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春の追憶

作者: 黒森牧夫
掲載日:2021/08/15

 ぐったりと疲労困憊した様に横たわる稜線の頭上にはまだ(かぐろ)の黄昏の残照が不吉に(わだかま)っていたが、その更に上に覆い被さっている夜の領域では、黄色い下弦の月が、耳には聞こえぬ絶叫と共に目覚めつつあった。大気は充満する生の匂いと、それ故に腐敗と汚穢の兆候とで溢れ帰っており、噎せ返る様な濃密な春の雰囲気(ムード)が、何か来るべき災厄の間近いことを仄めかしている様にも見えた。今だ死せざる過去の幻影が、或いは、私が直視しようとはしない陰微な力が過去だと思い込みたがっているのであろう悲哀と喪失の幻影が、またぞろちくちくと胸の側面の辺りをいたぶり始めたので、私は飽きもせず襲い来る焦燥に駆り立てられる儘、不愉快な夜の中へと飛び出して行った。心や精神と呼ばれるものが肉体や脳の中だけに閉じ込められていると考えることは誤りだ。心は世界との出会いと繋がりによって成り立っている。だから私は自分の心を捜しに行ったのだ、この狂おしい春の中へ。世間では夕食(どき)をもう過ぎていた筈だが、川沿いの公道には夜桜を見に来た花見客達が所々に集中して座敷を広げており、死化粧の様に真白い(おもて)を重苦しく項垂れる木々の間で、何か人ならざるものの悲鳴を思わせる喚き声を発し乍ら、談笑と思しきこと等を繰り広げていた。

 亡霊らしからぬ生き生きと生々しい声で私を責め立てる空白は、過去の様々な情景や情念を引き連れて、埋められるべき所が今だ放置された儘であることを執拗に思い出させようとして来たが、私が反撥と憤りに任せて胸一杯に居直りの剛直を大気から補充している間に、それはやがて彼の声と顔へと変じ、切々と形に成らぬ訴えをその瞳と波動で訴えて来た。日差しの暖かい埃っぽい無人の図書室での秘められた戦きと陶酔、山の坂道の頭上に広がる夜明けを押し止めている様な恐るべき闇の夜空に浮かび上がった、暗示や仄めかしと呼ぶには余りにも明瞭精妙に過ぎた巨大な回答、或いは宙に投げ出された意味、まるで関係の無い筈の萌え盛る山道での突然の強烈な喪失感、不可解にも投げ込まれた無限反照の深淵と未成熟な三角関係、それにあの年月を通して貫かれた無言と無為………そうしたことどもが入れ替わり立ち替わり目紛しく訪れては私を翻弄し、特に何を言うでもなく、また私に何かを言わせるでもなく、理不尽で強迫的な笑みと、シシュポスのそれの様な凄まじい眼光とを残して次々と去って行った。私は憤然とそれらを撥ね除ける風を装い乍らも、その実、それが虚勢に過ぎず、肋骨の辺りに燻り続ける猛然たる悔しさが何を意味しているのか理解してもいた。私は抉り取られていたのだ。現実である筈も、またあった筈も無い虚妄が如何なる現実の事象よりも更に激しく深刻に、私の魂の一部を持ち去ってしまっていたのだ。誤魔化しは利かなかった。真実は、私は二重の敗北者であって、身動きすることも、身動きしないでいることも、共に私には許されておらず、屈辱的にしてしかも解決法が全く存在しない、出口無しの陥穽に嵌り込んで、延々踠いているのだと云うことなのだった。

 仮に、私と彼とが特別な関係だったとしよう。それが双方向的なものであったかどうかはともかく、少なくとも私にとって、確かに彼は特別な存在だった。だから、そう言ってしまっても間違いにはならないと思う。彼は私にとって全く新しい世界への扉を開いてくれた鍵にして、それまで予想どころか想像すらしていなかった恐怖の奈落を無理矢理に覗き込ませた忌むべき怨敵であった。私が彼に対して感じた絆と云うか結び付きは逃げ出すことも拒否することも叶わない、かと行って玄妙な蠱惑や背筋を駆け上がる様な恍惚を感じないかと言えば全くそうでもない、実に厄介な二重的性格を有していた。彼はミューズであると同時にセイレーンでもあり、ヴィーナスであればゴルゴーンでもあった。

 だが思い起こしてもみよ、彼がこの地上から、少なくとも私からは永久に手の届かない存在に、失われた存在になってしまったことを知った時、私はどうしたろうか? あの重い乱積雲が垂れ込めるむっと蒸し暑い小雨のぱらつく夏の日の午後、あの葉書を受け取って路上で立ち尽くした私は、そこで一体何をしただろうか? そう、私は喜悦に身を震わせたのだ。私の憂愁がこでれひとつの完成した形態を手に入れたことに、骨の髄から打ち震えて歓喜と愉悦を露にし、我乍らゾッとする程奇妙な笑い声が漏れ出るのも構わず、締まりの無くなってしまった口許を歪ませたのではなかったか? それは否定し様の無い事実で、確かに数瞬、私は呆然とはしたけれども、それは悲嘆や絶望や悔恨や嫉妬が後に続くものではなくして、見事なまでにがらんどうの巨大な喪失感に支えられた随喜を導くものに他ならなかったのだ。あの時私は雨に打たれ乍ら涙さえ零していたが、それは悲しいからではなく、ゾクゾクする程興奮していたからだった。私の(はらわた)はその時煮え繰り返ってはいたが、それはその激情に身を任せる為のものではなくして、その激情を私の企みを味付ける素晴らしいスパイスにする為だった。私は自分の狂乱を利用したのだ。観察者に、傍観者に、この世界の何事かについて口出しをする権利は無いし、またそんなことをすべきではない。何故なら真の充足は目に見える事象にではなく、その事象が欠如し存在しなくなる最果ての、誰にも夢見られたことが無い、彼方の地平にこそ存在しているからだ。あの日私は自分がこの地上に属する者ではないことをはっきりと悟った。カエサルのものはカエサルへ、地上のものは地上へ。だが何時も星ばかりを見詰めて生きている者は、星空にこそその真の慰めと喜びを見出すべきではないのだろうか? 凶暴な哄笑はあの時全世界に向かって高らかに宣言したのだ、私はこの世界から失われていると。

 実際、あの煩悶に満ちた十数年の歳月を閲して、その鮮度を減じずに私の核と成って残ったのは、甘酸っぱいときめきでも、切ない焦がれでも、惑乱した疎隔感やあさましい嫉妬や独占欲でも、一人の人間をこの様な眼差しで見ることが出来るのかと知った驚愕が引き起こした不安と戦きでも、抑圧と意図的な昇華によって生み出された一時の法悦でもないではないか? 絶対的な美と、全てを凍り付かせる圧倒的な恐怖………それこそが、私があの経験を、あの関係を、あの目眩めく発見を通して最終的に獲得し、背負ってしまったものではないのか?

 私は彼の、時に眠そうな、時にぎょっと驚いた様なやや大きい目を憶えていた。常に何か罪悪感を感じている様な目の下の繊細そうな膨らみと、その下の微かな血色の悪さを憶えていた。彼の、和紙を切り裂いた様な薄い唇を憶えていた。筋の通った細い鼻梁と、頬から顎にかけてのすらっとした曲線を憶えていた。ややカーヴのかかった、淡白だが滑らかな短かめの髪のうねりを憶えていた。彼が怒った時の少し震えた、戸惑っている様な線のほっそりした声や、口籠る時の、ハンカチを丁寧に折り畳む様な口調を憶えていた。白い指の細さや、僅かに数度知っているだけの、ひんやりする様なその感触を憶えていた。笑った時の目許の歪み方や、唇の端から覗く白い犬歯を憶えていた。その華奢な体付きや、座り込んだ時の背中の丸め具合、時折不図ぎこちない仕種を見せる控え目な身振りを憶えていた。だが、私は彼がどう云う人間だったかと云うことを、殆ど何も知らないも同然だった。私は彼が一個人として、一個の人格としてどの様な評価や判断を下すべき者なのか、その根源にある行動原理や気質はどう云ったものなのか、全くと言って良い程理解してはいなかった。彼の心の中にどんな狂気が潜み、どんな憂愁と喜びが、妄執が隠されているのか、私は竟に、確たる洞察を得ることが出来ていなかった。何故ならば彼は人間ではなく人間以上のものであり、それ故に私は、彼に対してどんどん冷淡で無関心で、酷薄でさえもいられたのだ。彼は決して手の届かぬ夜空の星だった。仰ぎ見てそれを目指して飛翔して行くべき彼方の光芒だった。すいと手を伸ばせば折り取ることだって出来る、匂い立つ花々とは全く別次元の存在だったのだ。自問と、暗澹たる確信が続いた。解決不能の問題がまた性懲りも無く棚上げにされ、時間の方が勝手に流れ去って行ってくれるのを凝っと待った。錯乱した結論が出され、執着が、未練が、喪失感と見分けの付かぬ郷愁が、濁った闇に掻き乱された春の夜の中を通り過ぎて行った。

 体が慣れて来て足を速めると、上手い具合に様々の雑念が勃然と湧き上がって来た。私は一体どう云う表情を浮かべたら良いのか分からない儘、未だ訪れてはいない闇の領域を求めて、桜並木の下を混濁して行った。

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