なんですか? 自分で食べれます!」
「スカーは怪我人なんだ。大人しく食べるんだ」
「怪我人っていっても捻挫したのは足ですよ」
「ほら」
レインフォードはスカーレットの抗議などまるで無視してマカロンを持ったままスカーレットが口を開けるのを待っている。
金色の目にじっと見つめられ、スカーレットは心の中で唸った。
(ううう……恥ずかしいけど、ええい!)
羞恥で顔を赤くしながらスカーレットは覚悟を決めて口を開けた。
同時にマカロンが差し込まれ、口の中に苺の甘い味が広がる。
ごっくんと飲み込むと、レインフォードは満足そうに笑った。
「次は何が食べたい?」
「次!? いや、もう本当結構です。恥ずかしいのでもう勘弁してください……」
このままでは心臓がいくらあっても足りない。
半泣きで訴えると、レインフォードは愉快そうに声を上げて笑った。
その後もスイーツを食べさせようとするレインフォードと攻防を繰り返しながらも、穏やかにお茶を飲んでいると、にわかに庭園の外が騒がしくなった。
「お待ちください」や「今確認いたします」などという侍女たちの声がする。
何が起こったのかと入口に視線を向けると、突然、庭園に飛び込んできたのはシエイラの姿だった。
フリルがふんだんにあしらわれた薄桃色のドレスを身に着け、相変わらずの美少女振りだった。
「なんだ。ここは王族のプライベートな庭園だ。何の権限があってここに入ってきた」
レインフォードはシエイラの姿を認めると、冷たい声でそう言い放った。
先ほどまで満面の笑みでスカーレットを揶揄っていた人物と同一人物とはとても思えないほど冷たい表情だ。
だが、そんなレインフォードに対し、これまではレインフォードの冷たい言葉に涙を浮かべていたシエイラは、今までとは打って変わってレインフォードをキッと睨んだ。
「レインには用はありません。今日はスカーに用事があるの」
「ボ、ボクですか? 何でしょうか?」
「ええ」
突然の指名に驚くスカーレットへと、シエイラが満面の笑みを浮かべて歩み寄って来る。
「スカー、あなたに婚約を申し込むわ!」
「え!?」
余りにも突拍子もない言葉に、スカーレットは一瞬思考が停止した。
何を言っているのか理解できない。
隣に座っていたレインフォードも絶句したまま言葉を発せないでいる。
(コンヤク……こんやく……婚約……婚約!? 誰と誰が!?)
「ちょ、ちょっと待ってください。まさかボクとシエイラ様が、ですか!?」
「ええ、そうよ。スカーに婚約を申し込んでいるの」
「えええどうしてですか?」
「だって、私、スカーの事が気に入ってしまったんですもの。ドレス姿がとっても似合っていたわ。あれなら色々着飾りがいがあるし、レインよりもあなたのほうがずっと綺麗だったもの。ね、スカー、婚約してちょうだい」
「いや……その……む、無理ですよ!」
「何故?」
何故と問われても、スカーレットは女なのだから土台無理な話だ。
だが、どうやって断るべきか。
突然のことで頭が真っ白になり、断る口実がすぐには出てこない。
「えええと、あーそうだ! シエイラ様はファルドル侯爵家の方です。ボクの身分ではとてもシエイラ様と結婚など……」
「あら? 聞けばスカーはバルサー伯爵のご子息なのでしょ? なら別にそんなに身分違いってわけでもないわ。ね、侯爵家の跡取りになるのだもの。スカーにとっても悪い話じゃないでしょ?」
「ですが、婚約って好きな者同士がするべきだと思います!」
「いやね。スカーの事は好きよ。いつも守ってくれるし、励ましてくれるし。側にいるとドキドキしちゃうし。これって好きってことじゃないの?」
手紙のやり取りをしたとはいえ、会ったのはたった2回だ。
その中でどこをどうしたら好きになるのか?
(好かれる要素が全然思い浮かばない!)
あわあわとしていると、突然レインフォードが声を上げた。
「駄目だ!」
「レインフォード様?」
「お前とスカーの婚約なんて認められるか!」
ドンとテーブルを叩いたレインフォードが語気を強くして言うと、いつもはお淑やかな令嬢であるシエイラもまた語気を強くして反論した。
「なによそれ。スカーはレインのものじゃないわ! なんでレインが口出すのよ!」
「スカーは俺の近衛騎士だ。お前には渡さない」
「はぁ? そんなの仕事だけの関係でしょう? 私はスカーとずっと手紙のやり取りをしていて彼のプライベートな事だっていっぱい知っているの。デートだってしたもの。レインなんてスカートデートしたことないでしょう?」
「くっ……。だ、だが一緒に旅をしてきている。お前よりずっと一緒にいる時間が長かったんだ」
2人の言い争いがだんだん白熱していく。
スカーレットを無視した言い合いが続き、口を挟む余裕もない。
(ええと、どうすれば……)
「と、とりえず、二人ともちょっと落ち着いてください」
スカーレットが何とか大きな声を上げて二人を制すると、ようやく二人は黙ってくれた。
だが、二人の顔には明らかに不服そうな気持ちが現れている。
一度場を仕切るように、スカーレットは一呼吸置いた後、なるべく冷静になるようにゆっくりとシエイラに語りかけた。
「まず、シエイラ様。お聞きしたいのですが、このお話はファルドル侯爵がお許しになっているのですか?」
「うーん、実はまだお父様には言っていないの。でも私が望めば叶えてくれるはずよ」
不幸中の幸いだ。
ファルドル侯爵が許してしまっていたらスカーレットに断る余地はないが、今の状況なら何とかなりそうだ。
「少しお時間をいただけますか? バルサー家全体に関わることでもありますので、今すぐにはお返事できません。ですからファルドル侯爵にこの話をするのももう少し待ってもらえますか?」
「……分かったわ」
シエイラは婚約の申し込みに対し、スカーレットが即答しなかったことに少々不服そうではあったが、スカーレットの言い分ももっともだと思ったのだろう。
スカーレットの言葉に渋々ながら頷いてくれた。
その様子にホッと胸を撫でおろしたが、即答しないことにたいしては、レインフォードもまた不服そうだ。
だが、ここでレインフォードに口を挟まれては、色々厄介だ。
スカーレットはまずこの場から離れることにした。
「それではシエイラ様、申し訳ありませんが次の仕事がありますので、失礼します。シエイラ様もお気をつけてお帰りください」
「ありがとう」
「さっ、レインフォード様も、午後の会議の時間ですので参りましょう」
「ああ」
スカーレットはシエイラに一礼し、その足で会議室に向かった。
(さて、どうしたものかしら……)
廊下を歩きながら考えていると、レインフォードが不愉快そうな声で話かけてきた。
「なんであの場で断らなかったんだ」
「シエイラ様は侯爵家の方ですよ。伯爵家の人間であるボクが簡単に断れるわけないじゃないですか」
だがスカーレットが答えると、不意にレインフォードが足を止め、何やらぼそりと呟いた。
「デートか……確かに一度もしていないな」
「? 何か仰いましたか?」
「いや、何でもない」
レインフォードは再び歩き出すのを見て、スカーレットは首を傾げた。
その様子に少し疑問を持ったものの、それより目下の問題はシエイラとの婚約話だ。
(はぁ、足だけでなく頭まで痛くなってきたわ)
とりあえず、返事をするまでの猶予はできた。
その間に上手く縁談を断る方法を考えることにしよう。
(まずはアルベルトにも相談してみましょう)
縁談話で頭がいっぱいのスカーレットは、この時何か神妙な顔で考え込むレインフォードには気づかなかった。
※
執務補佐官の仕事を終えたスカーレットは、重く感じる体をなんとか動かして屋敷のドアを開いた。
「た……ただいま……」
「義姉さん、お帰りなさい。って、どうしたのさ! 昨日より精気が無くなっているよ!?」
「あ……うん……」
「大丈夫!?」
片足に負担がかからないように庇って歩くと、慌ててアルベルトが肩を貸してくれる。
半分寄りかかるようにしてリビングに行くと、スカーレットはそのままソファーに身を沈めるようにして座った。
間もなくしてメイドが紅茶を用意してくれたので、それを一口飲んだあと、スカーレットは今日の出来事をアルベルトに説明することにした。
「それで、何が起こったの?」
「実はね、シエイラ様から婚約の申し込みがあったの」
「……はぁ??」
それを聞いたアルベルトは開いた口が塞がらないといった様子でこちらを見て絶句した。
頭の上にクエッションマークがいくつも浮かんでいるのが分かる。
「ごめん、僕の頭が悪いせいだと思うんだけど意味が分からないんだけど」
「大丈夫、私も意味が分からないわ」
スカーレットは今日のお茶会の話を説明すると、アルベルトの眉間の皺が徐々に深くなっていった。
「本当……なんでそんなことになってるのさ」
「私が聞きたいわよ」
「それでどうするの?」
「どうするもこうするも、断るしかないでしょ? 私は女なのよ。婚約できるわけないじゃない。ただ断る方法が思いつかないのよ。アル、なにか断る方法はないかしら」
「そうは言っても、すぐには思い浮かばないよ」
スカーレットとアルベルトは互いに無言になり、そして同じタイミングで深いため息をついた。
いつもなら颯爽とスカーレットのフォローをして妙案を出してくれるアルベルトも、さすがに何も思い浮かばないらしい。
「僕もすぐには思い浮かばないけど、断るなら早い方がいいかもしれない」
「どうして?」
「一応ファルドル侯爵にはまだ話をしないように言ったんだろうけど、婚約の話が出ている以上、侯爵家がいつウチの事を詳しく調べるか分からない。だから、いつ『スカー・バルサー』なんていう人物が存在しないことがバレるか分からないだろう?」
確かにアルベルトの言う通りだ。
貴族名簿や戸籍を調べればバルサー家には「スカー・バルサー」という人物は存在しないことがすぐに分かるだろう。
元々レインフォードの護衛で短期間旅をするだけだったので名前と性別を偽っても問題ないと思っていた。
事実問題はなかった。だが、政務官として働くことになってしまい、本来ならばそこも確認されるはずである。
推測であるが、今回スカーレットが近衛騎士兼執務補佐官になったのはレインフォードの口添えであり、彼の一存で決まったことだ。
それ故、タデウスを始めとした人間は誰もスカーレットの素性を調べることが無かったのだ。
今までバレなかったのが奇跡的だったと言える。
だから、何とかして早急にうまく婚約を断る必要がある。
しかも、侯爵家がスカーレットの戸籍を調査するより早くにだ。
「うーん、相手が絶対に諦める方法だと……”父親に連絡したら、実はすでに縁組が決まっていることが分かったので無理だ”とか”実は心に決めた人がいる”とかが妥当なんじゃないかな」
「なるほどね」
シエイラが諦めざるを得ない理由を考えればいいのだ。
確かにアルベルトの案は説得力もあるし妙案だろう。
「じゃあ、そういう感じで具体的に考えてみるわ。ありがとう、さすがアルベルトね! 相談してよかった」
「スカー義姉さんの力になれたなら良かった」
アルベルトははにかんだ笑みを浮かべた。
やっぱり持つべきは良くできた義弟だ。
お陰ですっかり気持ちが軽くなった。
紅茶を飲むと、今度はしっかりと紅茶の香りと味が感じられた。
暫くして、トントンとノックの音と共にメイドが入ってきて、夕食の準備が整ったことが告げられた。
「食堂まで肩を貸すよ」
「ありがとう」
スカーレットはアルベルトの厚意に甘えて肩を借りることにした。
不安定な体勢で歩くことになるスカーレットの腰をアルベルトはがっちりと掴んでくれるが、不意にレインフォードの事が思い出された。
アルベルトに支えられてもなんとも感じない。
だがレインフォードに同じことをされると死ぬほど緊張するのに……。
ただ、単なる緊張ではない。ドキドキと胸が高鳴り、息が止まりそうになって胸が締め付けられる。
早く離れたいのに、離れたくないという思いも頭をよぎる。
それは何故なのか。
(まぁ、推しと密着すれば、そりゃ緊張もするわよね)
なんたって推しなのだ。
そう、それは男性として意識しているわけではなく、推しだから緊張するのだ。
推しは推しであって、遠くから見て満足するべき存在だ。
ましてやレインフォードは王太子で、スカーレットは一介の伯爵令嬢にすぎない。
身分的にも好ましいものではない上、スカーレットは婚約破棄された訳あり令嬢でもある。
だから、決して推しを推し以上の感情で見てはいけない。
スカーレットは半ば自分に言い聞かせるようにしながら、アルベルトに連れられてそのまま食堂を目指して歩いた。