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小五観音  作者: すぱんくtheはにー
6/9

私と友達になってください。

 目頭を強く押さえてサトミは思わず画面から目を離す。

(こんなすごい話を子供向けでやっていたの!?)

 あの滑り込みで行われたカムアウトから1週間、約束通りDVDの2巻を携えたロクと今日は紙パックのカルピス原液を手土産にした倫子が集まっていた。テレビに現在映し出されているのは『魔法聖戦士 リーン&バイン』の第8話である。

 これといった感慨もなく二人と一緒にアニメを見ていたサトミだったが、気づけば身を乗り出して見入っていた。ひょんなことで異世界にワープし魔法聖戦士リーンとなって戦うなかで仲間になった魔法聖戦士バイン、互いに異なる世界からやってきた二人はすれ違うことが多く、そんなおり予期せぬピンチから大ゲンカに発展してしまう……というのが第8話のあらすじだ。

 最初は「ああ女の子向けアニメでありそうな展開か」と思って見ていたのが、お互いを心配するあまり口が過ぎてしまい、謝るに謝れずさらなる誤解から悪気は無いのに追い詰められていく二人の描き方に目が離せなくなってしまった。誰にでも記憶にあるだろう悲しい誤解とすれ違いから修復不可能になる関係、その息苦しさを切々と伝えてくる映像にサトミは胸を押さえてしまうほどの痛みを感じてしまう。

 そして素直になった二人が手を繋ぎ和解する場面で涙が溢れそうになり、サトミは画面から視線を外さざる得なくなってしまったのだ。

(これで20分……!?)

 視線を逃した先で目に入った時計を見ると、第8話の再生をはじめてからまだその程度しか過ぎていなかった。いったいどうやれば30分にも満たない僅かな時間でこんなにも繊細で大胆な心情の変化が描けるのか、サトミは自分の時間間隔が完全に破壊されたか、なんらかの魔法でも使われたのかと思うほどには混乱していた。

(しかし事前にロクからも倫子ちゃんからも「8話はすごい」と聞いていたけど、これほどとは……)

 いまにも泣きそうになっていたのを見られていなかったかと、急に気がついてロクと倫子の顔を覗き込む。それはつまりこの瞬間まで二人のことが意識にあがらないほど夢中になって見入っていた、ということでもある。そのことに少しだけ赤面をしながら並んで座る客人たちを見る。

「うわっ」

 思わず声を上げたサトミをロクが睨む。

(いやこれは声出るって)

 ロクも倫子もただ黙って両目から滂沱の涙を垂れ流していた。それも身じろぎ一つせず。

 涙に伴う鼻水はおろかロクに至っては口の端からヨダレを垂らしている、それなのに泣き声を出したり鼻を啜ったりなども一切せず、まばたきすら忘れてじっと映像に見入っているのだ。

(私ん家なんですけど!?)

 正座した二人のふとももは栓の壊れた顔面からの分泌物を受け止めてしとどに濡れており、足と足の隙間を貫通してフローリングの床に水溜りを作っていることは間違いないだろう。

 一言文句を言うべきか、とサトミは迷う。家主としては当然注意する権利があるし、すべきだということは重々承知している。さりとて鼻を啜る音も、泣き声も、ひいてはティッシュを取る音さえ出さないようにして全身全霊で作品に没頭している人間の邪魔をすることが許されるのだろうか?悩んだ時点でサトミには答えが出ている。

 どうせもうすぐ終わるのだ。全てをあきらめて浮かしかけた腰を下ろす。すでにエンディングテーマが流れているところを見ると、あと2~3分を我慢すればいいだけの話。

「「来週もお楽しみに!」」

 次回予告を〆る最後のセリフが流れ、DVDの再生が終了する。

「ずびぃぃぃいい」

「んずぅぅぅうう」

 それを待っていたかのように二人が盛大に鼻をすする。

「ロ゛グざぁ~ん゛」

「ぐら゛じぎじぃ~」

 そのまま顔を見合わせてひしと抱き合う。自分の大好きなものを、自分と同じ熱量で、自分と一緒に見てくれた……そのことに感極まった情動の行き場を求めて思わずハグし、おいおいと泣き声を上げる。呼吸音さえ抑えていた状態から解放されたことで歯止めが利かなくなった嗚咽は大型動物の咆哮のようでもある。

 サトミはティッシュ箱を掴むとぽこんっ!ぽこんっ!と二人の額を叩いた。

「わかったからまず床を拭いて?」

 そう言われて倫子はロクの体から離れ、正座していた足を持ち上げる。そうやってようやく自分の下に涙と鼻水とヨダレと汗が混じった透明で粘性の高い液体が溜まりになっていることに気づく。

(どうりで足が気持ち悪いはずだ……)

 床を確認する為に上げた足と床の間にその水溜りから透明な糸のようなものが伸びていて、ねっとりと不快な感触が伝わってくる。

「ぼべんなざいぃ」

 普通に謝ろうとしたがまだまだ嗚咽の収まりきっていない喉からは濁音が含まれた言葉しか発することができない。

「いや謝ることではないけどね」

「ぷびーっ!」

 そんなこと知ったことかとでも言うようにロクは差し出されたティッシュ箱から数枚紙を取ると派手に鼻をかみ、その態度にサトミは思わず額をはたく。

「お前は謝れ!」

「差別ブヒー!」

 鼻をかんだティッシュでそのまま顔を拭ったロクは床の惨状を見て、ティッシュだけでは間に合わないのではないかと思案する。

「本当にすいません……」

「ああ、大丈夫大丈夫。怒ってるわけじゃないから」

「どうしても我慢できなくて……」

 泣きに泣き濡れたロクの顔を見ていると、まだ耐えようとしたぶん倫子の方が偉いような気がしてサトミは首を横に振る。

「別にいいのよ」

「違うんです、こうやって一緒に楽しめるのが……昔見たショーを思い出してしまって」

 それを耳にしたロクがピクリ、というには大きすぎる反応を見せる。

「着ぐるみのでござるか!?」

「そうですけど……」

 それを聞いたロクは鼻息荒くスマホの画面をタップする。

「リーン&バインの着ぐるみは火災事故によって早い段階で焼失しているのですよ……完全な形でショーが運営された時期は短くて……行ったのは県内でござるよな?」

 マニアには周知の事実ではあるが、そういったトラブルがあったのは初耳の倫子はこくこくとうなづく。「それなら……」とロクが差し出したスマホでは野外ステージで踊る着ぐるみたちを少し後方から撮影した動画が再生されていた。

「だったらこれが唯一っぽいお」

 幼い頃の記憶だが、確かにこんな場所で見た覚えがある。

「これ、どこなんです?」

「住宅展示場でのショーでござるなぁ」

「ごめんだけど、先に片付けてもらっていい?」

 このまま盛り上がって放置されたり、ましてや追加の体液を巻き散らかされてはたまったもんじゃない……とサトミはロクと倫子が見入っている画面を一度閉じるように促す。手を動かさせるために自らティッシュを手に取り、倫子が作り上げた感動と号泣の痕跡を拭き取りだした。

「その……今日はスカートなんですね?」

 叱られたロクはペーパータオルを探しに台所へ向かったようだが、なぜか鍋やフライパンを動かす音が聞こえてきて不安になってきたサトミは様子を見に行こうと立ち上がったところに、そう倫子から遠慮がちに問いかける。

 立ち上がったときにふわりと舞った布に目を一瞬奪われた倫子は、今日この家を訪ねてから聞こう聞こうと思っていたことを口にする。サトミはその場で少し腰を捻って裾を広げて見せた。

「やっぱり変、かな?」

 薄いグリーンでまっすぐの飾りないストレートなスカートはシンプルで、誰が着てもそれなりに似合うんじゃないかと思わせるものだった。脛の中ほどまである長さも清楚感があってなかなかカワイイ。そこから伸びている足は筋肉質で太く、ごつごつとした印象だがキチンと無駄毛も処理されており、格闘技系のスポーツをやっている女の子なら……確かにトップ選手だろうとは思うが、ありえないほどでは無いように思えた。強いて言うなら足のかかとからつま先にかけてがかなり大きく「これは靴を探すのがすっごく大変だろうなぁ……」というのが印象に残るだろう。倫子は最初見たときのちょっとした驚きと、それでも別に変な感じは受けていないことを伝えたくてふるふると首を横に振る。

「カワイイです」

「ふへっ、ありがと……」

 サトミは予想外の答えに口元が緩み空気が漏れるような笑いをあげてしまう。

「その、サトミさんは女の人……なんですよね?」

「……うん、そう。そうなの」

 どう答えるべきか逡巡したあとに、サトミはできる限り素直で正直な言葉で返した。倫子の聞き方からすれば、恐らく次の質問が飛んで来るだろう。それならば余計な説明をここでするよりも倫子の聞きたいことに誠実にシンプルに答えていくことが、一番理解を得やすい説明になるだろう、と考えたのだった。

「なんていうか、良くないこと言っちゃったら怒ってください」

 この一週間で倫子は倫子なりに調べようとした。とはいえ身近な大人に聞くこともできず、学校の図書室には第二次性徴などに関する一角があってそこにはどうやらほんの少しだけだけれどもそういった事に関する本があることを、横目でタイトルをサッと見る限りでは確認できた。とはいえそのコーナーは誰も近づかないか悪ふざけの男子数名が騒いでいる場所であり、そこから目当ての本を取り出して読むことは躊躇われた。

 グーグルの検索窓に思いつく限りの語句を打ち込んで検索してみたが、なにやらやたらにこっちを子供扱いした文章か、そうでなければ異常にもってまわった言い回しの堅苦しい議論だったり、いやに攻撃的だったり、コメント欄でケンカしていたり、かと思えば恥ずかしくなるほどエッチなイラストが出てきたりと、正直なところ検索すれば検索するだけわけがわからなくなっていった。

「ふふっ、大丈夫。怒ったりなんかしないから」

 サトミ自身は直接なにかをされたり言われたことはないが、自分のような人間がどれだけ失礼な態度を取られ耳を塞ぎたくなるような暴言を吐かれてきたかは知っているし、それは間接的にサトミにも刺さっている。その上で他の人が矢面に立っているのに自分はそこから逃げたことに対する後ろめたさを常に感じていた。自分の取った方法は決して間違っていない、という確信はある。それでも自分と近い人々が傷つけられているのに、自分は何もしていないことが情けなく感じるときはどうしてもある。

 知らない間に握りしめていたこぶしの中が、大量の手汗でにちゃりと不快な感触を訴える。

 倫子の前でこの格好をすること、倫子に対して話すこと。それが彼女なりの折り合いであり、最初の一歩になることを願っていた。

 ようやくキッチンペーパーをロールごと持ってきたロクが床を拭き始める。倫子とサトミの掃除する手が完全に止まっていることに文句を言ってやろうか少し考えたあと、黙ったまま粛々と掃除を続ける。

「体は男の人……?」

「そうだよー」

「心は女の人、性同一性障害っていうのですよね」

 わからないなりに読んだことのある言葉を口にする。

「色んな言い方はあるけどね」

 倫子は少しだけ心配そうな目になってサトミを見る。

「やっぱつらいんですか?その、思ってるのと実際が違うのって」

「私はつらい、ってまでは無いかな……全然サイズの違う服を着てる感じ?別にそれで生活できるけど、不便だし、どうしてもしっくりこない感覚がずっとある。あっ、私は、ってことね。平気な人もいればマジつらい人もいる、みたい」

「サトミ氏は最近まで女性の格好してなかったしにゃ」

 丸めたペーパータオルをゴミ箱に放り込んでロクが言う。話に割り込まれたことよりも急に「にゃ」とか言い出したことにサトミは顔を曇らせた。

「そうなんですか」

「彼女もいたしにゃー」

「えっ!?」

 サトミは振り返り思いっきり睨みつける。

「ええと、体が男で心が女で、それで彼女がいて……」

「ああもうっ順番に話したいのに、バカかお前はっ」

 手元にあったティッシュ箱をロクに投げつける。倫子に向き直ると困った顔を浮かべた。

「どこからいこうかな……基本的に私は女で、外側が男ってだけなのよ。だから心は女っていうのも微妙に違くて……まぁいいや。でね、女の人が男の人を好きになることもあれば、女の人を好きになることもあるでしょ?」

「はい、それはわかります。同性愛ですよね」

「そうそう、だから私は女で女の人が好き。だから彼女を作ったこともあるっていう、そういう話」

 一瞬納得しかけて倫子は首をひねる。

「それって相手の方も同性愛の人、だった……んんっ?」

「うっ」

 そこは誤魔化しておきたかったな、という部分に目ざとく注目され思わず呻きを上げてしまう。

「倉敷氏は賢いぞ」

 ロクが珍しく素の言葉でサトミを注意する。倫子を対等な友人とみなした彼としてはそこを見過ごせなかったのだろう、さっき話しに割り込んできたのも「このぐらい一気に伝えても倉敷氏なら十分に理解可能だ」ということを示すためでもあった。

「その時の彼女はヘテロの、えーと、私を男だとして付き合っていました……」

「えっと、それってつまり」

「騙してました……」

 消え入りそうな声でサトミが答える。

「ちょちょちょ、待って待って。そうじゃないお?ちゃんと説明セイヤッセイヤセイヤッ」

「うー」

(いや「うー」じゃなくて)

 あの時のことでサトミがまだここまで罪悪感を引きずっているとは思っていなかったロクは、踏み込みすぎかとも思いつつその時の状況を自分が喋るしかないと考えた。

「サトミ氏が自分を女性だと思うようになったのはここ数年でござるよ。だから騙してたわけじゃあないんだぜ?」

「でもあの子がいたから気づいたわけで……それは踏み台にしていったようなものだから……」

「踏んづけてったあ!?」

 急に大声になったロクに二人が「何を言ってるんだコイツは」という視線を送る。

「ごめん、忘れて」

「……えーっと、それはその、踏み台っていうのとはちょっと違うと思います。その、私が言うのも変ですけど」

 倫子にだって好きになった男の子の一人や二人はいるが、付き合う、という関係に至ったことは無い。だからそれが何を意味するのかはよく解っていない、なんとなくふわふわとしたイメージでラブラブになったりキスしたりセックスしたりするのだろうか?とは思っているが、実像として理解しているわけではなかった。だからサトミの言う「踏み台」が何を示しているかはわからない、それでも何となく「それは仕方なかっただろうし、お付き合いするなら対等の関係なのだからサトミさんだけが負い目を感じるのは何かおかしい」とは感じていた。

「ありがとうね……」

「それにサトミ氏はモテたからな、あの子じゃあなくても遅かれ早かれさ。クソがっリア充爆発し……ないか、サトミ氏は」

 そういわれて改めて考えると、筋肉質で背も高く顔立ちもそれなりに整っているサトミが男性として人気があったのは確かなようだった。倫子は鍛えられた腕を見てそう思う。その視線に気づいたサトミは少し恥ずかしそうに身を縮こまらせる。

「あっすいません」

 自分のまなざしが彼女を萎縮させてしまったことに倫子はあやまる。

「サトミ氏は気にしすぎでござるよ。腕っ節の強い女性、それはそれでドチャシコでござるよ」

「どちゃしこ?」

 サトミは無言でロクの肩をグーで殴る。

「超カワイイって意味でござ……倉敷氏は記憶から消してくだちい」

(このバカ、調子乗って好き勝手喋ってんな……)

 小学生相手だと思えば逃げ惑うし、さりとて友人と認識すればまともじゃないネットスラングが飛び出すし、コイツには中間というものが無いのかとサトミは苦々しい顔になる。いやだが無いのだ、ロクには振り子の両端しかない。それは彼の最大とも言える欠点であり同時にそれがサトミにとってもっとも心安らぐ部分であった。なにか大層な信念とか理念とか、社会的な問題とかに接続せず友人でいてくれるロクは、サトミにとって大切な「日常」なのだ。

「まぁ実際に結構鍛えたからね……高校生のときはアメフト部だったし」

 部活でアメフトをするのは純粋にスポーツとして楽しかった。戦略性と作戦遂行能力の問われるアメリカンフットボールは肉体も頭もフル回転させなければ試合にならず、その必死に動き続ける中で湧き上がる高揚感は悩みや迷いを溶かしてくれた。だがそれだけに、アメフトというスポーツに楽しさを見いだすほどにサトミの胸には痛みが走ってしまう。

 自分の中にある違和感。「この体」が自分にはフィットしていないのではないか?という、その頃はまだ漠然とした感覚。それを打ち消す為になるべくハードで激しく痛いものを求めた結果がアメフトだった。がむしゃらに体を動かせば、体の動き以外が全て消失すれば、痛みを感じることで身体を強く認識できれば、この「違和感」は雲散霧消していってくれるのではないか?

 サトミがアメフト部に入ったのは、そういったスポーツにまとわりつく副次的なものを求めてだった。だからこそアメフトが好きになっていくにつれて自分が不純な動機で門を叩いたことを後ろめたく思ってしまう。

 そしてアメフトが好きになる気持ちと反比例するように、チームメイトとどうしても馬が合わないのだった。ある種の粗野さ粗暴さを表出する一面のあるスポーツにおいて、男性としての自覚に溢れたチームメイトたちの考えや言動、行いとはどうしても相容れることができなかった。表面上は話をあわせ、卑猥なジョークで笑い、鍛えた肉体を誇示してみせても、その文化や空気に合わせれば合わせるだけ自分の中に荒涼とした気持ちが広がっていくのを感じていた。

 そういった環境の中で「告白されたのなら付き合うだろフツー」という空気に押し流されるような形で交際したのが、未だに申し訳なさの消すことができないある女生徒だった。結局それはサトミの「自分は男だ」という思い込みを強化したいがための行為であり、まともな恋愛感情は無かった。

 それでも楽しかった、楽しかったのだ。

 男性であることを誇示するチームメイトたちから離れて、共感できる心情や好みを持っている人間と過ごす僅かな時間はサトミにとって実際楽しかった。

 だからこそ、同じ後ろめたさが生まれてしまう。逃避先となる副産物を求めて始めたアメフトが好きになってしまったのと同様、ただただチームメイトからの逃避先として選んだ女の子と一緒にいるのが楽しくて好きになっていくことがサトミの心を疲弊させた。

 それでもシンプルな恋愛であるのなら、出会い方が不純でも素晴らしいパートナーになることはいくらでもあるしサトミだってそれを単純に否定するほど朴念仁ではない。ナンパとかコンパとかで知り合った二人が生涯を幸福に添い遂げることだって、それほど珍しいことではないだろう。

 しかしサトミは気づいてしまった。自分がこの子に向ける好きと、自分がこの子から向けられる好きが微妙にズレていることに。

 鍛えれば鍛えるほど、運動する身体が研ぎ澄まされていくごとに感じていた「違和感」は濃くなっていく。それはチームメイトと自分の違いを認識することでぼんやりとした姿しか見えてなかった「違和感」の輪郭が浮かび上がってくるのと同期していた。

(この体は、自分の思う体じゃない)

 そこにいたってようやくサトミは理解する。

 自分は「女」なのだと。

 そう認識した瞬間、全部が腑に落ちたような気がした。実際にはそれだけで全てが解決するわけでもなく、何もかもがその変化だけで上手くいくのではない。それでもずっとまとわりついていた悩みが違和感が苦しみが、一つの答えを得たことでずいぶんと軽くなったことだけは事実だ。

 だがそれは次の悩みへと続く扉でしかなかった。

「でもサトミさんは、普段男の人の格好ですよね?」

「うんまぁ……実際そっちのほうが似合うからね」

 それを聞いてロクは口の端に苦しみの色を浮かべる。

(女性の格好が似合わない、って言いたくないあたりがサトミ氏らしいね……)

 自分の性自認が身体と乖離していることを一番に相談されたのがロクだった。無責任にも見える勢いでサトミに「思う姿になりなよ」と答えたのに対し、「それ以上に似合う格好でありたい」と頑として譲らなかったのはサトミ本人だった。

「自分がしたい格好を堂々としている人はかっこいいと思う……けど、私は……世間に溶け込んでいたい」

「きっちりやれば普通にカワイイと思うのだが?」

「半分はアンタのせいなんだけど!」

 いくら性同一性障害とかLGBTとか名付けられ、そうであることが特殊ではない社会になってきたとはいえそれがマイノリティであることには変わりがない。どうしたってマイノリティであることは(仮に初対面の一瞬だけだったとしても)注目を引いてしまうことになる。それをサトミは好まなかった、自分の好きな姿でいる楽しさと人目を引いてしまうことを天秤にかけた結果として、サトミは自分の体を優先した格好をすることに決めた。

 それ自体はそれほど苦痛ではなかったし、家の中で好きに過ごすだけで十分に心は穏やかだった。

(それが耐えられない人もいる……そういう人を私は応援することしかできない……)

 自分がロリコンだと自覚した上で、愛するものを傷つけてしまう可能性に怯えて女児から逃げ惑うロクを見ているうちにサトミはそう考えるようになった。妥協点と心の安寧を見つけなければいけないのはマイノリティだろうが特殊な性的嗜好だろうが、あるいはそういった悩みを持たない人だって同じことだ。そういった意味では自分にとって心地よい落しどころを早々に発見できた自分は幸運な方なのかもしれない……と、サトミは思うのだった。

「あれ?でもサトミさんは女の人が好きなんですよね」

「そう。私は女として女が好き」

「イチゴ大福みたいなもんだお」

「はあ?」

「ちょっとそれはわかりません」

 良い例えだとばかりに自信満々で出したところを叩きのめされてロクはあからさまに肩を落とす。

「大福は中がイチゴだろうがなんだろうが大福だお。イチゴは大福に入っててもいなくてもおいしいでごさるよ」

 言われた解説を理解しようとして何となくわかったような、どっかズレてるような気がして倫子は曖昧な表情を浮かべる。

「倫子ちゃん、アイツの言うことを真面目に考えるだけ無駄よ……私が誰を好きかってのと、私がどういう人かってのは分けて考えてもらえるとわかりやすいかな」

「なるほど」

 倫子は学習する。複雑に絡み合ったように見える糸でも一本一本は枝分かれの無いものだということと、下手な例えは事態をややこしくするということを。

「じゃあその彼女さんと上手くいかなくなったのは……」

 サトミは小さくうなづく。

「私は女として好きだったし、女として好かれたかった。あの子は男として私を好きだったし、男に好かれたかった。だから上手くいきそうで、やっぱりダメだったのね」

 ただそれは「いま思えば」というやつだった。性自認も性的嗜好もあのときはまだ曖昧だったサトミは、自分が満たされない理由を相手に求めてしまった。解決できるはずのない問題を背負わさせた人間と、解決の仕方がわかっていない問題を抱えた人間の関係が円満なものになるはずもない。

 それでもその女の子とサトミの関係は一年近く続いた。だがそれは自分をまだ男だと思っていたサトミが無理矢理に繋ぎとめていただけであって、二人の間には愛情や親愛などは欠片も残っていなかった。そんな状態で熟成されるのは恨みや憎しみであり、最後には互いに罵詈雑言を浴びせあう相手の人格すら否定するほどのケンカでもって破局した。

 その別れがサトミに自省を促し、その結果として「自分は女だ」という認識と、「女として女が好きだ」という発見をもたらす。そういった意味では互いに傷つけあうことしかできなかったあの関係は意味のあるものであった。だからといってサトミは自分が許せるわけでもなく、むしろ自己認識ができていなかったせいで傷つけてしまったと、なお一層己を責めることとなる。

「だからきっと私は……誰とも上手くいかないと思う」

 男の体を持っている以上、同じ性的嗜好の相手から好かれるとは思えなかった。けれどもサトミは女として、女から愛されたいと願っている。

 それは絶対に存在しない相手と言いきることはできない、それでも少数派の中の少数派だ。きっとこの世界のどこかにいるとしても、サトミがその「女」で出会える確率は奇跡にも等しいものだろう。

 諦めれればもしかしたらもっとずっと簡単で楽に生きて行けるのかもしれない。けれでも可能性が、極小の可能性でも在り得る以上は祈ったり願ったり期待してしまうことを易々と手離せるはずもなかった。

「お二人は……その、似てるんですね」

(もしかしたら一緒にするなって怒られるかも)

 倫子はそう思いながらも、頭に浮かんだ感想をおずおずと口にした。ひたすら女の子から逃げ惑うロクと、誰とも上手くいかないと自嘲気味に離すサトミの姿はほとんど同じ結論を持ち合わせているように見えたのだ。

「ないわー」

「そんなことないよ」

 ほとんど同時に二人は否定の言葉を吐く。

(サトミ氏は立派だからな)

 自分が幸福になるためには誰かの不幸が必須であることを知っているロクは、結局のところ誰かを傷つける覚悟をするかただひたすら逃げ回るしか無いと思っている。そして自分の愛するものを傷つけることが選べず永遠の逃避を選び、それに疲れ気が揺るん瞬間に致命的な間違いを犯してしまうだろう。ロクはそれが恐ろしくて恐ろしくて仕方が無かった。

 だから全てを諦めることにした。情けなく怯えて暮らすことを選んだ。

 そんなロクには決して望みを捨てないサトミの姿が輝いて見えている。

(ロクは強いな)

 自分の思考がごくごくまれな奇跡に賭けるしかない、というどん詰まりに行き着くたびにサトミはロクのことを思う。自分の性的対象である小学生の女の子、それと徹底して接触を避ける姿はつまるところ誰も傷つけないという決意であり、それは自身の幸福を躊躇無くドブに捨てる勇気の産物に見えた。

 それに比べて自分はどうだ。可能性はゼロじゃないだけの細い細い希望にすがりつき、諦めることもできずただ祈ることしかできないじゃないか。幸せになりたかった、そんな未来はやってこないことを認めてしまってはとても生きていけないと思った。

 だから奇跡を願うことにした。望みを捨てられない惨めさを選んだ。

 そんなサトミには全てを諦められるロクの姿が何よりも強く見えている。

「すいません……」

 二人から同時に否定されてしまった倫子はしょげ返る。

「いや、そうじゃなくてね」

「倉敷氏、違うお」

 サトミとロクは顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。この「どっちがよりマシか」という話題は二人の間で幾度も交わされ、その度にちょっとした争いを起こしてきた。「サトミ氏のほうが偉いからっ!」「ロクのほうが凄いでしょお!」と、どちらも「自分の方が相手より全然ダメだ」という主張を頑として譲らない、という形でだ。

 今すぐにでもその互いに褒めあう若干むず痒くて気色の悪い言い争いを再演することは可能だが、勘違いしてヘコんでいる小さな友人の前でそれをするほど愚かではなかった。

「倉敷氏?怒ってねーですよ?」

「うう、ごめんなさい」

「あのね倫子ちゃん、これには色んな事情があってね……そのお互いに「自分の方がダメ」って思ってるの。だからその、似てるって言われると褒められてるような、いや褒められるとは違うかな、なんていうか……」

 上手く説明できなくてもにょもにょとした物言いになるサトミの足を、ロクが軽く蹴る。

「長い」

「うっさいなぁ、じゃああんたが説明すればいいでしょ」

「なんとなく……わかりました」

 倫子は顔を上げて二人に笑顔を見せる。サトミとロクが「似ている」という印象は変わらないどころかより強くなった、がそれはそれとしてお互いに友情とはまた別の尊敬によって認め合っている姿は、自分が簡単に踏み込めるような関係でないことを知る。それぞれがそれぞれの悩みと苦しみを越えてきて、その経緯を歴史を知っているからこそ生まれる親愛と敬意がありその一端を垣間見れたような気がして倫子は得体のしれない幸福感のようなものを感じていた。

「そう?」

「おk」

 貴重な新しい友人を失わずに済んでサトミとロクは安堵の表情を浮かべる。その顔を見て倫子はなぜ自分が二人を「似ている」と最初に感じたのかがわかった。

 恐らく今までたくさんの友人知人と断絶があったのだろう、それは自身の性質に由来するものの結果だ。だからといってサトミとロクは自分の持つ受け入れられ難い性質を変えようとは思わなかったに違いない。自分を変えるぐらいなら周りから人が離れていっても――それは悲しいけれど――仕方が無いと考えた結果だ。

 かといってそれぞれに抱える欲望を解決できる手段なんてなかった。サトミは起こる保証のない奇跡を待つしかないし、ロクは欲求が満たされることを拒否している。それでも自分を変えることなどできないのだ。

 変えることができないものを、変える必要がないと心を定めるのに必要だったもの……それは「幸福をあきらめる」ことだった。

 大小の差はあれ幸福になることを「欲望が満たされる」ことだとするのなら、サトミもロクも幸福になることをあきらめているとも言える。欲望が満たされてはならないと思っているロクはあからさまにそうだし、自分を騙して得やすい欲望にすり変えることを拒んで奇跡に賭けるサトミもまた自ら幸福を手離そうとしている人であった。

 でもそれは仕方無いのだ、満たされない欲望を抱いてしまった自分を変えることはできない。ならば自分を偽って幸福になるか、あるいはあるがままを受け入れ幸福をあきらめるか。

 人は誰だって幸福になりたいに決まっている、倫子は当然のようにそう考えていた。それだけに欲望が満たされるということに人間は弱い。幸福になれるのなら多少の間違いや妥協は悪徳さえたやすく受け入れてしまうだろう、そういった誘惑は短い今までの人生ですら倫子の前に幾度となくあらわれたし、幾度も屈してきた。

 しかし目の前にいる二人は、この人たちは屈しなかった人たちだ、誠実と善意の体現者だ。たとえ幸福を捨ててでも自分の正義に従ったヒーローの姿がそこにはある。

(きっとこの人たちがこうやって戦ってることは誰にも知られないし、感謝もされないのだ)

 倫子の胸に重く苦しい塊が詰め込まれたような感覚、それと同時に目頭を熱くさせる感情が襲い掛かってくる。誰にも知られることなく幸福を捨て戦うということのつらさと、それを是として受け入れ遂行する気高さ。

 自分は何もできない。サトミの欲望を満たせるような人にはなれないし、ロクの欲望を満たしてしまってはもっと彼を苦しめることになる。戦う二人を素敵だと思った、何もできなくて悲しくなった、応援するぐらいが精一杯だ。

「リーンとバインだ」

 思わず言葉になって漏れ出す。

(私が『リーン&バイン』で見た彼女たちと同じだ……)

 そう気づいたらもう限界だった。倫子の目からぼたぼたと大粒の水滴が溢れ出す。

「え、ちょ、倉敷氏!?」

「わ、なっ、倫子ちゃん!?」

 急に泣き始めた倫子に二人は泡を食ってうろたえる。

「なん、でもない、うぐふっ、です……」

 こぼれる嗚咽の間から声を絞り出す。

「わーごめんお?ごめんお」

「とりあえずティッシュティッシュ」

 謝るわ慌てるわ。予想外の事態に混乱した二人がわけもわからずとにかく倫子をどうしたものかとオタオタする。

「いえ、あのっ、ロクさんとサトミさんのせいじゃなくて」

 受け取ったティッシュで顔を押さえ、音を立てて鼻をかむと少し落ち着いてきた。

「その、大丈夫?」

「なんでも言うでござるよ?」

 心配そうに倫子の顔を覗き込む。きっと二人とも自分たちがちょっとした英雄ぐらいの評価をされているとは毛頭思っていないだろうし、そんなことを言われたとしても困惑するだけだろう。それでも倫子はサトミとロクを賞賛したかったし、決して幸福になれないという圧倒的な現実に立ち向かう痛みを癒したかった。

(何にもできない)

 どうやったって倫子の感じた感動を伝えることはできないし、人知れず戦うことを選んだ人たちに伝えていいものかどうかすらわからない。

 だから倫子は二人に抱きついた。片腕をサトミの首に、もう片手もロクの首に回そうとしたが反射的に避けようとするのを感じて腕を組むに留める。そのままぐいと自分の方に引き寄せた。

「どうしたでござるか倉敷氏?」

「倫子ちゃん?」

 くっついた肌から伝わる熱にサトミは驚く。子供というのはこんなにも体温の高い生き物だということを知識ではなく初めて体感した。その温度は得体の知れない安心感を与えてくる、10歳以上幼い子供に抱かれて安心するというのも変な気分でサトミは戸惑いを隠せない。それでも屈託無く抱き合える相手というものに覚えるのは「安心」としか形容できないものだった。

 絡みまった腕を見てロクは甘いものが胸いっぱいに広がる。弾力のある肉体に細い骨、妄想の中では幾度と無く撫で回した感覚が容赦なく上書きされていく。それはやはり誤魔化しようもない性欲だった、ペドフィリアであるロクにとってそれはどうしようもないものだ。それでもこの腕を取る友人をたとえ暴走しようとも傷つけない自信があった、それは初めて生まれた自分への「信頼」だった。

 抱きしめたまま倫子はふるふると首を横にふる。祈りたかった願いたかった、幸福になることを諦めた二人がいつかどこかで「幸せ」になってくれることを。そんなことは何の意味もないことぐらい倫子にだってわかっていたし、所詮は祈ることぐらいしかできないこともわかっていた。それでも、それでも、と願わずにはいられなかった。それは自己満足で、それでいて利他的な「友愛」だった。

「なんでもないです。ロクさんもサトミさんも、私と友達になってください」

 サトミがちらりと隣を見ると、ロクが困ったような嬉しそうな顔でこっちを横目で見ている。

(ああ、きっと私も同じような顔してるんだな)

 目のあったロクが口の端に浮かべた笑みを見て、そう気づく。

「倉敷氏~、もう我らは友ではないですか」

 先に言われたっ、とサトミは苦笑を浮かべる。いや、言われたからなんだというのだ、それがいったいこの暖かな体に包まれた喜びを伝えない理由にはならない。

「私たちは友達よ」

 背中を優しく叩いてみると、倫子の小さな体の中にみっしりと肉や骨が詰まっているのを感じる。それは得がたいものの象徴だった、生きている誰かに屈託無く友と呼ばれること呼べることはサトミにとって決して待ち続けた奇跡ではないけれど、それでも喜ばしい奇跡であった。

「うへへ、ありがとうございます」

 さすがに少し気恥ずかしくなったのか抱きついていた腕を離して倫子が照れ笑いを浮かべる。

「泣きすぎて喉渇いたでござるよ……」

 ロクは中腰に立ち上がると台所へ向かう。彼は勃起していた。

 それは仕方無いことだ、大切な友人であることと性の対象であることは両立するし、これまで徹底的に自分が性愛を向ける相手と接触することを過剰にまで忌避してきたロクにとっては眩暈を起こしそうな刺激である。

(それでも、大丈夫だ)

 冷たい麦茶を飲み干して彼は自分の胸中に刻む。決して倫子に性的な行為をすることは無い、性の対象であることと大切な友人であることは両立するのだから、友人を傷つけずにいることは決して不可能なんかじゃない。

 それは今までただ逃げ回ることしかしなかったロクにとって2つの罪が生まれた瞬間だった。幼い女の子に欲情してしまう罪と、幼い女の子を犯してしまう罪。いままでの彼はその2つを同一のものだと感じていた、欲情するということは犯してしまう可能性を引き受けることであり、その願望は不可分なものだ。そう考えていたからこそ接触することを徹底して避けていた。

 でもそうではないのだ。その二つは繋がってはいるけれども、それでもまったく別のこと。ロクは確かに性的興奮を倫子の肢体に覚える、だからといって何か行動に起こすことはない。それは倫子が大切な友人であるからだ。

 使ったコップをシンクに置いてロクは座っていた倫子の隣に敷いた座布団に戻ろうとする。

「ロクさん、コメンタリーのほう見ましょうよ」

 手招きする少女に、ロクは思わず相好を崩した。


続きます。(次 2019/10/21 20:00 公開予定です)

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