第六話 男ヤモメに花が咲いちゃう?(一)
「それで? 何か俺に用でも……」
俺はなるべく平静を保つように努めながら、電話の向こうの元女房に問いかけた。
「んん、べつに用事ってわけじゃないんだけど。携帯を新しくしたもんだから、試しにちょっとかけてみただけ。変わってないのね、竜司くんも電話番号も」
この「竜司くん」呼びも、あの頃のままだ。一応、歳は俺の方が彼女より二つほど上である。
「ねえ、今もまだあの部屋で独り? それとも、だれかと一緒なの?」
立て続けにそう聞かれて、俺は思わずギクッとした。べつに、なにを隠すことも恥じることもないはずなのだが。
「いや、俺だけだ。相変わらずの鰥夫暮らしさ」
「ふぅーん、そ。……まあいいわ。竜司くん、どうもお邪魔しました。またね」
そう言って彼女は、一方的に電話を切った。携帯の画面に表示された「通話終了」の文字を確認すると、俺はふうっと大きなため息をついた。なぜか、彼女の発した「またね」という台詞が、頭の片隅にこびりついたように離れなかった。
「あの、リュージさま……。お電話、元奥様でいらっしゃいましたか」
いつになく神妙な面持ちで、エルミヤさんが話しかけてきた。
「ああ。こうして直接話すのは、去年離婚して以来初めてのことだけどな」
大森亜也子。今年、三十一歳になったはずだ。
新宿の飲み屋街で(あの頃の俺は、今より酒量も多かった)偶然に知り合った俺たちは、お互い親兄弟のいない独り身同士。たちまち意気投合して、気がつけばなんと三日後には、婚姻届にハンコを押していた。
初めて枕を共にした夜、亜也子は俺の背中に彫られた昇り竜を見てもまったく動じなかった。それどころか、俺のようなヤクザ者と籍を入れることすら、何ひとつ躊躇してはいなかった。
彼女は、俺が生涯で一度も出会ったことのないタイプの女だった。よく笑い、よく泣き、よく怒る。いつも凛としていて奔放で。そして――何より、美しかった。
「リュージさま、愛してらしたんですね、亜也子さまのこと……」
エルミヤさんの言葉に、ハッとして俺は我に返った。別れた女房の話を長々とするなんて、そんなつもりはなかったのだが。彼女は意を決したように、さらに問いかけてきた。
「でも、どうしてそんな方とお別れに?」
「まあ、いいじゃねえかそんなこたぁよ」
そう言って早々に話を切り上げようとする一方で、手にした携帯の電話帳に今かかってきたばかりの番号をそっと登録し直している俺だった。
翌日の朝、針棒組の事務所に出社した俺の携帯に、針猫小虎から電話がかかってきた。めずらしく、ずいぶんと申し訳なさそうな声である。
「竜司、昨日は勝手に帰っちゃってごめんね! ……いやあ、なんか急に実家に忘れ物しちゃったの思い出してさあ。ホント、私ったらうっかりさんよねぇ。えへ」
「そうか」
「それでね、よーく考えたんだけどぉ。やっぱり竜司の家で一緒に暮らすのは、ちょぉーっとまだ早いかなぁって。え? ううん、気にしないで全然ぜんぜん。べつに今はほら、焦らなくても、ね。……あ、それから、そっちに持ってった私の荷物はまたこんど取りにいくからさ、しばらく預かっといてほしいんだけど……」
「わかった。いいぜ」
こうした会話のあと、最後に小虎は声量を最小限にして尋ねてきた。
「……それでさあ、竜司。あの部屋だけど……引っ越す気、ない?」
小虎からの電話を終えたあと、俺はふと隣の秘書席に座っているエルミヤさんを見た。いつもならデスクのパソコンで、お気に入りの動画サイトの巡回がお決まりだったが、今日はそんな素振りも見せずに俺の方をずっと見つめていた。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
そう言ってエルミヤさんは、そっと視線を落とした。
明るい笑顔が持ち味の彼女だが、どうも今日は溜め息をついたり、なにかを考え込むような表情をしたりすることが多い気がする。その理由が俺に関係することなのか、またはそれ以外なのかはわからない。
その時、デスクの電話が鳴った。
「はい、株式会社針棒組でございます。……あ、はい、こんにちは! ええ、少々お待ちください」
受話器を取って応対したエルミヤさんは、通話を保留にすると俺の方を向いて言った。
「リュージさま、前園優さんからお電話です」
「優ちゃん? 安か郎の?」
俺は受話器を取ると、応答ボタンを押して電話に出た。
「あ、竜司さんですか? 優です。ごめんなさい、私、竜司さんの携帯ってわからなかったので」
「おう、めずらしいな優ちゃん。なんだい?」
「あの、折り入って竜司さんにお願いがあって」
「お願い?」
「はい。うちの母が仕事先から、グランド・インペリアルのディナービュッフェの招待券をいただいてきたんです。今週の日曜日が最終日なんですけど、お食事がすっごく豪華らしくて。私ぜひ行ってみたいんですけど、高校生は保護者同伴でないとダメなんですって」
「まあ、一流ホテルだとそうかもな。お母さんは一緒に行ってくれないのかい?」
「その日は出張と重なっちゃってて、どうしても……。私、竜司さんのほかに大人の人って知らなくって……。それで不躾なお願いなんですけど、私に付き添っていただけないでしょうか?」
「俺が?」
たしか、優ちゃんのところは母子家庭だ。ほかに保護者になりそうなあてもないのだろう。バイト先のスーパーの店長ってわけにもいかないだろうし。
「んー、しかし……」
「急な話で本当に申し訳ありません。あの、あらためてまたお電話しますので、ご検討いただければ……よろしくお願いいたします!」
そう言って、優ちゃんは電話を切った。
しばらくすると、またベルが鳴った。続けて、エルミヤさんが受話器を取る。
「リュージさま、千石モータースの粽子さんからです」
「あ? チマキ?」
「もしもし、竜ちゃん? 粽子やけど。しばらく会うてへんけど、元気やった? ごめんな、突然に」
「いや、大丈夫だ。どうしたチマキ」
「あんなぁ、巨人-阪神戦のチケット買うたんやけど。よかったら東京ドーム、一緒に観にいけへん?」
「あー、野球の試合か。……ちなみに、いつだ?」
「こんどの日曜のナイター。大声で応援したらスカッとすんで! なあ、行こ? あ、あいにく切符は二枚しかあらへんさかい、エルミヤさんは悪いけどお留守番な。じゃ、また連絡するから。ほななー!」
言いたいことだけ早口でまくしたてたチマキからの電話が切れた瞬間、またまた呼出音が鳴った。
「リュージさま、今度は桜町交番のオガタ巡査さんからです」
「なんだって? マジか?」
「あー、正義の警察官こと尾形向日葵っス。いきなり職場に連絡なんかして、お邪魔さまっス」
「……なんだオガタ。いったい俺に何の用だ」
「じつは、とある伝手から『ヤクザ・バラッド2』のプレミアム試写会のペア入場券を手に入れてしまったっス。今週末の夜なんスけど、アンタさえよければ特別に連れてってあげてもいいっスよ」
「は? なんで俺がお前と映画観にいかないといけねえんだよ」
「おや。そんなクチ聞いていいんスか? グンバリュージは本官に大きな借りがあるっスよ」
「借りだと?」
「この前、闇金の逝鳴賭市と深夜の首都高で競争したっスよね。逝鳴は逮捕したっスけど、アンタのほうは本官の個人的な判断で見逃してやったっス」
なるほど、たしかに俺たちにはなんのお咎めもなかったが、そういうことだったのか。ていうか、コイツのどこが「正義の警察官」なんだ?
「そんなわけで、考えておくっス。バイならっス」
ガチャ切りされた受話器からは、ツーツーという機械音のみが聞こえていた。エルミヤさんは頬杖しながら、黙って俺を眺めていた。
続く




