第四話 ド・ド・ドリフト大爆走ッ!(二)
「ああ、本当は昨日取りに来るつもりだったんだが、遅くなっちまった」
「ううん、こっちは別にええねんけど……ん? その娘、どなたはん?」
「どうもはじめまして! 私、エルミヤと申します」
助手席から姿を見せたエルミヤさんは、いつもの笑顔で元気よく挨拶した。
「へぇ、エルミヤさんって言わはるの?」
「あー、この娘はな。ほら、俺んとこの事務所の雷門伍道、知ってんだろ? じつはアイツの遠縁の親戚にあたる娘でな。故郷はヨーロッパのほうなんだが、どうしても日本でいろいろ勉強がしたいからっていうことで、今住み込みで俺の秘書をやってもらってんだよ」
俺はここぞとばかりに、あらかじめ考えておいたエルミヤさんの偽プロフィールを語った。勝手に名前を出した伍道には悪いが、奴もわりとバタ臭い顔をしてるし、一応はもっともらしく聞こえるだろう。
「あーはいはい! 伍道さんって、舶来のスーツ着て小洒落たオッチャンやろ? いっつも品のええストールとか首に巻いてはるし。そういえば、この嬢ちゃんも外人さんっぽい顔してはるもんなあ。その格好も、まるで今にもホウキに乗って空飛びそうやん、ホンマに」
(別に、ホウキがなくても飛べますけど)
(うん、そいつはちょっと黙っとこうな)
「ていうか住み込み、ちゅうことは何? いま竜ちゃんと一緒に暮らしてんの? 大丈夫か、こんな若くて可愛いらしい娘とやなんて。竜司、まさか手ぇ出してへんやろなあ?」
「出すわけねえだろ」
「いつもリュージさまには、大変よくしていただいております」
「ふーん、そうなんや。まぁ困ったことあったら、なんでも言うてな! あ、ウチは――」
とその時、エルミヤさんは右手を挙げて、彼女の言葉を制した。
「あ、ごめんなさい。ちょっとよろしいでしょうか? 私、今日こそ名誉挽回したいんで。お姉さんのお名前の漢字、できましたら私に読ませていただけませんか?」
「ほーん、そういうことなん? でも、ウチの名前はかなりムズイでぇ? 外人さんに読めるかなぁ」
エルミヤさんは、彼女が胸ポケットから取り出した名刺を受け取り、まじまじと見つめた。
「ちょっとお待ちください……『千石』、までは読めるんですけど……下のお名前のほうは……『粽子』? あー、見たことない字ですね。えぇーっと……うーん、ごめんなさい! 降参です」
そう言って、申し訳なさそうに頭を垂れたエルミヤさんに、勝ち誇ったようにニッコリしながら彼女は言った。
「まあ、せやろな。日本人でもウチの名前、初見で読める人はまずおれへんわ」
「……あの、なんてお読みするんですか?」
「――それはな、『粽子』っていうんや、お嬢ちゃん」
「ちまき?」
背後からの、もう一人の関西弁ネイティブの登場に、エルミヤさんは少し困惑しながら振り返った。
「ほら、今ちょうど来よったんが、ウチにこの名前付けた張本人や」
「なにしろ五月五日、端午の節句生まれやったからな。男やとばっかり思てたから、女の子の名前はちぃとも考えてへんかったんや。しゃあないから、ちょうどその日卓袱台の上に載ってた和菓子の名前をそのまま付けて、粽子。ものの五秒で決まったで」
餅米の団子を笹の葉で巻いた粽子は、関西人にとっては柏餅よりもポピュラーな、こどもの日の和菓子である。
「粽子さんのお父さまでいらっしゃいますか? 失礼いたしました。私の名前は、エルミヤと申します」
「ようお越し、エルミヤちゃん。ワシは千石達吉や。竜司も、よう来たな」
「ああ。車の点検が終わったっつうんで、取りに来たぜ、達吉つあん」
この「達吉つあん」は、自動車修理工場「千石モータース」の経営者であり、親兄弟のいない俺を子供の頃からかわいがってくれている顔なじみだ。
歳は五十半ば、短く刈り込んだ頭には白いものも目立つが、見た目の通り寡黙で頑固な腕利きの職人である。ともに大阪から上京してきたカミさんには、十年ほど前に先立たれており、今は一人娘の粽子とこの修理工場を切り盛りしている。
「おう、こっちや」
達吉つあんは手招きして、俺たちを店の奥へと連れていった。そこには、慣れ親しんだ愛車――ハコスカが俺を待っていた。
「これって、リュージさまのいつものお車ですよね! いつの間にか形が変わってたので、どうしてだろうとは思ってましたけど」
「あれは、代車のプリウスな。定期点検で、ここに預けてたんだ」
「そうだったんですか」
「で、どうだチマキ、とくに問題はなかったか?」
「うん、大丈夫やで。タイヤもエンジンも異常なし。オイルとエレメントだけ交換しといたわ」
「わかった。ご苦労だったな」
そんなやり取りを聞いて、エルミヤさんは不思議そうにたずねた。
「あの、もしかして粽子さんがご自身で、このお車の点検をされたんですか?」
「は? そら、もちろんそうやん」
「っていうか、廃車寸前だったこの車をまともに走れるようにしたのは、このチマキ一人の力なんだぜ」
「ええ~っ? 本当ですか?」
驚くエルミヤさんを前に、俺はチマキの肩をポンと叩いた。
日産スカイラインの三代目。その角ばった特徴的な外見から、俗に「ハコスカ」と称されるこのシルバーの4ドアセダンが発売されたのは、じつに一九六八年のことだ。俺が生まれるはるか前であり、達吉つあんですらこの世に誕生していたかどうか怪しい。
そんな骨董品のようなハコスカは、達吉つあんにとって秘蔵の宝物だった。カーマニアならば千金を積んでも惜しくない垂涎の逸品を、達吉つあんは俺のような任侠の若造に格安で譲り渡してくれたのだ。
その経緯については、かなり長くなるので割愛させてもらうが、一言でいえば達吉つあんが俺のことを「男として気に入った」から、ということらしい。
「だがな、さすがに半世紀前の年代物だ。運転どころか、自動車としての安全性に問題ありってんで、ほっとけばそのまま廃棄処分になっちまうとこだったんだ」
「それをウチが何年もかけて、少しずつ修理して改造して、ちゃんと走れるようにまでしたんや。内部構造の強度も現行の基準にまで上げてるし、最新の部品や装備もぎょうさん使うてるから、見た目は古いけど最新の車にも引けを取らん性能やねんで?」
チマキは誇らしげにそこまで言うと、手にしたコップの麦茶を飲んだ。俺とエルミヤさんとチマキは、工場の隅に置かれたテーブルにつき、しばしの歓談中だ。なお達吉つあんは、所用のためどこかへ出かけてしまっていた。
「すごいです! 粽子さん、お若いのにすばらしい技術を持っていらっしゃるんですね」
「そういやチマキ、いくつになったんだっけ?」
「ウチ? 今年でちょうど二十歳や」
男勝りだが、さっぱりとしていて人付き合いのいい性格の千石粽子。俺はかつて、赤ん坊だった彼女のおしめを替えたことだってあるのだが、気がつけばその娘がもう二十歳とは。感慨深いことだ。
「ウチ、二歳のころからもう機械いじりしとったからな。せやから、こう見えても整備士としての実務経験は、十八年のベテランやねんでぇ」
「ヒマさえあれば、車の下に潜ってたからなあ。今は、そのデッカい胸がつっかえて邪魔なんじゃねえか?」
「もう! 何言うてんの? セクハラやで竜ちゃん!」
「悪い悪い。チマキも、大人になったっていうこった」
化粧っ気のない顔に、オイルで汚れた整備士のツナギ。長い黒髪は大雑把にポニーテールでまとめている。
だが彼女自身が持つ素材の良さは、俺も大いに認めるところだ。ボタンがはち切れんばかりのその豊かなふくらみも、もちろん彼女の魅力の一つと言える。
お転婆少女だったチマキは、俺の知らないうちに、本当に綺麗になった。
「――そしたら、これ車の鍵。竜ちゃん、なんかあったらいつでもウチに持ってきてや?」
「ああ。それじゃチマキ、世話んなったな」
「失礼いたします、粽子さん」
俺たちは、チマキ入魂の作品である名車・ハコスカに乗り込むと、千石モータースを後にした。いつもと変わらぬエンジンの吹き上がり音に、俺は十分満足していた。
「どうだい、この音! やっぱいい車だろ? これ」
「あ、私はどちらかというと前の車が良かったです」
続く