第八話 異世界、行っちゃうのかよ?(二)
そしてその翌日、午後七時。大森亜也子が指定してきた銀座のその店は、いったいどんな高級料亭かと思いきや、目の前の鉄板で職人が肉を焼いてくれるタイプのステーキレストランだった。
とはいうものの、その品質と腕は確かなもので、まさしく名店と呼ぶにふさわしい味とサービスであった。品書きなどもないため、今夜のディナーの勘定がいくらなのかまではわからなかったが、土建屋の営業部長の俺ですらちょっと手が出ない金額であろうことは間違いない。さすがに彼女は、億を超える取引をこなす腕利きの個人投資家なだけはある。
そんな最高級の霜降り肉を、亜也子は美味そうに何枚も平らげていった。俺のカミさんだったときから食うことと飲むことが好きな女ではあったが、体重が三桁を優に超えていると思しき現在は、その食いっぷりにもますます拍車がかかっている。まったく、胃袋の大きさならあのエルミヤさんといい勝負かもしれない。
――ん? なんで今、エルミヤさんのことなんか思い出してるんだ? 俺は。
「それでね、竜司くん」
「お、おう、なんだ?」
ひと息ついた亜也子が話しかけてきたので、俺も素に戻って返事した。
「本題に入らせてもらってもいいかしら」
「ああ。お前が社長をしている、なんとかっていうゲーム会社にヘッドハンティングしたいって? 俺に何をやらせる気だよ。パソコンやスマホだって満足に使えねえってのに」
「うーん。まあわかりやすく言えば、私のボディーガードね」
亜也子は、シャトー・マルゴーが注がれたグラスを傾けながら言った。
「ボディーガードぉ?」
「そう。守ってほしいのよ、この私を」
ここに来る前から、求められているのはおそらく頭脳労働でなく、この肉体を使った仕事であろうことは察していたが、それにしても元嫁のボディーガードとは。そもそも、こんなに恰幅の良すぎる女が身の危険を感じることなんてあるのか?
「あー、そんなの私に必要ないって思ってるでしょ?」
俺の心の声を察してか、亜也子は口を尖らせながら続けた。
「一日中、自室に閉じこもって投資してた時と違って、いまや私は複数の会社を経営する実業家なのよ。治安の悪い海外の取引先に出向くことだってあるし」
「そんなもん、専門の用心棒でも雇えばいいだろう。どうして俺なんだよ?」
「実際、これまでにも何人か務めてもらったんだけど、体力的にも実力的にも物足りない男ばっかりでね。てんで頼りにならないの。その点竜司くんなら、外見も能力も条件にピッタリだし!」
「だからって、よりによって元旦那をボディーガードに使うなんてよぉ……。ってまさかお前、この俺と関係を戻したいっていうんじゃ――」
「ないない、それはない! もー、ぜんぜんない!」
亜也子はすぐさま、手首を左右にぶんぶん振りながら全力で否定した。そこまで言われると、逆にちょっと悲しいものがある。
「しかしなあ……」
ノンアルビールのジョッキをあおって考え込む俺に、亜也子は意を決したように質問してきた。
「ねえ、竜司くん。あなた針棒組から、お給料いくらもらってる?」
「なんだよ、急に」
「私の専属ボディーガードになってくれたら今の倍、いえ、三倍出すわ。どう?」
三本の太い指を立てながら、亜也子は言った。
「どうって……。んなもん、べつに金とかじゃねえし」
「あえてハッキリ言わせてもらうけど、今どき武闘派ヤクザなんてもう時代に合わないわよ。いつまでも続けていける商売とは思えないけど」
「そんなこたあねえよ」
反射的にそう返した俺だったが、なぜかその言葉には力がこもらなかった。
「そりゃ私たち、夫婦としてはうまくいかなかったけど、人間としての竜司くんが嫌いなわけじゃないの。ねえ、私を助けると思って……」
「…………」
それ以上、俺たちは会話を続けることができなかった。
「とにかく、今すぐ答えを出してとは言わないわ。よく考えて、またいつでも連絡ちょうだい」
「……ああ」
レストランを出た俺たちは、そのまま店の前で別れた。
「今日はごめんなさいね、お時間取らせて。じゃあ、またね」
ハイヤーに乗って帰っていく亜也子を、俺はしばらく見送っていた。
亜也子からのオファーはとりあえず一旦保留にしておいて、俺はふたたび土建屋の営業部長とヤクザの若頭という兼業生活に戻った。
そして今や、任侠界隈での針棒組・軍馬竜司の評判はうなぎ登りとなっていた。なにしろ、新興勢力として悪どく幅を利かせていた泥縄組を、たった一人で壊滅させてしまったのだから(正確にはほぼ、エルフの魔女・エルミヤさんの手柄なのだが、そんなことを知る者は誰もいない)。
そんなわけで、関東のさまざまな勢力から針棒組と手を組みたいという誘いがひっきりなしにやってきている。だが組長も俺も、そうした申し出はすべて丁重に断ることにしていた。何事も出すぎず、分をわきまえる、というのが針棒組の昔からのやり方だ。
一方で、俺は例の女の子たちとも、そこそこうまくやっていた。
尾形向日葵は奇行もめっきり減り、たまに映画を観にいく仲にまでなった。
「グンバリュージ、次これ観るっス! あ、デート代はキッチリ割勘っスよ」
前園優ちゃんとは最近、オンラインゲームとやらを一緒にプレイしている。
「大丈夫ですよ、竜司さん。私が『ドラファン』をイチから教えてあげます」
千石粽子は整備士として多忙な中、俺と阪神を応援するのが楽しみらしい。
「今年は絶対、日本シリーズ進出や! そしたら甲子園行こな、竜ちゃん!」
針猫小虎は日々、花嫁修業に磨きをかけている。幽霊克服も大きな課題だ。
「竜司! 新作料理、また作りに行くね。え? お泊りはまだちょっと……」
おっと、いちおう俺自身の名誉のために断っておくが、今のところこの中の誰ともいわゆる「深い仲」にはなっていない。べつに、そこまで折り目正しい人間というわけでもないのだが(まあヤクザだしな)、なんとなくそんな気になれないといったところか。
そんなこんなで、俺の毎日は平凡かつ慌ただしく過ぎていった。そしていつの間にか、つねにそばに寄り添ってくれていたあのエルフの魔女のことを、俺は忘れかけていた――――
続く




