婚約破棄された悪役令嬢
白刃が光り、剣戟の鋭い金属音が蒼天の空に鳴り響いた。
そして、一瞬の静寂の後、弾き飛ばされた剣が地面へと突き刺さる。
目の前にいる青年は赤い目を大きく見開き、その端整な顔に驚愕の色を浮かべると、絞り出すように言った。
「……参りました」
その言葉を聞いたスカーレット・バルサーは満面の笑みを浮かべると、持っていた剣を一振りしてから鞘に納めた。
一方、青年は緊張を解くと、弾き飛ばされた剣を回収するために歩きながら、スカーレットに感嘆の声を上げる。
「相変わらず強いね、スカー義姉さんは」
「うふふ、ありがとう。アルベルト、貴方も腕を上げたわね」
「義姉さんほどじゃないよ」
義弟のアルベルトは柔らかく微笑んだ。
スカーレットの燃えるような赤い髪とは全く異なるホワイトブロンドの髪。
その髪を片方だけ耳に流し、アーモンド型の形の良い目の奥にはルビーのような赤い瞳が煌めいているこの青年はスカーレットの一歳年下の義弟だ。
父親の遠縁の子供だが、早くに両親を亡くし、彼が6歳の時にバルサー伯爵家に引き取られたのだ。
子供の頃から快活なスカーレットは、物静かな義弟に木登りをしようとか、山奥にある花を取りに行こう、魚を捕まえようなどと誘って、いつも振り回していた。
だが優しいアルベルトは苦笑しつつも、いつも付き合ってくれる。
今回も、久しぶりに剣の手合わせをしたいと言うスカーレットに、嫌な顔一つせず付き合ってくれていた。
(久しぶりに剣を握ったから勘が鈍ったかと思ったけど、思ったよりも動けるわ。良かった……)
スカーレットはバルサー伯爵家の長女だ。
年の頃は花も恥じらう18歳。いや……恥じらうには若干年が上ではあるが。
とにかく一応年頃の令嬢であることには変わりはないのだが、スカーレットは剣術が大好きだった。
子どもの頃から剣術の修行にいそしみ、気づけば並みの騎士よりもずっと強くなっているほどだ。
今も剣術の稽古のため、スカーレットは黒のトラウザーに動きやすいようにゆとりのある白のシャツを着ていている。
しかも鮮やかな赤い髪は肩までの長さでそれを後ろに雑に括っており、一見すると男のような恰好だ。とても普通の令嬢とは思えない恰好である。
アルベルトも父も剣術の稽古を止めるようにとは言わないが、一般的には好意的には受け入れられないということはスカーレットも理解している。
だからこそ、ずっと剣術の稽古を我慢し、つい最近まではお淑やかな淑女を演じていたのだ。
(でも、もう自分を押し殺す必要はないのよね)
何故ならスカーレットはこの間婚約破棄されたからだ。
バルサー伯爵家は歴代国の要職につく武門の名家だ。
だが、もともとそれほど裕福な貴族ではない上、スカーレットの母が重い病に倒れ、その治療費に多額のお金が必要になった。
また、ここ数年領地が不作に見舞われ税収が殆どないという不幸にも見舞われ、すっかり財産が無くなってしまった。
いよいよ生活が立ち行かなくなったという時、ラウダーデン子爵家の長男デニスからスカーレットは婚約を持ちかけられた。
ラウダーデン子爵家は最近商売が当たったとかで羽振りのいい新興の貴族だ。
だがなにぶん新興なだけに名家ではなかった。
そこで名前だけは“名家”であるバルサー家の血筋が欲しいラウダーデン子爵家は、資金援助を条件に婚約を申し込んできた。
ちょうどアルベルトの進学で学費も必要になり、また領地経営の立て直しに資金が必要だったこともあり、スカーレットはこの話を受け入れた。
もちろん父バスティアンもアルベルトも、スカーレットが身売りするような婚約に反対の意を示したが、スカーレットはそれを押し切る形で婚約した。
しかし、そこで待っていたのは厳しい生活だった。
いざ婚約してみれば、デニスは最初こそスカーレットに興味を持ったものの、騎士道を重んじるスカーレットの性格に嫌気がさしたようで、顔を合わせるたびに苦虫を噛み潰したような表情をするようになった。
「君は口うるさい」「一緒にいると息が詰まる」などと言い放ち、友人たちにもぼやいていた。
そのうちラウダーデン家のしきたりを教育するという名目で、スカーレットはラウダーデンの屋敷に住むことになり、義母の監視下で行儀やら作法やら、更には領地経営まであらゆることを叩き込まれた。
ヒステリー持ちの義母は些細な間違いや失敗でも金切声を上げてスカーレットを罵倒することもしばしばだった。
それだけではなく、理不尽に叩かれることもあったし、食事抜きもしばしばだった。
そのため、スカーレットはみるみる痩せていき、デニスからは「貧相な体だ」と言われて更に倦厭されるようになった。
しかしその一方で、デニスの両親――特に義母からは「デニスの支えになるのが貴方の役目だ」「デニスに好かれるように努力しろ」「ラウダーデン家に恥をかかせたら資金援助は打ち切る」と言われてしまっていた。
それゆえスカーレットは苦手だった刺繍も頑張ったし、嫌な事を言われても微笑みでやり過ごしたり、どんなに理不尽なことがあっても彼の顔を立て、彼の一歩後ろを歩くような彼好みの慎ましやかな女性になるように頑張ったのだ。
そうやって自分を押し殺して、デニスに気に入られる女性になろうと努力したつもりだった。
それなのにデニスはミラ・ジルベスター伯爵令嬢に心変わりした。
目を瞑れば今でもあの婚約破棄を告げられた時の光景が鮮明に思い出される。
あの日、夜会会場に着いたと同時に、スカーレットは燕尾服に身を包んだデニスに人気のない場所に連れて行かれた。
その先に立っていたのは一人の可憐な少女だった。
名前はミラ・ジルベスター。
水色の淡い髪とパールのような乳白色の滑らかな肌のミラは、デニスのアクアマリンの瞳に合わせた薄い水色のドレスに身を包んでいた。その姿はとても可憐で、まるで妖精のようにも思えた。
デニスはミラの元へと駆け寄り、その肩を抱くと冷たい目でスカーレットを見据え、そして婚約破棄を告げたのだ。
その理由はスカーレットが他の令嬢の財布や髪飾りを盗んでその罪をミラに擦り付けたり、頭から水を掛けたり、仕舞いにはミラのドレスを破いて虐めていたというもので、デニスは声を荒げてスカーレットを詰った。
その様子を見ていたミラは「スカーレット様は私がデニス様を好きになってしまったから……あのような事をなさったのですよね。……私がスカーレット様を追い詰めてしまったのだわ」
などと言ってさめざめと泣く始末だ。
泣きたいのはこちらの方だった。
「君の悪行は皆周知の事!」と言い切ったデニスから詳細を聞くと、社交界ではミラの件が噂されており、「スカーレットはミラを虐める性悪女だ」と言われているらしく、スカーレットはもう婚約破棄を受け入れざるを得ない状況に陥っていることを知った。
だからスカーレットは口惜しさを押し殺して微笑みを浮かべ、「お幸せに」と2人に祝福の言葉を言ってその場を後にした。
振り向きざまにチラリと見れば、デニスとミラが腕を絡ませてパーティー会場へと向かって行くのが見えた。
2人が連れ立ってパーティーに行けば、それは言外にデニスはスカーレットと別れたと主張していることになる。
同時にミラを婚約者としての扱うことで、スカーレットが婚約破棄されたのだとパーティーの参加者に周知されることにもなる。
今まで我慢に我慢を重ねてきたのに全ての努力は水の泡となり、失意のうちにスカーレットは屋敷へと帰ることにした。
一歩一歩歩くたびに涙が溢れてきて、しとしとと降りだした雨がスカーレットの涙を包むように頬を伝った。
雨は勢いを増し、傘を持たないスカーレットのドレスを通して雨水は素肌へと伝わり、体をどんどんと冷やしていく。
もうこのままどうなってもいい。
そう思って肩を落として歩くスカーレットが大通りを横切ろうとした時だった。
「危ない!」という声がしてそちらを見るのと同時に、馬車のガタガタという車輪の音と馬のいななきが耳に入り、気づいた時には馬車が目前に迫っていた。
轢かれると思った次の瞬間には、スカーレットは地面に投げ出されていた。
朦朧とした意識の中「事故だ!」「救護を呼べ!」という人々の騒ぐ声が聞こえた。だが意識は黒に染まり、深い深い闇の中へと落ちていったのだった。
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少し長いお話しになるかと思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです!
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